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K DUB SHINE × DJ MASTERKEY対談 アメリカから持ち帰ったヒップホップの精神

2016年10月31日 12:51  リアルサウンド

リアルサウンド

写真撮影=石川真魚

 ジャパニーズヒップホップが興隆し、日本語ラップやクラブカルチャーが大きく発展した90年代にスポットを当て、シーンに関わった重要人物たちの証言をもとに、その熱狂を読み解く書籍『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』が、12月上旬に辰巳出版より発売される。宇多丸、YOU THE ROCK★、K DUB SHINE、DJ MASTERKEY、CRAZY-A、KAZZROCK、川辺ヒロシといったアーティストのほか、雑誌『FRONT』の編集者やクラブ『Harlem』の関係者などにも取材を行い、様々な角度から当時のシーンを検証する一冊だ。


参考:YOU THE ROCK★が語る、90年代ヒップホップの着火点「俺たちが恵まれていたのは、教科書がなかったこと」


 本書の編集・制作を担当したリアルサウンドでは、発売に先駆けてインタビューの一部を抜粋し、全4回の集中連載として掲載する。第4回は、キングギドラ(現表記:KGDR)のリーダーであるK DUB SHINEと、BUDDHA BRANDのDJ MASTERKEYが登場。それぞれオークランドとニューヨークでヒップホップに触れたふたりはどのように交流し、相手をどんな存在として見ていたのか。そして、日本のシーンに彼らが持ち帰ったものとは。Kダブシャインとはかつてビーフを繰り広げたこともあり、ふたりにとって盟友である故・DEV LARGEの功績に触れつつ、当時のことを振り返った。(編集部)


■DJ MASTERKEY「敵対心が後々、日本のシーンにプラスになっていった」


――K DUB SHINEさんは86年から2年半程アメリカ西海岸に留学し、一時帰国後、89年にフィラデルフィアに留学します。一方、DJ MASTERKEYさんは88年にニューヨークに渡っていますが、このとき既にDJになりたいと思って渡米したんですか?


DJ MASTERKEY:いや。その頃はそこまで情報がなかったし、「まずはヒップホップの中心地に行ってみよう」ぐらいの軽いノリで、目的もそれほどハッキリしてなかったんです。でも、現地に行ったら面白くなっちゃって、どんどん掘り下げていくようになって。


K DUB SHINE:アメリカに行く前からヒップホップを聴いてたの?


DJ MASTERKEY:ミスター・マジックの『RAP ATTACK』シリーズをカセットで聴いたりとか。でも、下町育ちで渋谷に来るのも大変だったから情報は全然なかったよ。とにかく行ってみたらなんとかな るんじゃないかっていう感じ。だって、そのとき人生で初めて飛行機乗ったんだから。そっちは?


K DUB SHINE:ヒップホップとの出会いは中学の頃かな。その後、85年にオーランドに3ヶ月程留学したことがあって、そのときに『Krush Groove』っていう映画を観て「もうコレしかないな」って。あと、88年に一時帰国する少し前にオークランドで「Run’s House Tour」を観たのね。ランDMCとパブリック・エナミーとEPMDとDJ・ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンスが出ていて。ヒップホップの本格的なナショナルツアーは、向こうのアーティストでもまだあまりやってない時代だし、そこで初めて観て「コレだな」って。当時はもう「コレだな」の連続なんだけどね(笑)。


――80年代末、お二人はアメリカで暮らしながら現地のヒップホップシーンをどう見ていましたか?


DJ MASTERKEY:ニューヨークでは見るもの見るものが本当にフレッシュで。そこら中にラッパーが歩いてるし、ダウンタウンとかでやってるライブも欠かさず観に行ってました。こないだ『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観たときに、イージー・Eがニューヨークに来るシーンがあって、その頃、俺もイージー・Eをダウンタウンで見つけて握手してもらったことがあるんですよ。それを映画で思い出したんだけど、それくらいラッパーは身近な存在でレコード屋にいたり、クラブにいたりして。例えばギャング・スターはクラブで自分たちのブロマイドを配って売り込みしてて、それにサインしてもらったモノとか今でも持ってる。


K DUB SHINE:他には? 88年くらいだとウルトラ(マグネティックMCズ)とか?


