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蒼井優と高畑充希、圧巻の演技で示す女性像 『アズミ・ハルコは行方不明』に漂う美しさと虚しさ

2016年12月19日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会

 現在公開中の映画『アズミ・ハルコは行方不明』は、とある地方都市に住む若者たちの物語である。山内マリコの同名小説を原作に、主演の蒼井優と同じ31歳の松居大悟監督が手がけた。時間と空間が入り乱れるポップな映像に合わせて、女子高生、20代、30代手前の青春の足掻きが煌く。彼女たちはどこに向かうのか。女性の底知れない強さを感じると共に、彼女たちの行く先にどこか空しさを感じざるを得なかった。


参考:高畑充希×太賀×葉山奨之×松居大悟『アズミ・ハルコは行方不明』座談会 高畑「出演しているみんなが輝いている映画」


 映画の中に登場する女子高生たちはこちらが怖くなるほどに無敵だった。


 彼女たちが身に纏っていた濃いピンク。あのピンクを身に纏うことに抵抗を覚えるようになったのはいつからだろう。いつから私たちは、何に遠慮して、あのピンクではなく、目立ちすぎない、目に優しい色を身につけるようになったのだろう。そんなことを、映画を観ながら思った。


 春子(蒼井優)や愛菜(高畑充希)をはじめこの映画に登場する女性たちのやり場のない怒りや悲しみを代弁するように男性を襲う女子高生たちは、まるでサイボーグか何かのように「JKだよ」と、突然持てはやされカテゴライズされた自分自身の呼称を言いながら男たちに襲い掛かる。その姿は、いい意味でも悪い意味でも浮いていて、どことなく空しい。


 職場にも家にも居場所がなく、恋人・曽我(石崎ひゅーい)にも振られ、どん底の状態で失踪してしまう28歳の春子。会ったこともない春子の捜索願を元にグラフィティ・アートを作り、彼女の顔をあちこちに拡散して回る20歳のユキオ(太賀)と学(葉山奨之)、そして愛菜。バラバラの時間軸で描かれる2つの物語が、時折グラフィティ・アートを通して絡み合いながら最終的に春子と愛菜という世代の違う2人の女性を結びつける。


 蒼井優の圧巻の演技はもちろんだが、彼女に食ってかかるように演じきった高畑充希がすごい。朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』とは正反対の、田舎に必ず1人はいそうな、若さを無駄に消費しているちょっとおバカで派手な女の子・愛菜。ユキオと付き合っているが全く相手にされず、ユキオと学のグラフィティ・アート作りに関わっていくが、結局のけ者にされ、彼女は彼女で居場所がなく、どん底に陥ってしまう。春子のように失踪することもできず、友人もいない彼女は、本当にどん底なのである。


 キャバ嬢の先輩・今井(菊池亜希子)が妊娠したことを知り、慌てて煙草をもみ消して、「すげー、子供やべー!」と飛び跳ねて喜ぶ姿や、働いているアパレル店でカップルが記念日にペアリングを購入すると知った時の嬉しそうな表情を見るにつけ、愛菜は決して万人が共感できるキャラではないが、あまりに愛おしい存在だと感じる。だからこそ、彼女が傷つく姿を見るのは切ない。


 いつも何らかの棒状のものを咥えて所在無げに佇んでいる警官(加瀬亮)から見てとれるように、この町には本当に何にもない。停滞した、これと言った事もない町で、介護疲れの母親と認知症の祖母と、凝り固まった女性観を押し付けてくるおじさんたち、そしてどこに行っても遭遇する同級生たちという狭すぎるコミュニティの中を窮屈に生きなければならない彼女たちは決して他人事ではない。田舎在住の私は、彼女たちをよく知っている。


 「あー、なんかでっけえことしてえなー!」と、ユキオが叫ぶ。彼らが行ったグラフィティ・アートは、彼らの意識とは無関係に、彼らが生きる地域の中で窒息し、失踪せざるを得なかったアズミ・ハルコの生の感触を孕んで爆発的に拡散されていく。だが、それがチープなアート作品として町おこしの道具に使われ、人の集まらない遊園地「ゆめランド」の外装と成り果てる時、彼らの夢はただの紙くずとなり、消滅する。


 そして拡散され、商業化された春子はどうなったかというと、それまで足搔きつくしていた彼女は超越し、神にでもなったかのように、苦しむ愛菜の前に現れ微笑むのである。
 
 ラストシーンの春子は、あまりにも美しくかっこよかったが、なんだか拍子抜けする。「優雅な生活が最高の復讐である」。彼女が愛菜に教えるスペインのことわざだ。全てを捨てて「女としての幸せ」という典型的なイメージを勝ち取ることが、彼女にとっての幸せだとしたら、やはり彼女もまた、無敵のJKと同じようにどこか空々しいようにも感じた。(藤原奈緒)