トップへ

阿部寛、東野圭吾のユーモアをどう表現した? 『疾風ロンド』が描く、大人の“上滑り”

2016年12月11日 10:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「疾風ロンド」製作委員会

 大人になると妙な方向に力みすぎて、つい間違ったことをしてしまう。ものごとをかっこよくこなしてみせようとしたり、人に自分の弱い部分を見せないようにしようとしたり、そんなことに躍起になった結果、自分を追い込んでしまう。しなくてよいことをたくさんしてしまう。この映画を観ていたら、観客の笑い声の中で、そんな自分の日々の姿に気付くことになった。画面の中の登場人物たちの立ち居振る舞いを笑っていたが、そこにいるのは普段の自分たちなのかもしれない、そんなことを考えた。


参考:関ジャニ∞ 大倉、ドラム&演技の実力は7年の努力賜物ーー『疾風ロンド』好演の背景探る


 雪山に埋められた生物兵器。雪が解けると容器が破壊され拡散する仕掛けになっているために、早急に発見しなければならない。だが、脅迫のためにそれを盗んだ犯人は偶然にも事故死してしまい、埋められた場所は分からなくなってしまう。研究所で違法に開発されたものであるため、警察に知らせるわけにもいかない。阿部寛演じる主任研究員は、所長の命令のもと、手がかりを頼りにスキー場へと、その捜索へ向かう。


 東野圭吾原作の映画『疾風ロンド』のストーリーはこのようなものだ。「白銀の世界を疾走するノンストップ・サスペンス」のうたい文句も相まって、スピード感あふれる映画を想像する人も多いはずだ。『疾風ロンド』というタイトルからも、まるで雪山を滑り下りるような展開のサスペンスがイメージされることだろう。


 だが、そんな予想はかなりの部分、裏切られることになる。元々、NHKでコメディ番組の演出を手がけていた吉田照幸監督は、本作でも、笑いを強調したかたちで、物語をすすめていく。そもそも、東野圭吾は『怪笑小説』や『毒笑小説』など、ユーモアのセンスも評価が高い小説家だ。吉田監督は、得意のテレビ・コメディ的な演出で、他の映像作品よりもさらに強く東野圭吾のユーモアに光を当てようとする。作品のポスターのキャッチコピーも「衝撃」という言葉に×が付き、「笑撃」とされているほどだ。


 しかし、吉田照幸監督の、テレビというメディアで培われた“ていねいな”作劇法は、いささか冗長に感じられる部分も持つ。たとえば、状況説明的に、阿部寛が語る「いっぱい人が死にますよ!」「野沢温泉スキー場は日本最大級のスキー場なんです」といったセリフは、いまどきの映画ではかなり珍しい「説明台詞」であると言える。近年、物語の中では恥ずかしい台詞の代表例として扱われがちな「さあ、ゲームのはじまりだ」もタイトル直前で登場する。テレビという“ながら視聴”に支えられたメディアではこのような“ていねいさ”は重要なものであるかもしれないが、暗がりの中で集中しながらスクリーンを見ることになる映画の中ではややくどいし、展開のスピード感がおさえられてしまってもいる。スピーディーなサスペンス映画を期待してしまうと、この映画の笑いの強調や説明の多さには、ガッカリしてしまうところがあるかもしれない。


 だが、実はこのサスペンスとして成立していない部分こそが、この映画のモチーフと絡んだ重要な点であるとも言えるだろう。


 阿部寛は、初登場のシーンでワックスがかけられた廊下で滑って転ぶ。その後も、スキーで転び、ケガをする。彼は所長の命令に問題があることを理解しながらも、自分の中の疑問を押し殺しながら、事態をのりきろうとする。そのために、気合いを入れて、必死に行動する。だが、その行動のことごとくが“上滑った”ものになってしまう。そして、この、“上滑った”必死さこそが、この映画で笑いの対象となるものなのだ。


 本作に登場する大人たちは、サスペンス映画の主人公のごとく、やっかい事を華麗に処理したいと思っている。だが、事態に向き合わず、誤魔化し、逃げ切ろうとする姿勢では上手くいくわけがない。だから、妙な力みが出てしまい、彼らはコメディ映画の登場人物になってしまうのだ。阿部寛の過剰さを強調した演技も、この“上滑り”感を表現するものとしてうまく機能していると言えるだろう。


 そんな大人たちの姿に対して、この映画の若者たちの姿はとても軽快だ。間違ったことをしてしまった時にも、素直にあやまる力を持っている。彼らは“上滑り”だけはしない。だから、彼らはスキーやスノーボードを華麗にあやつることができる。大人たちの“滑れなさ”の合間に登場する若者たちの姿は、この映画に当初、期待していた軽快さにあふれている。彼らの滑走を撮影するために使われた小型の4Kアクションカメラという新しいテクノロジーもうまく活かされており、その疾走感を体感させてくれる。大人たちの“滑れなさ”が強調されるがゆえに、その対比から、若者たちの滑走の爽快感は強く印象に残る。“これこそ、見たかったものだ!”と。


 間違った力の入れ方で“滑れなかった”主人公も、若者たちの素直な爽快さに触れることによって、自分の“上滑り”に気付き、もう一度正しく“滑ろう”とする。自分の弱さを子どもにちゃんと伝え、これから先の困難を理解しながらも自分が正しいと思う行動を選び取る勇気を取り戻すのだ。それは“滑れない”自分をごまかすことから解放することでもある。(片上平二郎)