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濱口竜介映画における「ハッピー」の意味とは? 特集上映「ハッピー・ハマグチ・アワー」に寄せて

2016年12月21日 16:11  リアルサウンド

リアルサウンド

特集上映「ハッピー・ハマグチ・アワー」

 『ハッピーアワー』公開から一周年を記念して巡回特集上映「ハッピー・ハマグチ・アワー」が開催中だ。昨年、大作『ハッピーアワー』でさらに一段階飛躍した評価と新しい観客とを得た濱口竜介という監督の過去作品を見返すにはまたとない機会である。


参考:なぜ無名女性たちの演技が国際的評価を得た? 『ハッピーアワー』監督が語る“傾聴”の演技論


 ところで、『ハッピーアワー』をはじめとする濱口作品を1本でも見たことがある者なら、今回の特集タイトルに付された「ハッピー」という形容詞がそのまま彼の作品群の内容をしめすものではないことをすでに知っているだろう。


 適齢期にある男女の結婚を巡る『PASSION』『永遠に君を愛す』にしろ、ある創作物とその製作過程を巡る『何食わぬ顔』『親密さ』にしろ、作品全体の基調をなしているのは、そこにいる人々がなす集団が共にあることの困難さに直面し、諍いと別離とを避けがたいものとして目の当たりにするということだ。決して人々は共にあることの「ハッピー」さをかみしめていたりはしない。あまつさえ『ハッピーアワー』に登場する何人かの人物は、そうした状態を「地獄」と形容してさえもいる。


 だがだからといって、濱口作品に対する「ハッピー」という言葉が、単なる反語や皮肉、韜晦に過ぎないのかといえばそれは違う。やはり彼の作品を1本でも見たことのある者なら、共感や感情移入や物語の起伏を越えた部分で、なんらかの「満たされた」感覚を間違いなく経験するはずでもあるからだ。そしてそうした感覚は、劇中にある諍いや不和や別離と正反対のものであるわけでもない。登場人物が経験したような不幸を観客である自分は回避できたという安堵ではない。


 「ハッピー」とは「アンハッピーではない」状態の総和などではありえない。人々が共にいることの本質的な困難--しかもこの、憎しみと分断と対立とが加速する世の中で--という「地獄」の只中にある人々が、それでもこの場所に居続けるために、あるいは別の場所へと進んでいくために、ふと手を伸ばしたり目を向けたりした先にあるかもしれないもの、そうした意味での「ハッピー」の存在を、濱口作品の登場人物とそれを見る私たち観客は、時として共有するのである。


 だから今回のプログラムの中に、「地獄」とは正反対の「天国」という言葉をタイトルに冠した作品があることは興味深い。『ハッピーアワー』のクラウドファンディングへの参加者特典として企画された『天国はまだ遠い』は現時点で濱口竜介の最新作となる短編である。


 高校時代に死んだ同級生の少女の霊に取り憑かれ、見た目は女子高生である幽霊と奇妙な同棲生活を17年間送ってきた男のもとに、ある日彼女の妹から死んだ姉についてのドキュメンタリー映画を作りたいと連絡が来る……、そんななんとも書きづらいあらすじのこの短編には、様々な角度からこれまでの濱口作品に表れたモチーフの変奏を見て取ることができる。


 中でも特徴的な要素として、主要登場人物三人の内ひとりの姿が、残されたふたりのうちのひとりにだけ見えて、もうひとりには見えないという状況が挙げられる。映画というフィクションのフィルターを介している観客にとってはあまりに明白な事実、つまりそこには三人の人物がいるのだということを彼ら自身全員が共有するために、まさに濱口作品的なと呼んでもいいだろういくつかの装置が必要とされる。


 まず『親密さ』や「東北記録映画三部作」を髣髴とさせるようなカメラを被写体の真正面にすえたインタビューである。だが撮影された画面自体に少女の霊が映ることはない。そこにいる男の身体を借りて発せられる死んだ姉の言葉も身振りも、妹は信じることができない。そこで見えもせず聞こえもしない第三者の存在を信じるために妹が必要とする手段とは、それをあくまで演技として信じるということ、あるいは嘘としてなお信じるというということである。


 彼女がとるこの倒錯的な手段は、どこか私たち観客の立場に似たものがある気がする。同時にその一方で、幽霊として生きる(?)少女の姿にも似たような共感を覚えもする。彼女は妹と会った(話した?)その日の帰り道、こんなようなことを言う。「私は雨に濡れない。雨は見えるし、雨の音も聞こえる。でも雨の匂いを嗅ぐことはない」。まさに映画の観客そのものの感想であるのような彼女のモノローグ。


 『天国はまだ遠い』は、目の前にありながらそれでもまだ遠い、スクリーンの向こうに広がる"映画"へのラブレターのような作品である。映画はそれでもまだ遠く、それでもまだ美しい。(結城秀勇)