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音痴歌手が人気者になるのは美談なのか? 『マダム・フローレンス!』が突きつける、現実の二面性

2016年12月10日 10:11  リアルサウンド

リアルサウンド

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 笑っていいのか、泣いていいのか。彼女が善か悪かすらも分からない。外れた音程で誇らしく歌い続けるひとりの女性の偉容に、我々観客はただ圧倒されるだけである。


参考:石原さとみ、『地味スゴ!』悦子が“当たり役”である理由ーードラマの魅力を改めて検証


 フローレンス・フォスター・ジェンキンス(マダム・フローレンス)は、「音痴のソプラノ歌手」として知られる実在のアメリカ人女性だ。前夫からの慰謝料と、親から受け継いだ莫大な遺産によって裕福に暮らす彼女は、歌うことに情熱を燃やしていた。若いときに果たせなかった歌手になるという夢を、40歳を過ぎてから果たし、70歳を過ぎてカーネギーホールでオペラ曲のレパートリーを堂々歌い上げた。


 だが、現在残されている音程の狂った彼女の音源を聴くと、まさに「めんどりの首を絞めたときの鳴き声」のような凄まじさだ。聴衆たちは、そんな彼女の歌声を音楽として聴いていたのでなく、滑稽さを嘲笑し楽しんでいたのだ。その真相を知らないのは、自分を世界的な実力派歌手だと信じきっていた彼女ただひとりだった。夫のシンクレアが、彼女がショックを受けないよう根回しをして真実を隠し続けたことは美談として伝えられている。


 この有名な実話は以前から私も知っていて、これを監督するなら、英国のスティーヴン・フリアーズ監督しかいないだろうと思っていた。なぜならフリアーズ監督は、実話を再現する映画の名手であり、ユーモアを含んだヒューマンドラマの名手であり、何よりも熟年の女優を魅力的に撮る名手だからである。そして、本当に彼が監督に決まってしまった。


 フリアーズ監督といえば、なかでも英国の名優、ジュディ・デンチが、劇場を経営した実在の女性を演じる『ヘンダーソン夫人の贈り物』は傑作だ。偉大な舞台俳優であり、近年の「007」シリーズで威厳ある演技を見せ、「英国のシンボル」のひとつにまでなった彼女が、ここではコスプレにも近い、コミカルな「ジュディ・デンチ七変化」を見せる。その姿はあまりにもチャーミングで愛らしい。ジュディ・デンチと監督のコンビ作としては、近年話題になった『あなたを抱きしめる日まで』も同様に素晴らしいので、両作品とも是非観て欲しい。


 本作『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』でマダム役を演じるのは、ハリウッドの男優、女優を合わせたなかで、最も多くの賞にノミネートされてきた名優、メリル・ストリープである。いままでにジュディ・デンチやヘレン・ミレンなどを輝かせてきたフリアーズ監督とのタッグに期待してしまうというのは当然であろう。


 本作の脚本は、実話にかなり色付けして自由な発想による物語として再構成されているのだが、よくある「感動」ものには寄らず、またコメディーとして徹底しているわけでもない。両方の魅力がありながら、そのどちらとも選びきらない、どっちつかずの領域に観客を停滞させる。


 例えば、ヒュー・グラントが演じる夫のシンクレアは、マダムの全てを肯定し、マダムが傷つかないように涙ぐましい努力を続ける反面、若い愛人と同棲生活を続けている。また、伴奏を依頼される、人のいいピアニストのコズメは、マダムと一緒にピアノを弾くという行為を通して、美しい友情をはぐくんだかと思えば、その後のシーンでは「僕の経歴に傷がつく! マダムの伴奏は続けられない」とシンクレアに懇願する。ニナ・アリアンダが演じるセクシーな女性は、マダムの歌にヤジを飛ばす聴衆に対し、「彼女は必死に歌っているのよ!」とたしなめた後で、やはりマダムの歌を聴きながら爆笑している。


 それは、本作のテーマにおける「二面性」とも関わっているように思える。そもそも、音痴が喝采を浴び人気者になっていくという物語は本当に「いい話」なのだろうか。劇中で、ある記者がマダムの歌を聴いて、「こんなものは音楽への冒涜だ。あなたは彼女をおだてて恥をかかせた」と、シンクレアに対して憤慨するように、ちょっと見方を変えれば美談と呼べるようなものではなくなってしまう危うさをはらんでいる。「みんなが楽しんでいるのだから、いいことじゃないか」という、比較的ドライな意見もあるだろうし、地道に実力をつけて、カーネギーホールを目標に頑張っている「本物」の歌手の目には、腹立たしい現実に映るはずである。これは、現在の音楽業界にも継続して存在する「二面性」でもあるだろう。本作が態度を決めかね停滞しているのは、まさにこの葛藤であるといえる。しかし、この微妙なバランスの上で成り立っているのが、我々の「現実」だというのも事実である。


 本作のクライマックスは、やはりカーネギーホールでの公演の場面である。そこに慰安として特別に招待された兵士たちは、マダムが傷つかないように、気をつかって笑いをこらえてくれるような紳士ばかりではない。そもそも、公演自体をコメディーだと思っている者の方が多そうだ。つまり、音楽を心から愛して歌を大事にしているマダムにとっては、本質的な意味でとてつもない「アウェイ(敵地)」なのである。ここまでの窮地に立たされる歌手など、ほとんどいないだろう。私はこのクライマックスを、映画による音楽シーンのなかで、かつてないほどに心をかき乱されてしまった。


 マダムは若い頃、親に音楽留学を反対されて、ある男と駆け落ちし結婚していたことが、本作で語られる。その男は遊び人で、マダムは梅毒をうつされてしまっていた。当時は梅毒は「死の病」であり、マダムほど長く生きる例はまれであったという。そこでマダムが受けた精神的な屈辱と、闘病の苦しみは、周囲からおだてられていい気になっている、地に足がついていない滑稽な歌手のイメージとは真逆の、きわめてシリアスなものである。


 そんな彼女が生き抜くために必要としたのが、音楽への情熱であり、逆を言えば、彼女がここまで音楽に情熱を傾ける動機になっているのが、彼女が体験した悲劇であったとも表現されているのである。その二面性こそが、本作におけるマダム・フローレンスという人間の存在そのものなのである。そして、過去作で異なる人格をカメレオンのように変化させてきたメリル・ストリープの演技の幅広さが、遺憾なくここで発揮されているといえるだろう。


 マダムが意外にも、伴奏者の皿を洗ってあげる場面は、レッスンシーンの滑稽さと打って変わって荘厳である。悲しみとよろこび、嘲笑と尊敬、そして、悪意と愛。世界は単純でなく、あらゆるものが拮抗する危うさに満ちている。公演の場面が激しく心をかき乱すのは、ここでのマダムの苦しい逆境が、彼女の内面の強さや純粋性をより際だたせ、ある意味で聖なる存在へと昇華させていると感じられるからであるだろう。ここで思い出されるのは、映画史に輝く名作中の名作である、カール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』にて、火刑に処されようとするジャンヌ・ダルクの、やはり聖と俗をともなった圧倒的なイメージである。フリアーズ監督とメリル・ストリープのコンビは、エンターテインメントとして本作を成立させながらも、期せずしてとんでもない深淵に足を踏み入れてしまったのかもしれない。少なくとも、私にはそう思える瞬間があった。(小野寺系(k.onodera))