DJ MASTERKEY:ウルトラも見かけたし、あとはランDMCとかEPMDとか。だから、今振り返ると、これから盛り上がっていくっていう、ちょうどいい時期の空気を感じられたと思う。


K DUB SHINE:ラップ始めたのは91、92年だけど、やーちんがDJを始めた方が早いでしょ?


DJ MASTERKEY:90年かな。キッカケは「MARS」っていうクラブ。そこでDJ HIROnycが働いてて、そのあとCQも働き出して。みんな仲良くなってタダで入れるようになったから、しょっちゅう行くようになって。そこは地下1階地上4階建ての建物で、すべてのフロアでイベントをやってるようなデカいクラブ。まだ売れてなかった頃のファンクマスター・フレックスがDJやってたり、俺が大好きなレッド・アラート先生がやってて。ファンクマスター・フレックスのHot97、レッド・アラートのKiss FM、マーリー・マールのWBLSとかを聴きながら、夜になるとクラブに行くっていう生活をずっと続けてた。


――お2人が出会ったのは何年ですか?


K DUB SHINE:93年のニューミュージックセミナーだと思う。オレはその頃またオークランドに住んでて、SFに日本の紀伊国屋があったから、そこで日本の情報を仕入れてたのね。「Fine」を読んでたらBUDDHA BRANDが、当時はナム・ブレインっていう名前で出てて、「こういうのがいるんだ」って。で、「Fine」の編集スタッフにDEV LARGEの話は聞いてたから、いつか会いたいと思ってたんだよね。そしたら「Fine」が、そのニューミュージックセミナーでジェル・ザ・ダマジャを取材することになってDEV LAEGEと一緒に行くことになり。それがコンちゃん(DEV LARGE)との初めての出会いだね。で、その日か翌日か、別のイベントでまた会ったときに、こっちはZeebraと一緒にいて、向こうはDEV LARGEと一緒にいるBUDDHAのメンバーっていう感じで会ったんだよね。


DJ MASTERKEY:そう。


――当時、日本のヒップホップシーンをどう見ていましたか?


K DUB SHINE:コンちゃんと会ったときに、こっちはキングギドラっていうのを日本に帰ってやろうと思ってるんだっていう話をしたけど、あっちはそのとき日本 でやるかどうか決めてなかった。オレはそのあと日本に帰ってきて、「日本もこれからいい感じだと思うし、上手くいきそうだから帰ってきた方が良いんじゃない?」なんて話をDEV LARGEと長距離電話でよく話してたんだよね。帰ってきたばかりのときも「これからどうしようか?」って相談をよくてたし。家も近所だったから親しかったんだよ。ヘッズには意外かもしれないけど(笑)。


DJ MASTERKEY:でも、DEV LARGEは、俺やクリちゃん(CQ)やデミさん(NIPPS)よりも、日本のシーンをすごく気にしてたんだよね。で、日本からみんながニューヨークに来 ると、ウチらのところに泊まって交流してて。MUROとは一緒にレコード掘りに行ったし、YOU THE ROCK★もそうだし、BOY-KENちゃんもそうだし。そうやって、みんなと仲良くなっていって。


K DUB SHINE:っていうか、ニューヨークにいると格が上るんだよ(笑)。みんなニューヨークに行くと世話になるし、誰もオークランドとか来たがらないから さ。「オークランド? MCハマーでしょ?」くらいだから(笑)。オークランド帰りのラッパーよりも、ニューヨーク帰りのラッパーの方が格上だって、いつも思ってて。BUDDHAに対する敵対心とかライバル心は、そういうところに源流があるのかもしれない(笑)。


DJ MASTERKEY:でも、そういう敵対心が後々、日本のシーンにプラスになっていったと思うけどね。何だかんだ言って、やっぱり相手の動きは気になるもんだしさ。お互いがそういう状況の中、BUDDHAが日本に来て今度はみんなにお世話になって、輪に入れてもらって。そうやって日本のヒップホッ プが面白くなっていったんじゃないかな。


■Kダブシャイン「ヒップホップをカルチャーとか社会を動かす力があるムーブメントだと思ってた」


――キングギドラは95年にアルバム『空からの力』で、BUDDHA BRANDは96年にシングル『人間発電所』でデビューしました。当時、アメリカで得たものをどのように日本に持ち込もうと考えていましたか?


