2016年シリーズを通してマクラーレン・ホンダに密着取材を行ってきたF1ジャーナリスト尾張氏。今年の総括として2015年から大きく向上したホンダパワーユニットの現状を振り返る2016年の総括コラムを第2回目お届けする。
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2015年にF1に復帰したホンダが、16年に向けて変更したのは、パワーユニットだけではない。そのパワーユニットを作る体制にもメスを入れてきた。
ホンダがマクラーレンとパートナーを組んでF1に復帰すると発表した13年5月から、F1プロジェクトの総責任者を務めてきたのは、新井康久(本田技術研究所取締役専務執行役員四輪レース担当)だった。その新井に代わって新しい総責任者に抜擢されたのが、長谷川祐介だった。
長谷川総責任者は、ホンダの第3期F1活動期にエンジンのエンジニアとしてイギリスに駐在して、BAR(のちにホンダ)と一緒に仕事するなど、ホンダの中でもF1での経験豊富なスタッフだった。復帰したばかりで、戸惑いながら1年間戦い続けたホンダにとっては、長谷川総責任者のようなリーダーが必要だった。
変更したのは、F1プロジェクトの総責任者だけではない。16年4月1日付で、本田技研工業(本社)にF1担当の専務執行役員を設け、本田技術研究所の代表取締役社長となる松本宜之を兼務させる決定を下したのである。新しくF1担当役員となった松本専務は、初代フィットの開発責任者を務めたことでも知られる名リーダー。ホンダが本社にF1担当を設けるのは、初めてのこと。これは復帰発表後から15年までホンダのF1活動すべてを新井元総責任者がひとりで統括していたことへの反省である。
マクラーレンとのパートナーシップ関係やFIA&FOMとの関わり方など、会社としてホンダが対処しなければならない分野は松本F1担当専務執行役員が対応し、F1プロジェクトの総責任者は技術的な分野に集中させることで、本来の職務を遂行しやすい環境を作ったのである。
またF1を含めホンダのモータースポーツ活動の管理本部内にあるモータースポーツ部の部長を、佐藤英夫から山本雅史に交代。山本部長はこれまで本田技術研究所の四輪R&Dセンター技術広報室長を務めており、高度な技術を伴う現在のモータースポーツ活動にしっかりとした対応を行おうとするホンダの意思が伝わる人事だった。
このようにマネージメント体制は大きな改革を行った16年のホンダだが、サーキットの現場で仕事するスタッフの顔ぶれに大きな変化はなかった。
14年からマネージャー兼プリンシパルエンジニアを務めてきた中村聡は、引き続きサーキットで現場監督としてホンダスタッフを牽引。フェルナンド・アロンソ車担当のパワーユニット・パフォーマンスエンジニアの森秀臣、ジェンソン・バトン車担当のパワーユニット・パフォーマンスエンジニアの小林大介は前年から引き続き2年目のシーズンに臨んだ。
森は第3期活動時にデータエンジニアを務めた経験があり、小林も第3期活動時代にバトンのエンジンのパフォーマンスエンジニアを務めていた実績がそれぞれあったが、信頼性が不足し、基本的な性能面でも大きな後れを取っていた15年のパワーユニットの前では、本当の実力を披露できなかった。
またチーフメカニックの中野健二も15年から続いて2台のパワーユニットを管理していた。中野はホンダが第3期のF1参戦をスタートさせた2000年からF1エンジンの組み立てや解析を行ってきたベテランだが、エンジンがパワーユニットに進化した15年は、慣れない作業に戸惑いの連続だった。
ホンダが現場のエンジニアを変えなかったのは、1年目に経験したことを継続することで2年目にはより良い対応を現場で行ってもらうためであるが、理由はそれだけではない。1年間で築いたマクラーレンとのコミュニケーションを大切にするためでもあるのだ。
こうした変化と継続は、2年目のホンダにとって、プラスに作用。技術的には1年目の苦い経験を糧に、2年目は大きな進化を遂げることができた。それは15年の日本GPで「GP2エンジン」とレース中、無線で叫んだアロンソが16年の最終戦でこう評価していたことでもわかる。
「パワー、バッテリー、信頼性など、あらゆる分野で前進した。だから、17年にホンダが僕たちが必要としているパフォーマンスを見つけてくると100%確信している」