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『溺れるナイフ』は究極の少女マンガ映画だーー山戸結希監督、文法を逸脱した映像表現の力

2016年11月12日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)ジョージ朝倉/講談社 (c)2016「溺れるナイフ」製作委員会

 画面からパッションが溢れてくる。色彩が躍動している。久しぶりに、映画を観て脳天から痺れまくる感覚を味わってしまった。あまりに鮮烈な『溺れるナイフ』は、映像を観る喜びと、ヒリヒリとした現実に向き合う感覚を思い出させてくれる。


参考:『君の名は。』失速ながらも首位奪還 『溺れるナイフ』は好スタート!


 平成元年生まれでまだ二十代の、大学では哲学科出身だという山戸結希は、個性と才能の詰まった映画監督だ。「映画は映像の芸術なので、セリフに頼ってはならない」とよく言われるが、山戸監督の過去作『おとぎ話みたい』は、全体が少女による、ときに難解なナレーションや、演劇風の独白で構成される。だが、それが作品をダメにすることはなく、逆に、だからこそグイグイと一人の少女の内面に引きずり込まれていく。そしてその原動力となっているのが、作品を貫く強い映像の「印象」と、常にテーマに向き合い続ける強い「意志」である。


 本作『溺れるナイフ』では、田舎の海岸で少女と少年が出会う場面で、ペン画のような荒く強烈なコントラストで描写される波と、その側を少女が歩いていく風景に、海に入る少年を写した数カットを何度も断続的に挿入するという、ある種の暴力性をはらむ編集が見られ、度肝を抜く。従来のコードにはまらない、いわゆる「文法」の逸脱である。


 ジャン=リュック・ゴダールが『勝手にしやがれ』で行った、ジャンプカットなどの新しい演出手法や、小津安二郎が意図的に行った、イマジナリーラインを越える禁断的なカットの繋ぎなど、改革的な映像作家は、多くの優れた作家が構築し規則化した手法をあえて無視することで、映画をさらに前進させる。文法は、ある意味便宜的なものに過ぎず、本来は存在しないものなのだ。山戸監督は本能と感性を手掛かりに、表現したいテーマを自分の設定した規律のなかで表現する。彼女の作品に強い「印象」を与えられるというのは、それが借り物の表現でないからである。だから演出は陳腐にならず、少女の精神の叫びが突き刺さってくる。


 『溺れるナイフ』は全17巻の同名の少女マンガが原作だ。このマンガを読むと、山戸結希監督が映画化を熱望したというのも納得する、彼女同様の先端的で根源的なテーマに取り組んでいる作品だということが分かる。そして、長い原作のエピソードを拾い脚色した映画のストーリーは、内容を薄めたダイジェストなどでなく、山戸監督らしい、より純粋で直線的な、さらに強い「印象」を残す作品へと変貌を遂げた。


 自身もティーンモデル出身である小松菜奈が演じる、東京で芸能活動をしている少女“夏芽”は、親の都合で不本意にも辺鄙な田舎の町に住むことになってしまう。「わたしが欲しているのは、身体を貫くようなまばゆい閃光だけ」と独白する彼女は、芸能活動から離れ、輝きの世界から取り残されていく失意のなか、土地のしきたりにより立ち入り禁止となっている海岸をふらふらとさまよう。そこで出会ったのが、「この町のモンは全部俺の好きにしてええんじゃ」と豪語する、菅田将暉演じる破天荒な少年、“コウ”だ。


 なぜこの二人が強く惹かれ合うのか。東京と田舎町に心と体を引き裂かれた夏芽は、土地の者が畏れる「神さん」の住む「異界」に足を踏み入れている。ここではない場所、誰もが足を踏み入れることができない場所という意味では、「芸能界」と、この神域は同種のものといえる。夏芽は「美しさ」という「力」を持っており、コウは旧家の神職であることを背景に、地元ではいくつかの意味で「力」を持った存在だ。彼らは「力」を持ち、タブーを畏れずに破ることで、町の誰もが到達できない「遠くまで行ける」特別な二人なのである。同時に、ともに禁断の実を食べ、エデンの楽園を追放されるアダムとイヴのようでもある。


 本作でも「脱ぐ、脱がない」という問題が夏芽を悩ませるように、美しさをもって芸能界で生きる女性は、多かれ少なかれ、自分の性的な部分を大衆に差し出し、切り売りしていかなければならない。ときに自分の身体を傷つけ、生と死の綱渡りをするコウの危うさもまた、そのようなエッヂの上に立つ精神性を共有している。その生と死があやしく絡み合った世界が、二人が沈んでいく暗い海中の映像として象徴的に表現されている。しかし、彼らの特別な結びつきによる恋愛は、ある事件によって破綻を迎えてしまう。夏芽は自分の美しさを表現することに恐怖を覚えるようになり、コウは自分の無力さに打ちひしがれる。


 かつての輝きを失った夏芽は、多少ウザいキャラだが元気でへこたれない、コウとは異なる優しい魅力を持った少年、“大友”に惹かれていく。夏芽の心の動きは、彼女の塗るペディキュアの色によって繊細に表現されるが、芸能活動が再び軌道に乗ると、「遠くまで行ける」力に限界のある大友は、彼女の跳躍を鈍らせる存在となっていく。彼女を遠くまで羽ばたかせることができる相手は、やはりコウなのである。


 ここでは、常識的な範疇にとどまるような誠実さや優しさは無力だ。自分の全てを受け入れ包んでくれる男という、かつて理想とされた「王子様」像を本作は否定する。自分の道を自分で切り拓き、出来る限り遠くまで進もうとする女にふさわしいのは、死に向かって破滅しながらでも、少しでも遠くへ進もうとする男だと主張する。それこそ、本作が到達した、むき出しの「リアル」である。そして王子様を乗り越えた男は、そのリアルすらも突き抜け、ついに「神」へと昇華していく。


 少女マンガにおける男と女の関係性は、時代とともに変化してきた。そのリアリティは、だいぶ以前から、ライフスタイルや仕事における自己実現、直接的なセックスの表現に到達し、さらには民俗学的な視点を獲得しているものもある。本作は、その多様化した少女マンガが描いてきた世界の多くをひっくるめて、神話として描き直しているようにも見える。「相手を縛る存在でなく、相手のためになる存在になる」という恋愛の論理を突き詰めた果てにあるのが、本作のラストで叫ばれるような、神格化された究極のロマンティシズムだというのは、あまりにも感動的である。この傑作を、強い意志をもってためらわず直線的に、そして純粋な映像表現として、自分だけの手法をもって撮りあげた山戸結希という、まさに閃光のような才能に、もはや羨望と嫉妬の感情を隠すことができない。(小野寺系)