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モルモット吉田の『何者』評:演劇出身監督は“SNS”をどう映画に活用したか?

2016年10月28日 06:02  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016映画「何者」製作委員会 (c)2012 朝井リョウ/新潮社

 現実をできるだけ忠実に再現した内容の映画でも、誇張やウソは混じる。例えば玄関や自転車の鍵をかけなかったり、携帯電話はいつも音が鳴る設定になっていたり、妙に気になる時がある。物語をスムーズに進行させるため、画面の躍動を削がないために、映画やドラマがあえてつくウソである。まあ、そういう習慣だと言い張れなくもないが、流石に若い女性の一人暮らしで夜、帰宅して鍵をかけなかったりすると、その映画への信頼度はぐっと低下する。


参考:『過激派オペラ』早織&中村有沙が語る、壮絶な撮影現場と過激なラブシーンに挑んだワケ


 今なら、スマホ、タブレットをどう扱うかも気になる。電車に乗れば、大半の乗客が下を向いて何らかの端末を弄んでいる。歩きながら、食事しながら、片手に持ったそれを眺めている。しかし、映画やドラマでは未だに小道具という感じでしか使われていない。物語から必要がなくなるとスマホから目を離し、時にはポケットにしまって画面上からは消えてしまう。観客の視点を余計な所に向けさせないためだ。だが現実では(親しい仲という条件が付くだろうが)、会話中でもメール、Twitter、LINEなどが起動し、つぶやきや返信がひっきりなしに行われ、それを咎めようともしないはずだ。それを映画にリアルに導入すると、役者がずっと俯いて手元でコソコソしているだけの作品になってしまう。だから映画はあえてウソをつく――そこに異議を唱えたのが『何者』だ。


■『何者』が描くSNSの世界
 主人公の就活生・二宮拓人(佐藤健)は、映画の主役にあるまじき態度と思えるほど、やたらとスマホを触っている。拓人は社会学部の同級生・田名部瑞月(有村架純)から誘われ、同居人の神谷光太郎(菅田将暉)と共に上の階に住む小早川理香(二階堂ふみ)の部屋を訪れる。レイアウトは同じなのに雰囲気の違う部屋に光太郎は屈託なく感嘆の声を挙げ、直ぐに理香と打ち解けるが、その最中も拓人は下を向いてモゾモゾとスマホを弄っている。なるほど、リアルと言えばリアルだが、普通のドラマで主人公がこんな行動を取ると悪目立ちしてしょうがない。やはりウソは必要だったのだ。


 もちろん、本作ではこうした行動が単なる表層的な描写ではないことが後に明らかになるのだが、拓人以外にも片時もスマホを離さずTwitterやInstagramへの投稿に余念のない人々をシニカルな視点で描く。彼らは理香の部屋に集まって就職情報を共有するようになるが、拓人がふとTwitterを検索してみると、いつの間にか彼らを撮った写メが理香のアカウントからアップされ、さらに理香とつきあって短期間で同棲するようになった宮本隆良(岡田将生)は就活に興味ない素振りを見せて部屋の隅で距離を開けていたにもかかわらず、ちゃっかりその様子を撮影してInstagramでポジティブな言葉と共に着飾らせている。拓人がかつて演劇サークルで共に活動し、今では独自に劇団を立ち上げた烏丸ギンジのブログにはやたらとキャッチーなタイトルで人脈自慢と途中過程が仰々しく記されている。こうした“SNSあるある”が観客の共感を集めることは想像に難くない。


 共感で言えば就活も同様だろう。主人公になかなか内定が出ない悲哀は、映画でも数え切れないほど描かれてきた。深刻な不況に見舞われた87年前、小津安二郎が監督した『大学は出たけれど』(29年)では、面接で受付勤務なら雇用可能と言われた男が、大卒の自分にはそんな仕事は出来ないと蹴るが、仕事は見つからず、婚約者が生活費を稼ぐためにカフェへ働きに出る。やがて男は自分が大学を出たというだけで未だ何者でもないと悟り、最初の会社へ受付で働かせて欲しいと頼みに行くと……という物語である。対照的に売り手市場のバブル期を舞台にした『就職戦線異状なし』(91年)では、主人公と腐れ縁の的場浩司が、「なりたいものじゃなくて、なれるものを探し始めたらもう大人なんです」と告げる印象的なシーンがある。


