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荻野洋一の『母の残像』評:“2016年路地裏の映画史”ラストを飾る、〈母の死〉から始まる物語

2016年11月28日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 2016年の映画界は、〈母の死〉でいったん終わり、〈母の死〉から何かがまた始まそうとしている。


参考:荻野洋一の『続・深夜食堂』評:あまりにもさりげなく提示される食、生、そして死


 『シン・ゴジラ』や『君の名は。』『スター・ウォーズ フォースの覚醒』などといった表通りのブロックバスターとは異なる2016年の路地裏の映画史というものが、たしかに存在している。それは、より(卑小な)人間の顔をした映画史であり、私たちの生や死と隣り合わせの映画史である。そうした親愛なる映画史において、2016年という一年は、痛みと悔恨に満ち、まるで身体の消えない傷痕のようなナンニ・モレッティ監督作『母よ、』における母親の葬送で始まり、そして年末に至って、北欧出身の新鋭ヨアキム・トリアーによる微かなる希望が母の死とぎしぎしとせめぎ合う『母の残像』で終わりを迎えようとしているのである。ラストで母親が死ぬ『母よ、』がきて、映画の冒頭ですでに母親が死んだ状態で始まる『母の残像』がくる。この時制が織りなす運動感こそ、映画史というものの苛酷なる美しさそのものではないか。


 『母よ、』のナンニ・モレッティがイタリア生まれであり、『母の残像』で初めてハリウッド進出となったヨアキム・トリアーがノルウェー人であるという点、19世紀末に映画が生誕した大陸であるヨーロッパの南端と北端から、今年は〈母の死〉に際して、鐘を鳴らしてまわる者が、私たちの視界の前を、分かるか分からないほどの粋さで通り過ぎていく。通り過ぎていくこの残り香を嗅ぎそびれぬ感性(感性、そう言ってよければ)を、私たち映画ファンは保ち続けたいものだ。


 『母の残像』の監督の苗字「トリアー」と聞いてラース・フォン・トリアーを思い浮かべる方がいらっしゃると思うけれど、その方の勘は素晴らしい。ヨアキム・トリアーはラース・フォン・トリアーの甥だそうである。デンマークの異端児の甥がなぜノルウェー人なのか、スカンジナビア諸国の事情はまったく見当がつかないが、とにかくトリアー家という北欧映画界の名家出身の若者が、故郷ノルウェーではすでに3本ほど映画を作り、今回初めてハリウッドで英語作品を作ることになった。そしてそこに集まったキャストの豪華さは、この若手作家がどれほど期待されているかの証明となる。すでにこの世にはなく、回想の中の人として登場する母親役にフランス・ヌーヴェルヴァーグの名女優イザペル・ユペール、残された夫役に『ユージュアル・サスペクツ』のガブリエル・バーン、長男役に『ソーシャル・ネットワーク』でFacebook社の創業者ザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグが集結した。


 母はフランス、父はアイルランド、長男はポーランド系ユダヤ人。演者陣の血はバラバラなのに何の問題もなく一家族を演じ、監督ヨアキム・トリアーと脚本のエスキル・フォクトはノルウェー人、撮影のヤコブ・イーレはスウェーデン人である。そして、この人種的メランジェこそアメリカ映画そのものなのである。「偉大なアメリカを取り戻せ」などいう単細胞なスローガンと共に当選した次期大統領が移民排斥を訴えているが、それは、そもそも移民によって建国されたアメリカの自己否定にすぎないことは、誰もが知っていることだ。もし移民が出て行かなければいけないなら、ドイツ系移民の子孫だとかいう次期大統領(ドイツ時代の姓Drumph[ドゥルンフ]を祖父が英語風に改名した)がまずその模範を示し、「この美しい国土をアパッチやモホーク、チェロキーやスー、あなた方ネイティヴアメリカンにお返しし、私たちは出て行く」と言わなければならない。


 ならず者が集結したことによって必要不可欠となったルール作りやタブー、そして発揮される自己責任やダンディズムが、アメリカそのものであり、またアメリカ映画である。ヨアキム・トリアーが北欧から乗りこんで探し求めるのも、そんなアメリカの精神模様なのではないか。死んで3年が経とうとしている母親(イザペル・ユペール)は、数々の賞を受賞した戦場写真家であった。没後3周年にあたり、ニューヨークで彼女の回顧展が企画され、遺品の整理のために、バラバラになっていた家族が再び顔を突き合わせる。そこに派生する波風を、この映画は主題としている。


