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渡邉大輔の『溺れるナイフ』評:情動的な映像演出の“新しさ”と、昭和回帰的な“古さ”

2016年11月16日 10:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)ジョージ朝倉/講談社 (c)2016「溺れるナイフ」製作委員会

 現在、大ヒットしている『溺れるナイフ』は、ジョージ朝倉の人気少女コミックを原作にした山戸結希の最新作です。


参考:もっとも少女たちに近い監督、山戸結希が『溺れるナイフ』で見せた進化


 東京で人気ファッションモデルをやっていた少女、望月夏芽(小松菜奈)が家族で引っ越してきた紀州の海辺の田舎町で出会った鮮烈なオーラを発する同級生、コウ(菅田将暉)と恋に落ちる青春ラブストーリー。山戸といえば、上智大学在学中に制作した自主映画『あの娘が海辺で踊ってる』(12年)が映画ファンや映画人たちの注目を集め、その後も短編『おとぎ話みたい』(13年)、そして女性アイドルグループ「東京女子流」を主演に迎えたメジャーデビュー作『5つ数えれば君の夢』(14年)など、この数年で瞬く間に輝かしいキャリアを積み重ね、今後のさらなる飛躍を期待される気鋭の若手映画監督です。


 そんな山戸ワールドには、すでにいくつかの特徴があります。たとえば、自意識過剰な少女を主人公とした青春映画という枠組み、主人公の内省的なモノローグ、「音楽」と「ダンス」、映像の巧みなコラボレーション、とりわけ情動と情念に溢れた演出とキャメラワーク……といったところでしょうか。総じて山戸の演出は、従来の映画のキャメラワークや編集の規範を統御する、安定的かつ経済的な構成感覚とはかなり隔たった、作家やキャメラの身体的情動が剥きだしになった(ように見える)スタイルが顕著に見られます。それが、この弱冠27歳の若い映画作家の魅力であり、ある種の「危うさ」ともなってきたといえましょう。


 実際、そうした彼女の作風がこれまでのキャリアですべて奏功してきたかと問われれば、必ずしもそうは思えません。たとえば、『おとぎ話みたい』の演出の稀有な迫真性や叙情性に比較すると、初長編『5つ数えれば君の夢』はややそれが全体の散漫さや構成の破綻につながっていたように感じられました。


■『溺れるナイフ』に見る山戸演出の新しさ


 今回の『溺れるナイフ』も、基本的には以上のような山戸ワールドが全面的に展開されているといえます。たとえば、映画冒頭近くの田舎に越してきた夏芽がひとり、波が打ちつける岩場が突き出た入江を歩く途中、岩場の影の波間に漂うコウをはじめて見つけるシーン。画面の手前から奥にかけて弧を描きながら広がる入江のさきに、浜辺を歩く小さな夏芽の姿が映されます。すると、続くショットでは、岩場の奥まった波間に全身を浮かべて仰向けに漂うコウの姿が映される。さらに、夏芽の顔のクロースアップ。その後、夏芽は海から上がったコウとすれ違い、ふたりの最初の出会いの場面となります。


 この物語上、最初の、そしてもっとも重要なシークエンスは、にもかかわらず、明らかに通常の映画のショット連鎖からは逸脱しています。海面のコウを写したショットも、それがいわゆる三人称客観ショットなのか、それともそのあとにコウを見つけることになる夏芽の主観ショット(POVショット)なのか――おそらくはあえて――あいまいに宙に吊られるような、きわめて「粗暴」な編集になっているのです。『溺れるナイフ』はこの冒頭のシークエンスの演出が何より典型的であり、その後も映画は極端なロングショットと人物のクロースアップがしばしば用いられ、また、――これもいかにも山戸作品に特徴的な、ぎこちなく動くズームや手ブレのショットが火まつりのパッシブなシークエンスで頻繁に用いられます。
撮影監督の柴主高秀の言葉からは、こうした一連の映像演出は撮影スタッフというよりも、やはり監督の山戸の意向が大きく反映されているようです。すなわち、この『溺れるナイフ』においても、山戸は物語映画としての映像的・叙述的な結構(安定性)よりも、言葉にならない身体的な情動性こそを過剰に映像に籠めようと試みているように思えます。その試みが「映画作品」として成功しているかといえば、個人的には非常に懐疑的です。


 ですが、今日の映画や映像文化において、かつての古典的映画のような端正な物語構成力や安定したキャメラワークなどよりも、この手の身体的で脊髄反射的な情動性のほうが全面化しがちな傾向にあることは、ぼく自身もだいぶ以前から指摘してきたことです(拙著『イメージの進行形』第二章などを参照)。ですので、山戸のような若手作家の台頭は、何ら不思議ではありません。たとえば、TwitterのVineやInstagram、GIFアニメなどを思い浮かべてもらえればすぐに納得できるだろうと思いますが、とりわけSNSなどのリアルタイムウェブが社会に急速に浸透して以来、映像の表現や受容の場においてもこうした情動的な傾向やリアリティはますます強まっています(いま話題のテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の「恋ダンス」も「踊ってみた」動画の文脈を意識したものです)。それにたとえば、山戸はデビュー以来、音楽とのコラボレーション企画にも積極的であり、『溺れるナイフ』でも「ドレスコーズ」の志磨遼平が重要な役どころで出演し、主題歌を担当しているほか、大森靖子やtofubeats、おとぎ話など、サブカル系で人気のミュージシャンの楽曲を多数、劇中でフィーチャーしています(このMV的な手法は『君の名は。』にも共通する最近の映像コンテンツのトレンドです)。