 こうして映画は景気の動向に関係なく、就職を通して自分が何者かに向き合う姿を描いてきたわけだが、『何者』でも主人公が自分は何者なのかを問われることになる。ことほどさように本作の就活は目新しい題材ではない。現代における就活マニュアル映画でもないし、そのシステムに疑問を投げかけるわけでもない。現状を追認し、その断面を見せているに過ぎない。原作自体がそうだが、学歴フィルターや、企業から評価されて落とされることへの戸惑いも描かなければ、圧迫面接で凹むわけでもなく、周囲の友人関係の中での優越感、嫉妬だけである。では『何者』が何を描こうとしたかは、原作から引用した方が手っ取り早い。


 いつからか俺たちは、短い言葉で自分を表現しなければならなくなった。フェイスブックやブログのトップページでは、わかりやすく、かく簡潔に。ツイッターでは一四〇字以内で。就活の面接ではまずキーワードから。ほんの少しの言葉と小さな小さな写真のみで自分が何者であるかを語るとき、どんな言葉を取捨選択するべきなのだろうか。
『何者』(朝井リョウ著/新潮文庫)


 そう、果たして自分が何者であるかを〈ほんの少しの言葉〉で語ることができるのかが、この映画の主眼となる。原作を忠実に映像化しながら、1分間の限定された時間で自身を語るという原作にない設定を用意したのも、その一点に突き進んでいくためだ。映画の冒頭では拓人のTwitterのつぶやきに重ねて、こんなモノローグが響く。


「1分間で話せる言葉は、Twitterの140字のようにごく限られたもの。短く簡潔に自分をどれだけ表現できるか。就職活動はそれがすべてだ」


 この(就活≒SNS)が映画ではいっそう明瞭となり、SNSを通じて就活を描くことで『何者』は古典的な就職難映画をリノベーションさせることに成功したとも言える。


 一方で、肝心のSNSの文字情報をどう見せるかにおいて、いささか保守的に感じたのは筆者だけだろうか。原作小説の場合、その文中で引用されるSNSはフォントや文字の濃さを変えたり改行することで他の文とは区別させつつ、文字という同じ連なりの中で表現できたが、映画の中で文字をどう見せるかは、監督が(映像×文字)の関係をどう考えるかが反映される。原作では後半、あるTwitterのつぶやきが過去から現在に至るまで一斉に羅列される。これは映画も同じ展開をたどるが、文庫本で10ページにわたって20以上のツイートが並ぶのが壮観だ。普通に考えれば、これは小説ならではの文字表現である。そのまま映像にしても、文字が並んでいるだけになってしまう。本作ではこの描写を映画独自のアレンジとして演劇的な描写を加味して見せる。これは監督の三浦大輔が舞台演出家という背景を知れば、自身の得意とする分野に取り込んだと理解できる。実際、この演劇パートは現実を異なるレイヤーから眺めるという点では効果的ではある。


 しかし、ドキュメンタリー『人間蒸発』(67年)で、今村昌平監督の声を合図に四方の壁が取り外され、現実の部屋と思っていた場所が撮影所の中に組まれたセットと明かされるサプライズ演出から半世紀近く経ち、白い枠線だけで演劇の様に全篇を展開させた『ドッグヴィル』(03年)なども経た今、こうした演劇的手法は図式的に見えてしまう。主人公の拓人が演劇への道を歩むか就職かに揺れる心情を象徴するもの以上には機能しておらず、文字だけでは成り立たないと見越しての見せ場にしか思えない。これでは(就活≒SNS)を描くために映画の中に演劇的表現を取り入れたはずが、(映画・演劇>SNS)に思えてしまう。実際、文字表現への信頼のなさは、ツイッターの文字にモノローグや台詞が重ねて読まれる描写が多用されていることからもうかがえるだろう。
 
