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モルモット吉田の『溺れるナイフ』評:菅田将暉によって、山戸映画の男が血肉通った存在になった

2016年11月14日 19:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)ジョージ朝倉/講談社 (c)2016「溺れるナイフ」製作委員会

■神代や相米の映画みたい


純子「そうでっか! あんた、うちを殺さはるんですか!? うちに死ね言わはるんですな!」
 そこに川がある。
純子「うち、死にます!」
 ドボーン。飛び込んでしまう。
「ああ、もう! なんぎやな!!」
 慌てた洋、屋台を置くと、ドボーン。
 洋もとびこむ。


 もちろん、これは『溺れるナイフ』の大阪弁バージョンを創作してみたわけではない。1975年に神代辰巳が日活ロマンポルノで監督した『濡れた欲情・ひらけ!チューリップ』の1シーンを脚本(神代辰巳・岸田理生)から引用したものだ。実際の映画でも、屋台をどこまでも引いて延々と疾走した果てに、橋の中ほどまで来ると実に勢い良く男女は(本当に)川に飛び込んでしまう。


 神代の手にかかると、何でもないシーンが画面の中で躍動を始める。ただ向かい合って話すだけのシーンが互いの肩をぶつけあいながらの対話となり、自転車に乗ると円を描きながらいつまでも回っている。〈そこに川がある〉からには飛び込むのが神代の映画だ。


 ロマンポルノの助監督だった相米慎二も神代の作品に付いたことがあるというが、後の監督作『ションベン・ライダー』(83年)で、〈そこに川がある〉を更に過剰に発展させた。目も眩むような高さの橋の上から河合美智子と原日出子を川に飛び込ませたのだ。この映画は主人公が中学生たちなので、もはや理屈も何もなくがむしゃらに走り続け、道の横に川が映ったと思う間もなくポチャンと落ちる。そんなシーンを長回しで延々映すため、上映時間の関係で無理やりカットせざるを得なくなり、ストーリーは全くつながらなくなってしまったが、全編異様な活力が漲っている。


 『溺れるナイフ』を最初に観た時の印象は、中上健次的という以前に、〈神代や相米の映画みたい〉だった(ちなみに神代は中上原作で『赫い髪の女』を監督している)。公開2日目のTOHOシネマズ新宿で再確認してみたが、やはり同様の思いを抱いた。4年前の今頃、『あの娘が海辺で踊ってる』(12年)と『Her Res ~出会いをめぐる三分間の試問3本立て~』(12年)を観て以来、山戸結希の作品をひと通り観てきたが、『おとぎ話みたい』(13年)を劇場で9回観るという気違いじみた真似をしながら、漠然と寺山修司、園子温に継ぐ逸材という思いを抱いていたが、神代や相米を感じたことはついぞなかったので、いささか意外だった。


 実家の旅館を継ぐことになった両親と共に海に面した浮雲町へと引っ越してきた夏芽(小松菜奈)が、コウ(菅田将暉)と最初に出会うのは夜の海だが、以降2人の周辺にはいつも〈水〉がつきまとう。著名な写真家の広能(志磨遼平)が夏芽を撮るために浮雲までやってきて森で撮影を行うが、コウの妨害で撮影は中断し、夏芽はコウを追いかける。脚本では「コウはするすると木々の間を縫うようにして走り去っていく。あっという間にコウとの距離は開き、夏芽は追うのをあきらめる。荒い息を吐きながら、その場にへたり込む夏芽。追いついた広能が夏芽の姿を撮り続ける」とあるのみだが、映画は森の中の水たまりの周辺を2人が円を描きながら走り回る描写が長く続き、やがて夏芽は水の中に体を横たえる。その後、完成した写真集をコウに見せるシーンでも、脚本に指定されているのは川沿いの道やバス停留所だ。それが映画では道の横の小川に飛び込み、夏芽は川の中に横たわってしまう。ここまで来れば、この2人が会う時には水が不可欠なことは明らかだろう。


