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松田龍平演じる“ダメ人間”が面白い! 現代社会で輝く『ぼくのおじさん』の魅力

2016年11月09日 10:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)1972北杜夫/新潮社 (c)2016「ぼくのおじさん」製作委員会

 ナイスな新キャラクターが日本映画に現れた。つい近頃、浅野忠信が演じる『淵に立つ』の何を考えているのか分からない謎めいた男・八坂(やさか)のインパクトに圧倒されたばかりだが、松田龍平が演じる『ぼくのおじさん』の“おじさん”もすごい。こちらは、屈折はしているものの何を考えているのかハッキリと分かる、愛すべきダメ人間である。


参考:松江哲明の『ぼくのおじさん』評:松田龍平の“おじさん”は現代のアウトロー像


 原作は、「どくとるマンボウ航海記」などで知られる北杜夫の小説だ。この小学生の目を通した、シュールとすらいえるダメな叔父さんのダメな日常を描いた物語を読むと、これはもう本作の監督、山下敦弘にかなりうまくマッチングするんだろうということはすぐに分かる。もともと山下監督は、初期から「ダメ男三部作」と呼ばれる作品を手がけ、『苦役列車』や『もらとりあむタマ子』などでダメな人間を描き続けてきた、ある意味ダメ人間映画のエキスパートである。本作はプロデューサーが監督と主演を指名したということだが、この両者がそれぞれ手腕を十二分に発揮できているところを見ると、思惑通りというところだろう。本作は山下監督の作品としては大衆娯楽寄りで、最も劇場で笑いが起きているのではないだろうか。


 とにかく本作は、松田龍平が演じる「おじさん」が激烈に面白い。まず年不相応のじじくさいファッションと、自信なさげな立ち姿が作り出す佇まいが異様である。経験が豊富な役者は、カメラの前でどういう身のこなしをすればどのように映るかということを意識できるという。対して素人は、カメラの前で緊張し、ぎこちなく不自然な動きをしてしまう。ここでは、あらゆる所作を不格好に見えるよう崩していくことで、意識的に素人っぽい演技を作り出し、おじさんの世慣れていない社会不適合的さ、もっというと、現実世界に対して不適合な感じを出すことに成功している。小学生のサッカーの試合にゴールキーパーとして参加し、小さく構える姿だけでも笑いがこみ上げてくる。


 おじさんは基本的に陰鬱として無表情であり、うまくいかないときや意外なことが起きると、「WAO!」と小声で叫ぶくらいで、リアクションは薄い。劇中で珍しく声を荒げて狼狽したのは、カレー店で会計の際に、コロッケのトッピングの無料券が期限切れだったことに気づいたときである。そのような表情の分かりづらいピエロ風の基本姿勢は、例えばチャップリンや 、『ぼくの伯父さん』のジャック・タチ、もしくはMr.ビーンなど、周囲の状況を活かすタイプの洒脱な海外コメディアンを想起させ、原作小説のイメージよりもさらにおじさんのキャラクターが愛らしく見える。


 設定からは「男はつらいよ」シリーズも想起させるが、本作のおじさんがより現代的なのは、ダメ人間的な「卑怯さ」や「器量の小ささ」がより際だっており、もはや「良いおじさん」であろうとすることに何の興味もなく、道徳心に縛られていないという点だろう。大学の非常勤講師として一週間で90分しか労働をしないというおじさんは、高等遊民を気取っているが、日々の食費にも困り、兄夫婦から金を無心しながら居候しているダメ人間である。家の猫がくわえているイワシを奪って朝食のおかずにしたり、小学生の甥を遊びに連れて行くと言って、義姉から自分の昼食代までせしめるという徹底ぶりである。おじさんが情けない行動をとり続けると、小学生の甥である聡明な雪男(ゆきお)くんは、「大人なんだからしっかりしなさいよ」「少しは反省しなさいよ」と説教する。雪男くんの目を通し語られることで、おじさんの情けなさは強調されていく。


 寺島しのぶが演じる義姉は、おじさんに出て行ってもらいたい一心で縁談話を持ち掛けるが、おじさんは気乗りがせず、見合い写真を厳しく批評してばかりいる。雪男くんの幼い妹は、「おじさんは断られることがこわいのよ」と鋭い指摘をする。だが、おじさんが結婚話を回避しようとする理由は他にもありそうだ。それは、社会的責任を出来得る限り放棄することで、世間並みの労働をしていたくない、いつまでも子供のように自由な存在でありたいという願いがあるということではないだろうか。


 それは、おじさんが哲学を勉強する大学講師であるというところに関係してくる。アリストテレスのようなギリシャの哲学者は、労働を蔑視し、奴隷に働かせて自分たちは自由な発想を羽ばたかせ、高尚な議論や文筆に興じるという生活をしていた。もちろん奴隷制を容認することは「悪」であるが、その犠牲のもとにギリシャ哲学が発展し文化が振興したというのは確かではある。現代社会、とくに日本では、権力も金もないのに人並みに働かない人間は「悪」だと見なされ、「ダメ人間」というレッテルを貼られてしまう。だが、おじさんが勉強しているような哲学の領域では、そのような社会通念や道徳心を超えた思考が必要になってくる。おじさんは自分の生活でそれを実践しているという面もあるのである。しかし、本作のおじさんのように、それが例えば一人の美しい女性によって狂わされ、ときに学問が欲望に屈するということもまた歴史的必然ではある。


 社会通念上「マトモ」である雪男の両親は、本作では「責任」や「常識」の象徴であり、そこから逃れ続けるおじさんは、社会から無駄なお荷物になっている人間だといえる。そんな彼を情けなく疎ましく思う雪男くんだが、その一方でおじさんは雪男くんに、良くも悪くも一般的な社会通念とは異なる価値観を提示してくれる存在であり、このダメさはまた、「責任」や「常識」から逃れる生き方もあるのだという一種の「救い」でもある。


 近年、日本の教育界では行政の要請によって「実学重視」の風潮が見られるという。経済の不振が続くと、社会にとって無駄なもの、役に立たないものは切り捨てられていく傾向にある。だが、「有用」なものしか評価されない社会というのは、なんとつまらなく貧しいものだろう。殺伐としていく社会のなかで、ある意味本作のおじさんは「豊かさの砦」である。そして、彼のダメさを容認し笑って楽しめるというのは、我々観客のささやかな救いでもあるのだ。(小野寺系(k.onodera))