K DUB SHINE:オレはヒップホップをカルチャーとか社会を動かす力があるムーブメントだと思ってたから、それを日本にそのまま持ち込みたいなと思ってた。アー トとしてだけじゃなく精神的な部分……過去から続くブラックミュージックの系譜として今あるものなんだっていうような意識をちゃんと持って帰らないと、ただのサブカルとか、一時的な流行りになっちゃうんじゃないかなって。実際、日本で当時出ていた作品を聴いてると、向こうのヒップホップで 表現されているものの半分も表現されていないような気がしたから。作品として、アートとして、ヒップホップの本質を正確に届けたいし、同時に当時ヒップホップネーションとまで言われるようになっていたシーンの広がり方や、その背景にあるブラックコミュニティーのパワーとか、そういうものまで持ち込んで社会を動かす起爆剤になるようにしたいなって。それがキングギドラの最初の初期衝動だったんだよね。


DJ MASTERKEY:すごいね。立派。こっちはそんなこと、これっぽっちも思ってなかった(笑)。


K DUB SHINE:それはたぶん、ニューヨークという、ヒップホップが死ぬほど溢れてるところにいたからだよ。
 
DJ MASTERKEY:かも。現地のシーンにどっぷり浸かってたから、そういうところはあまり考えてなかった。


K DUB SHINE:こっちはオークランドじゃん。カリフォルニアの端っこで、みんなヒップホップですげえ頑張ってるわけよ。当時だったらソウルズ・オブ・ミスチーフとかトゥー・ショート、E-40、ルーニーズとかもいたけど、オークランドのラッパーたちは「どうすればもっとヒップホップとして認められるのか」っていうことを、80年代から考えてたからね。黒人で大学に進んでるヤツらとか、常にヒップホップのことをディスカッションしてるわけ。そういうところにいたら、そりゃ、やんなきゃいけないなって思うよね。


――一方でヒップホップには、過去の音源をサンプリングして如何に新しい音楽を生み出すかというレコーディング芸術としての面もありますよね。BUDDHA BRANDはそういうところを意識していたんじゃないですか?


DJ MASTERKEY:そうだね。レコード屋にも恵まれていたし、どういうネタでどう作るとか、そういう方に興味があった。


K DUB SHINE:その点は、オレも感心して見てたよ。DEV LARGEはサンプリングにしても、アートワークにしてもすごいヒップホップアートをやってるなって。


――『空からの力』と『人間発電所』をリリースしてみて、シーンや市場の反応をどう受けとめましたか?


K DUB SHINE:渋谷のHMVでは割と評判になってたから1位になれたんだよね。それを見て「よしよし」と思ったけど、そっから「この先が大変だな」って気づいた。自分的には日本人が向こうから帰ってきて、日本語でちゃんとしたラップすれば、ビースティ・ボーイズみたいにすぐ何百万枚売れると思ってた。アメリカだと黒人がやるより白人がやる方が売れるからそんな感覚でいたのよ。でも、渋谷だけで売れて、全国ではそんな売れてない感じにガッカリした。


DJ MASTERKEY:俺はそういうセールス的なところはあんまり考えてなかったな。結果として、『発電所』を出して、いろいろなところで仕事が増えたっていうのはあったけど。


K DUB SHINE:そもそも、やーちんは、あとから帰って来てるしね。


DJ MASTERKEY:そう。『人間発電所』のリリースのとき、俺はこっちにいなかったからね。BUDDHAの活動をしながら、DJとしての仕事もしてたん で、この先どうしようかなって迷ってて。時系列的に言うと、『発電所』を出しました、売れてきました、俺が入りました、みたいな感じなんだよね。


K DUB SHINE:BUDDHA BRANDはDEV LARGEのワンマンみたいなところがあったから。最初のリリースプランはDEV LARGEが1人で練ってたと思うし、デビューしたときは、クリちゃんもデミちゃんもまだピンと来てない感じだったよ。