 では何故、夏芽は水たまりや小川に身を横たえるのか? それはタイトルが出る直前を思い出せばいい。夏芽はコウに肩を抱かれ、地元では入ることを禁じられている海へと飛び込み、2人の全身が海水で満たされる。それは絶頂に愛が達した瞬間に溢れ出た愛液の様でもある。夏芽にとってはもう一度、2人で全身を水に浸したいという願望が、以降の彼女を突き動かすのだ。広能から映画出演のオファーがあったことをコウに話す時も、2人は河原の大きな水たまりに降り立つ。ロングショットで水の周辺を飛び跳ねる2人を点のような大きさで映し続け、やがて夏芽は水たまりにバシャバシャと入ってコウの側に駆け寄る。こうして水に寄り添う2人だけの世界が映画の中を浸していく。そして最初の火祭りの夜に夏芽の身に降りかかる出来事が起きるのは、脚本では「山中の道・斜面下」となっているが、映画は斜面下の湧き水のせせらぎの中で事態が進行するのも、もはや必然であることがわかるはずだ。コウが夏芽の横たわる水のもとまでたどり着けるかどうかで2人の運命が変わることを予感させ、このシーンが終わりに向かっていくにつれて、せせらぎの響きは大きくなる。海でも山でも、夏芽とコウは〈水〉によって逢引きするのだ。


 一方、夏芽に想いを寄せる大友(重岡大毅)には、〈水〉は味方しない。夏芽の旅館へ魚を届けに来た時の自転車に積まれたクーラーボックス(中には氷が入っているのだろう)が象徴するように、夏芽と大友の関係は、水ではなく溶けない氷でしかない。実際、夏芽がアイスキャンディーを半分に割って大友に渡し、2人がコウと居る時のようにグルグルと円を描いて歩くが、アイスは固体のままで液体にはならない。後半、夏芽が全身を濡らして道を歩いている時に大友と出くわすが、当然、彼の体は乾ききっており、海が好きかと夏芽に問われても、コウと違って大友は「うん、まあの」と答えるのがやっとだ。決定的なのは、バッティングセンターで今度は大友から夏芽にアイスキャンディーを渡すが、彼女は拒絶する(ここでのアイスのくだりは脚本にはない)。氷が溶けて水になるかも知れないという大友の願望はこうして潰えてしまうのだ。


 水を介して描かれるコウと夏芽の神話的世界は、「あの頃、特別に見えた」と大友が後に述懐するように、2人にキラキラとした光を帯びさせる。思い出してみれば、『あの娘が海辺で踊ってる』でも、海がフレームに入ってくると、瞬時に映画が息づき始めた。夜の海に膝までつかる2人の少女をキャメラが自在に周回しながら映したショットがいまだに忘れがたいが、メジャーでの商業映画進出第1作が内容的にも自主映画時代の処女作と反射し合う関係なのは興味深い。


■山戸結希の映画世界
 もし、『溺れるナイフ』が夏芽とコウの神話的世界だけを描いた1時間ほどの中篇なら、『おとぎ話みたい』に匹敵するとんでもない傑作と思っただろう。『あの娘が海辺で踊ってる』も『おとぎ話みたい』も1時間以内の中篇である。余計な夾雑物を大胆に取り払い、映像と言語と音楽を同時並列させて疾走し、三段式ロケットの如く、一段目の高度が落ち始めると矢継ぎ早に二段目が点火され、一気に飛距離を伸ばす山戸映画の手法は中篇には相応しいが、85分の『5つ数えれば君の夢』(14年)になると減速が激しく、長編には十全な構成が必要と思わせた。その点では、『おとぎ話みたい』でダンスの先生を演じたベテラン脚本家の井土紀州が『溺れるナイフ』の脚本に参加したことで、2時間の商業映画として通用する脚本が作られたのは正しい戦略だろう。しかし、冒頭の相米の事例にもあったが、即興的な動きを重視すると必然的に各シーンが長くなり、映画を観ている分には切っ先鋭い編集の妙技もあって観ていられるが、作品の構造として説明不足、描写不足が目につくようになる。つまり、脚本には書かれているが、映画からは落ちているシーンが出てくる。それはどの映画でも同じことだが、本作の場合、重要と思われるシーンも消えている。