 いずれにしても、以上のような要素から、『溺れるナイフ』やそこでの山戸の演出が、これまでの邦画にはあまり見られない「新しい」ものだということはできるでしょう。


■今年の代表的な邦画作品に見る「昭和回帰」の傾向


 とはいえ、じつは『溺れるナイフ』にはもうひとつの「顔」もあるように思えます。


 しかも、その顔はやはり本作に限らず、「豊作」といわれた今年の代表的な邦画作品にもどこか共通して見られる傾向です。それは、いってみればある種の「昭和回帰」の傾向です。ここでぼくがいう「昭和」とは、「20世紀」とほとんど重なるものととってもらってかまいません。いわゆる19世紀的な安定した市民社会=「モダン」を脱して、そうした市民社会の「外部」をも内包した近代国民国家や消費社会を生みだした「モダニズム」の時代です。その時代はおおよそどの国でも、20世紀のなかば、昭和の戦後期に完成をみます。


 あらためて眺めてみると、今年の話題の邦画は、おしなべてそうした昭和期(戦後)の日本映画のテイストや、代表的な名作を髣髴とさせる細部やモティーフに溢れていたように思われます。たとえば、近年の仕事ぶりが目覚ましい山田洋次監督の『家族はつらいよ』は『東京家族』(13年)に続く小津安二郎へのオマージュですし、黒沢清監督の新作『ダゲレオタイプの女』もまた、小津の『風の中の牝雞』(48年)や溝口健二の『雨月物語』(53年)を思わせることはすでに多く指摘されています。中野量太監督の『湯を沸かすほどの熱い愛』は40~50年代に流行した「母もの映画」のプロットを想起させます。そして、もはや断るまでもなく今年大ヒットした『君の名は。』と庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』は、いずれも『君の名は』(53~54年)、『ゴジラ』(54年)という戦後昭和が生んだメロドラマと怪獣映画の傑作の記憶を再起動させました。


 それでは、『溺れるナイフ』はどうか。この点について考えるときに、おそらく恰好の比較対象となる作品がいくつか存在しています。まずひとつは、これも今年大いに話題となった真利子哲也監督の『ディストラクション・ベイビーズ』です。とはいえ、この両作にはさしあたりわかりやすい共通点が存在します。まず、前者の主演の小松と菅田が後者にも準主役級で出演しています。また、前者は和歌山県新宮市、後者は愛媛県松山市という地方の海辺の町を主要な舞台にしている点。さらに、前者ならばコウ、後者ならば芦原泰良(柳楽優弥)という主人公あるいはかれの周りの人物たちのいる世俗的日常を超出しているかのようなオーラをまとった存在に、身近にいる人物がしだいに魅了されていくという物語の骨子もよく似ています(つけ加えれば、後者で魅了される側のキャラクターを演じる菅田が前者では魅了する側を演じるという対称関係もあります)。また、『溺れるナイフ』の紀州や、題材のひとつの「火まつり」はいうまでもありませんが、『ディストラクション・ベイビーズ』の海と山に囲まれた松山の情景や土着的で始原的な若さや暴力のイメージも、どこか(ここ最近の日本映画の主題やルックをいたるところで規定しているようにも思える)中上健次的な風土を思わせます(中上が脚本を書き、柳町光男が撮った『火まつり』〔85年〕にも目配せがあります)。


 何にせよ、以上のようにいくつかの共通性をもつ『溺れるナイフ』と『ディストラクション・ベイビーズ』がいかなる点でさきほどの「昭和回帰」の徴候を思わせるのかといえば、ぼくの見立てでは、どちらの作品もどことなくちょうどいまから60年前の50年代なかばに社会現象になった「太陽族映画」に似ているのです。


 ちなみに、『ディストラクション・ベイビーズ』と太陽族映画との類似性については、すでに別のところで書いています(『ゲンロンβ2』掲載)。「太陽族映画」とは、作家・石原慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』(55年)に登場するような戦後世代の無軌道で享楽的な若者(太陽族)を描いて、1956年に立て続けに公開された一連の青春映画のことです。石原の実弟であり、のちに戦後日本映画を代表するスターとなる石原裕次郎の初主演作『狂った果実』(56年)などで有名で、フランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えたり、現在の「映倫」が発足するきっかけを作ったりと、日本映画史的にはかなり重要なブームでもあります。『ディストラクション・ベイビーズ』は、もちろん、無軌道な「性と暴力」を描くという点でも現代の太陽族映画と呼ぶにふさわしいでしょう。ほかにも、港と船という舞台装置や、「兄弟の物語」(『ディストラクション・ベイビーズ』の泰良と将太と、『太陽の季節』の竜哉と道久、『狂った果実』の夏久と春次)であるといったいくつかの点で、両者の作品世界には明らかな並行性が認められます。