 大学でアートを講じる長男(ジェシー・アイゼンバーグ)は、母親の作品整理のために久しぶりに実家に滞在し、実家で(おそらく母が愛用しただろう)Mac上のAdobe Lightroomで、見てはいけない写真を目撃してしまう。それは母が交通事故で死ぬ直前の中東取材において、ホテルの一室で撮られたポートレイトである。彼女はシーツに身体を包んでいるが、おそらく全裸であり、彼女の背後には男の影が写っている。母は、そうした他人に見られてはならぬ写真を自分で処理する前に、事故死してしまった。ジェシー・アイゼンバーグは、どぎまぎしながらその物的証拠をTrash(ゴミ箱)にドラッグ&ドロップする。


 残された父、長男、次男の関係はそれぞれぎごちない。特に次男の精神的鬱屈が最も心配で、彼は高校の同級生と遊ぶことも少なく、自室でゲームに興じている。しかし、次男がいたずらに書いた孤独と性的欲望についての手記を読んだ兄は、弟の文学的才能を確信する。うまく行っていない人間関係、ぎごちない家族関係には、アメリカ的なルールとセンス・オブ・マナー、ダンディズムが必要不可欠である。そうした必要不可欠なものを求め、残された男たち3人がおのがじし孤独と、母に裏切られた失望をノドの奥にグッと飲みこんで、あらたな関係性を構築しようと、もがき、苦しむ。その過程を追っていくヨアキム・トリアーの視線はきわめて繊細かつ優しい。偉大なる伯父ラースの大向こうを唸らす大言壮語とはいささか異なる、もっと洗練された映画作家に、甥のヨアキムは成長しつつあるように見える。


 白眉と言えるのは、作品の終わりの方で、次男がしかたなさそうに同級生のお泊まりパーティ(いわゆる「スリープオーバー」である)に出席して夜を過ごし、気乗りしないまま立ち去ろうとすると、彼が秘かに思いを寄せていた少女が外に坐り込んでいる場面だ。チアガール部所属の彼女は、練習中に腕を骨折してメンバーから外され、気落ちしている。おずおずと彼女を誘って、帰宅する二人の姿が、非常に眩しい。


 歩きながら、静かにしゃべる。この静かな言葉の交わし合いが、本作の原題「Louder Than Bombs」(爆弾よりもうるさい)を逆説的にあらわしているように思える。人の人生において最もその人の耳について離れない音とは、誰か大切な人とのひとときの言葉の交わし合い、肉親との日常的なやり取り、そして喪った人の幽霊が耳元でささやく空気のずれる音——そうした音たちではないか。次男は映画の最初のほうで、父親に尾行されていることに気づくと、母親の眠る墓地に行き、地下の声を聴こうと墓石に耳を当ててみる(それは人違いの墓なのだが)。


 初々しい高校生カップルが歩きながら、静かにしゃべる。そうこうするうちに、東の空が白んでくる。薄明という名の、光のささやき。これも「Louder Than Bombs」そのものである。そして突然、少女は尿意をもよおし、見知らぬ一軒家の駐車場の陰に隠れる。「見ないで」。少年は言われたとおりに、虚空に目をやる。水しぶきが駐車場の石を叩く滑稽な音が聞こえ(これも「Louder Than Bombs」)、少年が臭気に気づいて足下を見ると、少女の尿が道路までつたってきて、立ち尽くした少年のスニーカーに達する。涙を浮かべる少年。


 少年の涙は、あこがれの少女の用足しに付き合わされた幻滅ゆえのものではない。いや、ひょっとすると少しは現実に引き戻されたかもしれないが、尿が道路をつたって自分の靴を濡らすという滑稽な事実が、生の鈍い輝きそのものとしてあるという実感におののいたからに他ならない。内省的なこの次男と、チアリーダーの活動的な少女がこのあと、どの程度近しい間柄になれるかは心許ない。しかし、この尿の道すじから発せられた微かな水音が、彼にとって「爆弾よりもうるさい」ものとして、生涯にわたり響き続けるにちがいない。(荻野洋一)