 一例を挙げれば、山の神さまの説明を夏芽が聞く場面、コウが他のクラスの女子と相合傘で歩いていくのを目にした夏芽がコウの前に立ちはだかって写真集を見せようとする場面、コウの祖父の葬儀とコウがカナ(上白石萌音)を罵倒する場面、翌年の火祭りが厳戒態勢になっている様子など、実際に撮影したかどうかは不明だが、これらのシーンがあるだけでも映画全体の印象は変わるはずだ。


 中学と高校で鮮やかにキャラクターを作り変えたカナは、上白石の巧みな演技によって描かれない裏も想像させてくれるが、これは少女には卓越した描写を得意とする山戸だからこそ、と思わせる。ところが大人や男だけの描写になると途端に凡庸になる。広能の様に浮世離れした存在は、『おとぎ話みたい』でおとぎ話のメンバーが演じた様に、あえてミュージシャンに演じさせることで成立するが、夏芽の父(斉藤陽一郎)や祖父(ミッキー・カーチス)になると、誰が演じようがどうでもいいという感じだ。あれだけ夏芽といる時は崇高なまでに凛々しいコウにしても、自宅で祖父と面作りをする場面や、火祭りで松明を持って舞う男だけの場面になると形骸的で描写に重みが出てこない。水=海には神話性を持たせているのに、火祭りが不発ではもう一方の山の神話性が立たない。水によって繋がってきたコウと夏芽が、海と山、水と火が重なり合う情炎のクライマックスを火祭りの最中に形成せねばならなかったはずだが、終盤の印象が弱いのは大きな欠落に思える。
 
 ここらで『溺れるナイフ』に至る山戸作品にも目を向けておこう。本作のプロトタイプとも言える山戸結希×小松菜奈の先行作品がある。中島哲也が監督した映画『渇き』(14年)のBlu-ray、DVDの特典映像に収録された『私はわたしを探しています。』である。『渇き』の撮影から1年後、小松がインタビューに答えて回顧し、メイキング映像がインサートされるという構成だが、そうしたありきたりな枠は守りつつも、田舎→東京という山戸作品で繰り返し描いてきたテーマが描かれる。山梨の田舎で生まれ育った少女が東京でモデルの仕事をするという小松の実生活を、地元の山の頂や山中の滝をバックに語らせ、そこに「私の運命は誰が決めるのでしょうか。それは私自身に他なりません。私の心も身体も、私が輝くことも光の下で私が選んでいるのです」「ずっと輝くことを待っていました」「私は東京へ向かいます。私が輝くための時間へ」といった山戸作品らしい過剰なモノローグで小松が語りかけてくる。学校で同級生たちへ撮影現場のことを尋ねられ、屈託なく答えていると語る姿、母とは直ぐ喧嘩になるが、父は仕事を応援してくれていて何でも話せると語る姿に、『溺れるナイフ』の小松を重ねることは容易だろう。


 一方で、山戸作品においては、俳優の言語力と身体性によって作品が左右される。『おとぎ話みたい』が突出したのは監督の力量だけでなく、それを実現させる趣里という類まれな言語力と身体性を持つ俳優との出会いも大きかったはずだ。学校の屋上でその場にいない恋いこがれる教師に向かっての独白を続けながら自在に身体の重心を動かし、飛翔し、フェンスに飛びつく演技を他に誰ができるだろうか。実際、『5つ数えれば君の夢』に失望していた筆者が、その後に『おとぎ話みたい』の続編的なPV『COSMOS』 (『おとぎ話みたい』一般劇場公開時やソフト化された際には連続上映されている)で再び山戸の才に感嘆した。1カットで趣里が銀座中央通りをひたすら舞い踊るが、あたかも彼女の姿が誰も見えていないかのように、人混みの中を見事にすり抜けていく。演出と演者が幸福な形で交じり合った時の爆発力を実感させられる。