 他方、『溺れるナイフ』についていえば、やはり海中での若い男女の主人公のキスシーンが挙げられるでしょう。『溺れるナイフ』では、久しぶりに言葉を交わした夏芽とコウがそのまま停泊していた漁船ボートに乗り、沖合に出たところで、ふたりで海中に飛びこんでキスをする印象的なシーンがあります。かたや『太陽の季節』でも知られるように、ヨットに乗って遊びに出た主人公の長門裕之と南田洋子が海中に潜ってキスをするのを水中撮影で捉えたショットが登場します。無軌道な男女の性愛や暴力を描くという点でも『溺れるナイフ』は『ディストラクション・ベイビーズ』同様、現代の「太陽族映画」と呼ぶにふさわしい細部を含んでいるのです。


 もちろん、たんに「昭和回帰」といっても、小津のホームドラマや「母もの映画」のメロドラマのような保守的にも思える鷹揚な作品群と、当時としては過激な「性と暴力」が鮮烈に描かれる太陽族映画とでは比較するにも大きな開きがあるように思えます。とはいえ、たとえば、父親を殴りつける『太陽の季節』の主人公にせよ、あるいは女学生を暴行する『処刑の部屋』の主人公にせよ、やはりかれらにはそこから逸脱/対抗しようとする戦前から続く社会的な制度や慣習が確固とした対立項として存在していたこともまた事実です。なるほど、だからこそ50年代の太陽族青年たちは社会や家族にどんなに反抗的な態度を取ろうと、結局は、両親たちが住む家や学校から出てゆくことはない。その意味ではかれらもまた、ひとまずは近代的な公共圏や国民国家に内在する「外部」であったといえますし、その意味でやはり「昭和的」な範疇に収まる存在だといえます。


■「新しさ」と「古さ」の両面性が意味するもの


 このように、『溺れるナイフ』は――最近の邦画と同様――今日の映像を取り巻く環境と巧みに連動する「新しい」要素をもつと同時に、きわめて「古風」=「昭和的」な映画でもあるといえるでしょう。とはいえ、こうした「昭和的」かつ「20世紀的」な世界観や価値意識は、やはり最近の日本映画が描く世界全般に認められるものでもあります。これもたとえば、『溺れるナイフ』にも出演している上白石萌音がヒロイン役で出演している大ヒット映画『君の名は。』でも、前者の「東京‐和歌山」同様、「東京‐岐阜」という、いかにも昭和的な、今日の「ファスト風土化」(郊外化)以前の、都市と田舎の二項対立的なイメージがことさらに強調されています。『溺れるナイフ』でいえば、その感覚は物語の後半で大友勝利(重岡大毅)がカラオケで熱唱する吉幾三の「おら東京さ行くだ」に象徴的に表れているといえるでしょう。


 『溺れるナイフ』に表れる「新しさ」と「古さ」。つまり、ソーシャル的な仕組みと馴染みのよい情動的な映像演出と、「昭和回帰的」なイメージや世界観。


 この奇妙な両面性がもつ意味については、またもっと別の場所で深く論じなければなりません。ここでは最後に、ごく簡単に跡づけておくにとどめましょう。ぼくの考えでは、この両面性はやはりいずれも、この2010年代なかばのわたしたちの社会のリアリティをうまく掬いとっていると思われます。具体的にいえば、わたしたちの社会は、文字通り、一方ではグローバル資本主義とリアルタイムウェブの広範な浸透でコミュニケーションはかつてなく身体的で情動的なものになっている。とはいえ他方で、それゆえにこそ逆説的にも、わたしたちの社会は、たとえばエマニュエル・トッドが述べるように、ふたたびどこか20世紀的=昭和的な価値観にも戻りつつある。


 今年の話題でいえば、いわゆる「Brexit」(イギリスEU離脱)にせよ、また国内の安倍政権の改憲論議にせよ、どこまでも過剰流動化する労働や資本に対して、各国はふたたび旧来の「国民国家モデル」の再興を目指しているように見えます。おそらくそのふたつの側面が端的に表れたのが、ほかならぬ先日のドナルド・トランプの次期アメリカ大統領就任が決まった大統領選でした。というのも、かたやグローバル資本の過剰流動化とポリティカル・コレクトネスの蔓延から来る「白人=マジョリティのルサンチマン」をSNSでリアルタイムに掬い取る情動的な支持拡大戦術と、かたや企業税率引き下げから移民排斥まで保守的な国民国家モデルを掲げるトランプの圧倒的かつ予想外の勝利は、まさにこの現代の新しさと古さの奇妙な結託が示されたものだったといえます。


 『溺れるナイフ』の画面から垣間見える対照的な傾向は、ぼくには、まさにこの現代社会のふたつの側面を図らずも照射するものに見えてなりません。現代映画を読み解く面白さは、こうしたところにもあるといえます。(渡邉大輔)