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『この世界の片隅に』が観客の心を揺さぶる理由 「感動」の先にあるテーマとは

2016年11月20日 18:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

 『この世界の片隅に』を観た人たちが異口同音に「これはすごい、観た方がいい」と周囲に薦めている。公開館数が比較的少ないため、超大ヒットと呼べる興行収入には達していないものの、そのなかでの本作の支持率や熱量は凄まじく、アニメーションを含めた日本映画に強烈なインパクトと、今後に小さくない影響を与えるような作品になったと言って間違いないだろう。熱狂的な人気を誇る『この世界の片隅に』が、多くの観客に心揺さぶる感動を与え、深く愛される理由を、いくつかの角度からじっくりと考察していきたい。


参考:『この世界の片隅に』のんに今年の最優秀主演女優賞を!


■観る者の心をえぐる作品構造


 太平洋戦争のさなかに青春時代を生きたひとりの女と、周囲の人々の生活を丹念に描いていく、こうの史代の同名漫画を原作にした本作は、ほぼ完全再現といえるほど忠実に原作の内容をなぞっている。よって本作は、漫画として描かれた原作の数多くのエピソードをひとつの映画のなかにそのまま詰め込んだことで、かなり変則的な構造になったといえる。


 だが、それを苦にさせないというのは、ぼ~っとした性格の主人公"すず"のほんわかとしたキャラクターと、とぼけたユーモアによる、ほのぼのとした笑いが各エピソードに用意されているからだ。とくに前半、観客の興味を持続させるのは、喜劇映画としての面白さだ。


 食糧難や灯火管制、空襲の恐怖など、戦時中の極限状態のなかでも、すずは目一杯楽しそうに振る舞う。好きな絵を描いたり、道草を摘んだり、武将の考案したという節米料理を作ったりなど、つらく苦しいことですら少しでも楽しい経験に変えていき、空襲にすら芸術的な美しさを見出してしまうすずの姿は、多くの作品でつらく苦しく描かれてきた戦時下の女性像とは異なる魅力にあふれていて新鮮である。音楽を担当したコトリンゴの、か細く優しい音楽世界は、すずの個人的な感覚と共鳴しているように感じられる。


 それでも、日本軍の戦局の悪化という史実に従って、ほのぼのとしていた作品の内容が、どんどん凄絶でシリアスになっていく。「戦争」という出来事が、暴力的な力によって、作品のジャンルそのものを捻じ曲げ、全く違うものに変えてしまっているようにも見える。牧歌的に描かれる愛らしく愉快なすずたちが、むごたらしい運命に翻弄されていく様子は、その生活が丹念にユーモラスに描かれてきたからこそ、胸をえぐられるような喪失感を観客に与える。原作同様に、この「落差」が作品の大きな仕掛けである。


 『嘆きの天使』という、1930年に撮られた、人間の狂気ともの悲しさを極限まで描くドイツ映画の名作がある。映画史上に残るいたましい光景が印象的なこの作品は、軽いお色気コメディーとして始まる。しかし、作り手による周到な誘導によって、観客は思いもよらなかった世界に運ばれ、心の準備もないままに打ちのめされてしまうのだ。そして、安心して見ていた前半部分すらも、異なる意味を持って立ち上がってくる。『この世界の片隅に』の衝撃もまた、このような作品構造からもたらされているといえよう。


■あの時代を「現代」としてとらえること


 過去の時代を扱った作品の多くは、現代人から見た、「理想化された過去」を描きがちである。過度に郷愁に満ちた光景やセピア色のくすんだ色調、現代に失われた素朴であたたかな人々のつながりや、未来に希望を託し歴史の一部として社会に貢献する高潔な人々、もしくは想像を超えるような野蛮な人々…。いずれにせよ、過去の世界を現代の感覚から切り離された「異質なもの」として表現してしまう。それを見る私たちは、そのような過去の世界を、当然「過去」のものだと意識してしまう。


 『この世界の片隅に』が特異なのは、作り手自体が過去にいるような精神状態で、現在のものとして過去を描こうとしているという点である。私は本作を観ている間、自分が生きていないはずの太平洋戦争の時代の生活を懐かしく思うという、不思議な気持ちを味わっていた。そして物語が進むうちに、映画を観ている自分はいま昭和の時代に生きていて、つい先日起こった戦争を描いた映画を鑑賞しているのだという気分になりすらした。


 能年玲奈改め"のん"が広島弁で声を演じるすずは、「ありゃ」などと現代からすると"おばあちゃんことば"で話すが、これが古いものでなく、当時の若者の話し方として自然で愛らしく思える。牧歌的でかわいらしい絵柄のアニメーションでありながら、男女のきわどい心情や三角関係が生々しく描写されるという点からも、当時の人間を理想化された異質な存在にさせまいとする意志を感じるのである。だからこそ観客は、これを自分自身の話だとして見ることができる。


■「思い出す」ことでいきいきと甦る歴史


 江戸時代の学者、本居宣長は、日本の神話的歴史書「古事記」の膨大な全注釈書を完成させたときにこんな歌を詠んだという。


「古事(ふること)の 記(ふみ)をら読めば 古(いにし)への 手振り言問(ことと)ひ 聞き見るごとし」


 「古事記を読むと、昔の人の手振りや口振りを、目の前で聞いたり見たりしているような気がしてくる」という意味である。本居宣長を研究した評論家、小林秀雄は、「歴史を知るということは、"思い出す"ということだ。そこで自分が生きているように考えなければ本当の歴史を知ることにはならない」ということを繰り返し述べている。


