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大森靖子のライブにおける“凄まじい情報量”とは何か? 小野島大が衝撃を振り返る

2016年11月26日 14:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『TOKYO BLACK HOLE TOUR』最終公演の様子。(写真=Masayo)

 圧倒された。凄いライブだった。


 ライブ評を書く仕事があるときは、ライブの最中から頭がフル回転して、目の前に展開されている景色を、さてどうやって言語化し文章にしようかとずっと考えている。職業病のようなものだが、これが楽しい。次から次へと言葉が浮かび変異し増殖し止まらなくなる時が、いいライブだ。


 だがこの日は違った。言葉が出てこない。つまらなかったのではない。情報量が多すぎて認識がついていかないのだ。目の前で起きていることを認識し適切な言語に置き換え体系化して文章にする。それがふだん自分のやっていることだが、目くるめく繰り広げられる大森靖子の世界を呆然と眺めているうち、いつしか僕はその洪水のように溢れ出すイメージと格闘することをやめ、ただそれを享受することにした。


 アルバム『TOKYO BLACK HOLE』のツアー最終日、Zepp Tokyoでのライブ。僕が大森靖子のライブを見るのはこれが初めてである。なので熱心なファンなら既知のことであっても、いちいち新鮮な驚きがある。音源は一通り持っているし、それなりに熱心に聴いてきたつもりだったが、ライブになると全然違った。まったく、違った。この凄まじい情報量は何なのか。 


 大森自身も含む7人編成のバンドの高い実力。緻密に練り込まれたアレンジ、執拗なまでに空間を埋め尽くす言葉と音。持っているものすべてを差し出し与えずにはいられない過剰なまでの誠実さと、本当の本気で伝えようとする気迫。あちこちに散りばめられるアイドル的意匠の数々。乱舞するサイリウムの光。


 それだけではない。彼女はまるで鏡のように観客の欲望を映し出していた。Zepp Tokyoに集まった二千数百人の観客の心の奥底にしまい込まれたイドが、彼女の口を、手を、全身を伝って解き放たれている。一瞬も淀むことなく、放射され続けている。それが、はっきりと見えた。「代弁者」というほど上から目線ではない。観客それぞれの暗く重苦しい、いびつで歪んだ思いの集積が彼女の肉体に濾過されるだけで、美しい言葉と、希望のメロディに変わる。それが乱反射のようにZepp Tokyoの閉ざされた空間を行き交っていた。瞬時に交わされる二千数百人分の1対1の濃密なコミュニケーション。その密度の高さこそが、僕が感じた凄まじい情報量の正体だったと思う。


 パフォーマーとしてのパワーとエネルギー、ボーカリストとしての説得力と表現力、リリシストとしての言葉をすくい取りエディットし別の景色を浮かび上がらせる才能、メロディを書く力、サウンド表現上の多彩なアイデア……大森の天才的とも言える才能はさまざまな角度から語ることができるが、もっと傑出しているのが、無数のオーディエンスの思いや時代の気分を取り込み、誰にでもアクセス可能な音楽表現へと変換する情報処理能力の高さではないか。


 大森はこの日「私はみんなを救いたい」という意味のことを言った。彼女はそれが自分の役割であり、自分がステージにあがる理由だと自覚しているのだろう。それが頼もしい。


 2013年に配信のみで出た『大森靖子 at 富士見丘教会』(OTOTOY)という音源は、観客のいない東京の教会でギターやピアノを弾き語るライブである。それが僕の大森靖子初体験だった。そこでは彼女の激情型フォーク・シンガーとしての姿が浮き彫りになっていたが、たったひとり歌う孤絶感がもたらすヒリヒリするような痛々しさ、歌われる歌が、本来届けるべき相手に届かぬまま漂っているような寄る辺のない不安感が、今も生々しい。


 そこからわずか3年で、大森はここまで来た。これからの彼女が向かうところを可能な限り見届けたいと思っている。


「ぼくはいつも誰かの歌を歌うだけ
 ぼくはいつもぼくの愛は歌わない」
(「少女漫画少年漫画)」)


(小野島大)