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東出昌大は規格外の恐るべき俳優だーー天才棋士・羽生善治役の不可解な痛快さ

2016年11月19日 09:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「聖の青春」製作委員会

 『デスノート Light up the NEW world』でもアクロバティックな設定の主人公を力演し、唯一無二の個性を発揮した東出昌大。現在は主に主演を張ることが多い彼だが、長身で文字通り頭一つ抜けた体躯を誇る彼は、脇役でこそ輝く側面もあるように思う。


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 デビュー作『桐島、部活やめるってよ』のクレジットは、神木隆之介、橋本愛に次ぐ三番手。あのとき、観る者のほとんどは図抜けた存在感に圧倒されたはずだが、その存在感の根拠は不明であり、いや、むしろ、不明であるからこそ、わたしたちは惹きつけられていたのではないか。モデル出身であり、当時はまだ演技力も備わっていなかった。だから、あの作品での東出は、役をかたちづくっていたというよりも、ある意味、理屈を超えた領域で、人間として存在感そのもので(結果的に)勝負していたと考えられる。以後、優しい役や情けない役もこなすようになるが、東出昌大の魅力はやはり<違和>の屹立にその根源がある。この<違和>の刃は、『桐島』から4年を経たいまも健在である。


 東出が放つ<違和>は、必ずしも、長身であることからもたらされているわけではない。『寄生獣 完結編』での彼の突出した寄生獣ぶりはもちろん、身体的な迫力によるものだったが、今年公開された黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』における東出の不可解にして痛快な吸引力は破格であり、彼が規格外の恐るべき俳優であることを証明した。西島秀俊扮する元刑事を、捜査の現場に引きずり出す元相棒を、東出は真意も行動原理も不明な人物として創出しており、物語の中盤に作品世界から退場した後も、その存在感は尾をひいた。


 『クリーピー』で東出が垣間見せるのは、一歩間違えば悪意になりかねない好奇心であり、限りなく虚無に接近した善意でもある。つまり、いかようにも受け取れる。答えではなく、問いだけが延々と放置されているかのような人物の深層が、そこにはあった。


 そんな東出が、今度は真逆の方向性から、底知れぬ俳優力を発揮するのが『聖の青春』である。


 29歳で病死した実在の棋士、村山聖の最期の4年間を追いかける作品。村山に成りきるため、大増量をおこなった松山ケンイチのアプローチは、既に報道されているように『レイジング・ブル』におけるロバート・デ・ニーロのそれを彷彿させる鬼気迫るものである。それでいて、いわゆる熱演に陥ることなく、夭逝した青年の魂をあくまでもチャーミングに体現した芝居には心から称賛を贈りたい。


 東出が演じるのは、村山の生涯のライバルだった羽生善治だ。将棋に興味のない人々にも周知されている、あの羽生名人である。村山とは段違いの知名度を誇り、現在も将棋界を牽引する最前線の王者に扮するのは非常にリスキーな試みであっただろう。


 当の羽生本人から譲り受けた眼鏡をかけ撮影に臨んだ東出の姿は、一見、完コピを目指しているかに思える。スチール写真を眺めれば、思わず「そっくり」などと呟いてもしまいそうだ。だが、映画は写真ではない。映像なのである。


 東出は、現実の羽生を模倣して、映画に移植しているわけではない。映画にしか存在しない人物を作り上げ、そこに棲まわせる。


 それ以上のことはしない。映画的にも、羽生の内面が語られることはない。東出が演じる羽生は、ただ、『聖の青春』という世界に棲んでいるだけだ。だからこそ、東出昌大ならではの不可解にして痛快な吸引力が発揮される。いや、この際、東出は、不可解だからこそ痛快な何かを追い求めながら、人物を形成していると断じてしまいたくなる。


 村山にとって羽生は、大いなる目標であり、余命を燃やすための対象でもあった。言ってみれば、羽生は、村山の精神の被写体だった。東出は、作品のこうした視線構造を心得ており、あくまでも、見つめられる人物として、そこに居続けた。


 村山が羽生を酒に誘う場面がある。ふたりが言葉を直に交わすのは、映画ではこの一度きりである。ふたりは将棋以外の趣味も一致せず、接点がまったく見いだせない。自分たちは将棋でしか交錯できないのだということが、幾つかのやりとりから見えてくる。


 少女漫画好きの村山にとって、羽生と酒席を共にすることは、デートにも似たことだったのでないか。村山は、明らかに羽生を求めている。


 東出は、羽生として、村山のときめきを無闇に共有するのではなく、あくまでも受けとめるだけの、フラットな所作や表情にとどめており、そのことが、ふたりの関係を安易に友情などとは語らせない風情につなげている。


 互いの力を認め合う好敵手という図式的な構図ではなく、憧れる者と、憧れられる者との邂逅が、そこではある節度の下に、捉えられている。


 最終盤、ふたりの<対話>は、無言の対局の中でだけ繰り広げられる。無論、言葉はない。だが、互いに盤上を凝視する彼らの姿は、ある真実を告げる。


 村山聖にとって、羽生善治は、まったく別個の存在だったから、追い求めずにはいられなかった。東出昌大はここで、彼ならではの<違和>を屹立させ、<不可解=痛快>というテーゼを敢然と指し示している。(相田冬二)