 本作の片渕須直監督による過去の劇場用アニメーション『マイマイ新子と千年の魔法』は、まさにそれを描いた作品だった。主人公の少女、新子は、祖父から「この麦畑の下には千年前の街がある」と聞かされる。新子は、自分の五感と想像力を最大限に働かせ、千年前の風景、千年前の生活を「思い出す」ように精神的に辿っていく。この映画の面白いところは、原作小説に書かれた昭和30年の山口県を、その時代に遅れて生まれた年代の監督が映画化しているというところだ。つまり、劇中で新子が千年前に思いを馳せていたように、片渕監督もまた自分の知らない世界を想像し再現しているのである。


 『マイマイ新子と千年の魔法』では、それがある種の不思議な力として描かれてもいたが、そのような歴史感覚を実際に得るためには、歴史を様々な分野の観点から調べ上げる膨大な努力が必要になるだろう。『この世界の片隅に』原作の巻末には、たくさんの資料や取材の一部が紹介されているが、映画化の際に片渕監督も、文献などのほか、当時そこに生きていた人から直接話を聞き、資料にない街や建物の様子、当時の生活など、映像化に必要となるディティールをさらに調べ上げている。本作の人間が現代の人間を見るように、いきいきとみずみずしく感じるというのは、このような表に見えづらい努力が実を結んでいるはずである。


■「普通の人間」たちによる戦争批判


 自分の頭のなかでいつまでも楽しく空想ばかりしているすずは、実務的なところでは、ぼ~っとした受け身型の人間として表現される。ちゃきちゃきと対照的に描かれる、嫁ぎ先の実家で暮らす義姉は、自分の人生を強い意志で突き進んでいく女で、すずの生き方を、主体性のない自由意志を奪われたつまらない人生だととらえている。だが、すずはすずで、周囲に流されながらもひとつひとつのことをゆっくりと理解して、実感を得ながらマイペースで生きていくことに喜びを感じている。それは戦時中の極限状態においても変わらない。


 そんな彼女が激しい怒りを面に出すのが、天皇が日本の降伏を国民に伝える「玉音放送」を聴いた直後だった。敗戦するまでに、自分の身体を傷つけられ、家族の命を奪われ、多大な犠牲を払わせられた挙げ句、日本が降伏をする。なぜこれまで命を落とした人たち同様に、最後のひとりまで戦おうとしないのか。そして、逆になぜこのような状況になるまで降伏しなかったのか。日本は正義のために戦っていると教えられてきた彼女は、実際は日本が国民を、正義に見せかけた「暴力」によって従えてきただけなのだという結論に行き着く。


 当時学生だった人は、この敗戦を境に、学校の教師の言うことが突然変わったことにショックを受けたという。正しいとされてきたことが、一瞬によって変えられてしまう。すずが怒りを覚えるのは、この無責任さであり、一般市民を死に至らしめたアメリカであり日本であり、戦争という暴力そのものである。この場面で、民家から大韓帝国の国旗が揚がるというのも、日本がそれまでに振るってきた暴力を告発する意図があるのは明白である。


 軍艦の乗員となって決死の戦いにおもむく、すずの幼馴染の男は「普通の人間」として、死んでも英霊として拝まないでほしいとすずに語る。ここでは、『永遠の0』のように戦死者を英雄として理想化するのでなく、死地に向かう人間を、あくまで普通の人間として扱おうとする。かつておしゃれで進歩的なモダンガールだった義姉もまた、戦争によって人生を大きく狂わされ、「普通」を奪われた人間のひとりだ。


 あの日、生き残った市民の多くが、家族や大事な人たちのことを想って、そして自由に生きる夢を断たれた自分の人生を想って、片隅に隠れひとりで泣いたのだろう。本作が描くのは、普通の人間が普通に生きる権利を奪われるという、日本で無数に存在したはずの個人的な悲劇である。


■本作が指し示した「感動」の先にあるテーマ


 道に迷ったすずが、遊郭で生きる女性に助けられる場面がある。彼女も自由な意志を奪われた生活を余儀なくされた存在である。すずはお礼として、戦時中にはなかなか手に入れることのできない甘いものを絵に描いて彼女に見せる。


 人の死がすぐ間近にある過酷な状況が描かれる本作で、救いになっているのは、人間同士が支え合い助け合って生きていくという部分だろう。すずをはじめとして、多くの人間が政治や世界情勢にあまり興味を持たず、騙されたり暴力に屈することで悲劇に巻き込まれてしまった。個人の力に限界があることも事実だろう。しかし、目の前の困っている人を助けるという行為によって、世界がほんの少しだけ好転するということもまた事実だ。


 ある人たちが自由意志を暴力によって奪われるという悲劇は、いまも日本や世界の片隅で起こっているはずである。本作と現代社会はその意味でも地続きに繋がっているといえる。そのような状況下にあって、個人がそれぞれにやれることをやることで、次に起こり得る悲劇を回避できるかもしれない。本作が真に望んでいることは、観客に「感動」してもらうことだけではなく、その先にあるはずである。(小野寺系(k.onodera))