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松江哲明の『ヒッチコック/トリュフォー』評:ヒッチコック映画の魅力伝える“友情物語”

2016年12月10日 18:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 子どものころ、図書館の映画コーナーにある一番目立っていた大きい本、それが1966年(日本では1981年)に刊行された『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』でした。初めてこの本を手にとったときは、ヒッチコックの名前は意識していませんでしたし、当然内容も理解できない。でも、本の中に掲載されている映画の場面写真が格好良くて、よく眺めていたんです。思い返してみると、編集室を覗き見ている感じだったでしょうか。今のようなパソコンでの編集ではなくて、編集機材のスタインベックが置いてあって、部屋の隅には断ち切ったフィルムが転がっているようなアナログな編集室のイメージ。『映画術』はその名の通り、「映画ってこうやってできているんだよ」と最初に教えてくれた本だったと思います。


参考:「週末映画館でこれ観よう!」今週の編集部オススメ映画は『ヒッチコック/トリュフォー』


 映画『ヒッチコック/トリュフォー』は、『映画術』の映像化ドキュメンタリーで、錚々たる映画監督たちが自身と『映画術』の出会いについて語っています。ドキュメンタリーの作り手として観ても、『ヒッチコック/トリュフォー』の構成は素晴らしいと思いました。本作には二つの側面があります。一つ目はヒッチコック映画の魅力を存分に知ることができること。二つ目はアルフレッド・ヒッチコックとフランソワ・トリュフォーの友情物語であるということです。


■ヒッチコックの作品はリトマス試験紙みたいなもの


 まずはヒッチコック映画の魅力について。僕らの世代は、子どものころに当たり前のようにテレビでヒッチコックの映画を見ることができました。『北北西に進路を取れ』、『サイコ』、『鳥』、『裏窓』は何回も放送していましたし、『ヒッチコック劇場』もありました。どれも、名作という意識で観るんじゃなくて、たまたまやっているから観たという感覚で。今は、レンタル屋に行けばズラッと揃っていますし、観る手段はいくらでもあると思うんですが、不意にヒッチコック作品に出会ってしまうという経験はできないんですよね。どうしても“名作”として出会ってしまう。思いもよらないタイミングで事故のように観ると、ヒッチコックの映画は本当に面白い映画なんですよ。まぁそれはヒッチコックに限った話ではないんですけど。


 ヒッチコックの中で一本挙げるとすると、僕は『サイコ』。神がかっているというか、映画自体がヤバイものになっていますよね。昔、ホラー映画の恐いシーンだけを集めて放送する番組がありました。『スキャナーズ』(デヴィッド・クローネンバーグ)の頭が吹っ飛ぶシーンとか(笑)。その中に、『サイコ』のワンシーンがあったんです。ノーマン・ベイツがカツラを被った女装姿で襲ってくる。その姿がもう怖くて怖くて。夜中、トイレに行くのを躊躇したことを覚えています(笑)。


 初めて観たときは無意識的なものとしてその“恐さ”を感じたんですけど、思い返すと、その恐さはヒッチコックの緻密な計算によって作られていたことが分かりました。本作でも、ヒッチコックが多用していた“神の視点”による俯瞰ショットについての分析がされていますが、わずか数秒の映像でその凄さがよく分かります。映画の面白いところはそういうところなんですよ。なんであのシーンで恐さを感じたんだろう? なんであのシーンが印象に残っているんだろう? それを思わせる映画は、はっきりとした作り手の思想がそこにあるからなんですよね。そうすると、このシーンを構成したヒッチコックは何者なんだろう?とまた考える。ヒッチコックの作品は、映画をどう観るかのリトマス試験紙みたいなものだと思っているんです。ヒッチコックの映画を観て、「あー面白かった、怖かった」で終わる人は普通の人で、観た後に「なんか変だったぞ」と気付いてしまうと、その人はもう映画の沼から抜けられなくなります(笑)。そういった映画を紐解いていく楽しさを、監督たちのコメントとともに本作は教えてくれます。


 登場するマーティン・スコセッシやウェス・アンダーソン、黒沢清さんほか10人の映画監督たちは、ヒッチコックの作品を語ってはいるんですけど、結局のところは自分の演出方法について語るんですね(笑)。監督たちの個性をよく表していて、その姿が面白い。デビッド・フィンチャーは『めまい』について、「変態の映画だ、美しい変態だよ」とコメントしていますが、彼が何を考えて『ゴーン・ガール』を撮っていたのかが何となく分かりますよね(笑)。コメントをもらう相手を、制作を共にした当時のスタッフやキャストではなく、現役の映画監督たちにしたのは大正解だったのではないでしょうか。


■映画を語ることの楽しさ


 ヒッチコックとトリュフォー、二人の関係性も重要なポイントです。今でこそ誰もがヒッチコックを“巨匠”としてみていますが、当時は“大衆作家”と語られていました。ヒッチコックの作家性と芸術性を世に知らしめたのがヌーヴェル・ヴァーグの旗手だったフランソワ・トリュフォーです。トリュフォーからのインタビュー依頼の手紙を読んで、感涙してしまうヒッチコックの気持ち、そして自分の尊敬する監督のすごさを世に知らしめたいというトリュフォーの気持ち、二人の気持ちがすごくよく分かります。


 結局のところ、映画監督の悩みは、映画監督にしか分からないんです。映画監督ってエゴが強くて独裁的な人と思われがちですけど、誰よりも孤独なんです。撮影や照明の方々が自分の仕事に不満があったとしても、それを監督がOKしたのなら、それはOKになります。でも、監督にOKを出してくれる人はいない。最終的な判断と責任を取るのは監督ですから。


 この映画を観ていて嬉しくなるのは、監督の孤独ってみんな一緒なんだなというのがよく分かることなんです。多かれ少なかれ、時代が変わっても、映画監督の悩みってみんな一緒なんだと。だから、最近の山下(敦弘)君と共同監督として仕事ができるのは僕にとっては精神的にずいぶん楽なんです。来年1月6日から放送される『山田孝之のカンヌ映画祭』なんて一人じゃできない企画ですよ(笑)。山下君がいるおかげで、どれだけ無茶できていることか。


 それにしても改めてヒッチコック映画の映像を観てみると、昨今の“物語”ありきの映画との違いが明白ですね。ハリウッドでも、日本でも、ヒットする映画のほとんどが、いかにクライマックスシーンをたくさん入れることができるかどうかに執着しているものばかりです。僕は映画にとって大事なのは、シナリオよりも描写だと思うんです。勿論、シナリオの重要性を否定するわけではありませんが、物語に寄り過ぎてしまうシナリオは、小説とどう違うのと思ってしまう。映画で大事なのはどういう“時間”が流れているか。時間はシナリオで描けないですから。どんな考えでそのカットが撮られたか、観客の意識に向けてどんな工夫をしたのか、ひとつひとつのカットの積み重ねが編集によって映画となっていく。ヒッチコックの映画は、映画を“観る”楽しさを改めて浮かび上がらせてくれますね。


 ヒッチコックもトリュフォーも、コメントを寄せる現役の監督たちも、映画を語ることが好きで好きでしょうがないのがよく伝わります。映画監督ってやっぱり映画を語るのが好きなんですよ。本作を通して、映画の魅力、映画を観る楽しさ、映画を語る楽しさ、それが何年経っても変わらないことなんだと強く思えました。だから、作り手である僕も、それを信じて映画を作り続けていきたいなと思います。(松江哲明)