DJ MASTERKEY:そうなんだよね。本来だったら、「こういうプランがあって、このためにはこうして、こうしていきます」っていうのが普通だと思うけ ど、結構、狂ってる人たちの集まりなんで(笑)。そういう段取りじゃいかない感じのグループだったから(笑)。


K DUB SHINE:だから、やーちんが帰国後、日本のシーンに何を貢献したかは、オレから説明した方がわかりやすいと思う。やーちんは自己分析ができてないから(笑)。


DJ MASTERKEY:お願いします(笑)。


K DUB SHINE:それまでDJは淡々とミックスで曲を繋いだり、スクラッチするだけだったけど、やーちんはDJやりながらフェーダー抜いて、客にシャウトさせたり、自分もシャウトしたりっていう。客とDJが一体化するようなDJプレイを持ち込んだのがDJ MASTERKEYなんだよね。


DJ MASTERKEY:今じゃ当たり前なんだけどね、そのやり方は。


――それは何年頃の話ですか?


K DUB SHINE:96~97年だと思うよ。当時はDJが「Say Ho~」って言うとか、音を抜いて客がみんな合唱したくなるような雰囲気を作るっていうのはなかったから。西麻布イエローだったかな、MASTERKEYのDJを初めて見たとき「超楽しいじゃん!」って思った。ニューヨークでもああいうふうにやってたの?


DJ MASTERKEY:やってた。日本に帰ってきた当時、他のDJはプレイ中にレコードの盤面をガッツリ見ていて音楽を楽しんでるように見受けられなかったんで、もっと音楽を楽しめるような形が理想だなって。それがニューヨークのクラブでDJやったときに学んだことだったんで、それをやれば広がっていくかなと思ってたの。俺はクラブを楽しい場所として広めるのが自分の仕事だと思ってたし、あとはDJっていうものが職業として認められるようにすること。DJという存在が一般的になってくれたらいいなっていう思いがすごくあったんだよ。


K DUB SHINE:俺は自分が思いついたモノを根付かせるのにかなり時間がかかったけど、やーちんは早かったよね。「DADDY’S HOUSE」でそのスタイルが根付いて。


DJ MASTERKEY:渋谷ハーレムでね。97年にDJ KENSEIとDJ YUKIJIRUSHIでそのイベントを始めて。当時はラッパーのみんなが遊びに来てくれて、横でよく盛り上げてもらった。


K DUB SHINE:DJにMCが入って、ラップしながらコール&レスポンスやるのとか、アレで当たり前になったからね。金曜のハーレムにはいつも行って、 MASTERKEYがDJやってる横でMCやるのが楽しくて。毎週ノーギャラでやってたよ。


――少し時計の針を戻すと、96年7月に「さんピンCAMP」が開催されました。キングギドラとBUDDHA BRANDにとって、どんな意味合いのイベントでしたか?


K DUB SHINE:正直、あんま思い入れがないんだよね。いくつかそのときやってたイベントの1つっていうか。その時はね。雨すごかったなとか。


DJ MASTERKEY:俺もそんなに思い入れがないんだけど(笑)。でもBUDDAH BRANDの知名度を上げてもらった感じはあるかな。


K DUB SHINE:裏話をすると、もともとあれはcutting edgeのショーケースとしてやろうとしてて。BUDDHAが主役で、みたいなのはいつの間にか決まってたんだけど、最初はBUDDHA とYOU THE ROCK★とシャカゾンビとECDとKダブシャインでやるっていう話だったんだ。だけど、せっかくヒップホップが盛り上がってるんだから、他のレーベルの アーティストも混ぜて大きなイベントにした方が良いんじゃないの?って、オレとYOU THE ROCK★が提案して。なぜならYOU THE ROCK★は雷を出したいし、俺はキングギドラで出たいっていうのがあったから。じゃあ、RHYMSTERも出そうとか、わりとオレらが中心になって他のアーティストを呼ぶ流れにしたんだよね。だから、みんなそこんところをわかってんのかなって。みんな自分たちで「やってやったぜ!」みたいな気になってるかもしれないけど、「忘れてんの? 誘ったの俺たちだよ?」って(笑)。


DJ MASTERKEY:あはは(笑)。(取材・文=猪又孝(DO THE MONKEY))