 そうした意味で、『溺れるナイフ』で身体性を担ったのは菅田将暉だろう。森の中で水たまりの周辺を走る時の俊敏さや、小屋で布団に寝ている時に反対側に向く時の目にもとまらぬ速さなど、菅田の身体の滑らかな動きには見惚れてしまう。これまでの山戸作品では女子は良いとして、男の描写になると女子の妄想的産物か、棒にしか見えなかっただけに菅田によって血肉が通った存在になったのではないか。


■映画の中のカラオケ
 それから山戸作品の特徴でもあるカラオケにもふれておきたい。カラオケとは、かつてのディスコに匹敵するほど、映画で撮ってもこれほどつまらないものはないと思わせる空間である。狭く、動きが限定され、わざとらしく盛り上がって唄うか、突っ立って唄うかしかない。つまり、どう撮っても面白くはならないのだ。下手をすれば1曲丸々、2~3分も歌い続けるだけに、その時間をどう使うかで監督の力量が露骨に出てくる。日本映画史上最高のカラオケシーンは北野武の『3-4X10月』(90年)でダンカンが中島みゆきの『悪女』を唄うシーンだろう。歌の始まりから終わりまでを1カットで撮り、狭いスナックを魚眼レンズで360度回転しながら、歌の間にビートたけしと渡嘉敷勝男が、店に入ってきたヤクザとトラブルになり、ビール瓶と素手で相手を倒す。空間と時間と歌を巧みに取り入れたカラオケの映画的活用である。


 山戸の場合は『Her Res~出会いをめぐる三分間の試問三本立て~』でカラオケBOXの中で女子同士がもうひとりの女子をめぐって張り合い、最後には前野健太の『友達じゃがまんできない』が味わい深く流れてデュエットする。エンドロールでは同曲を大林宣彦版『時をかける少女』(83年)のエンディングの様に、劇中の各シーンがリピートされ、1パートずつ出演者が唄うという趣向になっており、カラオケと映画を有機的に結びつける設定に感嘆した。『おとぎ話みたい』には趣里の一人カラオケシーンがある。おとぎ話の『Boys don't cry』を唄い始めるが、ライブハウスでおとぎ話が同曲を唄うシーンとシンクロし、ライブとカラオケが一体化する。趣里も最初は座って唄っていたが、やがて椅子の上にあがって上下に身体を揺らしながら唄い続ける。これもまた、単調なカラオケ場面とは一線を画すものだ。そして『溺れるナイフ』では、スナックで大友が吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』を唄う。大友の心情を代弁するかの様にキャメラが激しく揺さぶられ、原作のファンがどう思ったかはさておき、山戸作品にふさわしい名シーンとなった。もちろん、このパフォーマンス的歌唱演技で3分ほどの時間を飽きさせなかった重岡の力量に負うところが大きい。


 さて、メジャーの商業映画へ進出を果たした山戸結希だが、30年ほどの時差はあるものの、同じ「ぴあフィルムフェスティバル」出身で商業映画へと向かった園子温が背水の陣で初めての漫画原作に挑んだ『ヒミズ』(12年)にまでかかった長い歳月を思えば、わずか3、4年で同じ位置まで来たことに驚かされる。園子温が試行錯誤を繰り返しながら商業映画の中で折り合いをつけて自身の色を出し続けている様に、山戸結希もこれから時間をかけて様々な企画を前にして試行錯誤を試みるのだろう。それに一喜一憂しながら付き合い続けるのが山戸結希と同時代に生きる者の特権である。


 最後に余談を――来月発売になる『ひそひそ星』のBlu-ray、DVDのオーディオコメンタリー収録時に園子温監督から聞いた話だが、映画の後半に聴こえてくる男女のひそひそ声は、男の声は園子温、女の声はたまたまスタジオに挨拶に訪れた山戸結希に声を入れてもらったという。これは耳をすませて聴く価値がありそうだ。


※脚本は『シナリオ 2016年12月号』(日本シナリオ作家協会)掲載分より引用。


(モルモット吉田)