 その点では、映画監督の方が過激かも知れない。パソコン通信で交わされる文字を森田芳光監督は『(ハル) 』(96年)で、掲示板に書き込まれる文字を岩井俊二監督は『リリイ・シュシュのすべて』(01年)で主人公が匿名の相手とやり取りを行う際に文字表現を大胆に取り入れ、風景や人物を撮る時と同じ重量感と量で文字を映した。岩井俊二はその後も『市川崑物語』(06年)でほとんど文字だけでドキュメンタリー映画を1本作ってしまったが、『リップヴァンウィンクルの花嫁』(16年)冒頭の雑踏でネットを介して知り合った男と初めて逢う場面で、SNSの文字と現実世界での手の動きを絶妙にカットバックさせたように、映画の中でSNSを巧みに使いこなしている。


 『何者』でも拓人が烏丸ギンジのブログに苛立ちLINEで憤りを伝えるシーンは、文字表現が最も高揚感を持って描かれている。画面の半分が不快感に満ちた顔でスマホを打ち続ける拓人、もう半分にLINEの画面が表示されている。一方的に意見を送りつける拓人のメッセージに既読の表示が出るが、なかなか返信は来ない。やっと送られてきたギンジの言葉はごく短いが真摯な決意が記されている。メッセージが矢継ぎ早に送られる速度、ギンジの既読から返信までの焦らしに、2人の関係性と性格が見えてくる。こうした画面に文字情報量を充満させたシーンがもっとあれば、ひとつのシーンでも現実の顔と、SNSの表アカウントに書かれた装飾された言葉、匿名アカウントやLINEに書かれた本音など、複数の感情を同時進行で描くことができたのではないだろうか。


■演劇出身監督は日本映画を変えるか
 ところで、『何者』のB面とも言うべき作品がある。朝井リョウがアナザーストーリーとして執筆した『何様』(新潮社)のことではない。現在公開されている映画『過激派オペラ』だ。もちろん公式には何の関係もない。あえて共通項を挙げれば、共に演劇畑の演出家が監督した映画ということだけだが、『何者』が就職する側を描いたものなら、こちらは言わば烏丸ギンジ側、つまり演劇を選んだ側の劇団内の狭い世界が息苦しいまでの熱量で描かれる。もっとも本作で描かれるのは監督の江本純子が書いた自伝的小説『股間』を原作にしたほぼ女たちだけの物語だ。主人公の女性演出家がオーディションにやってきた女優と舞台の外でも愛を深め、やがて同棲する。舞台稽古から公演の過程とその裏での性交を激しく描き、劇団内での愛憎、嫉妬がむき出しになる。ここで描かれていることはSNSというツールを使っていないということと、性が表に出てこないだけで、本質的には『何者』と大差はない。


 それにしても『過激派オペラ』の出演者たちの熱演ぶりは素晴らしい。それも江本の芝居に慣れた小劇団系俳優ではなく、舞台経験がある者や、一部で実力が知られた者もいるが、多くはオーディションで選ばれた映像系の仕事が主だった未知数の女優たちである。これが驚くほどの豹変を見せる。殊に主演の早織と中村有沙の全身女優ぶりは、激しい性描写に怯むことなく挑み、映画が進むにつれて彼女たちの存在感がどんどん大きくなるのを実感させる。演劇出身監督の場合、撮影前の稽古に時間を取ることが多いが、本作では6日間の稽古期間を設けて撮影に入ったという。


 時間こそ短いが、『何者』でも同様の手順が取られたという。稽古を主体に演技を練り上げていくスタイルによって、俳優たちから新たな一面を引き出したことは、出演作が多い菅田将暉、二階堂ふみがいつもと違った演技を見せているところからも明らかだろう。個人的に驚いたのは佐藤健と岡田将生だ。申し訳ないが、タイプキャスト以外の役では見ていられないといつも思っていた。ところが今回は彼らが揃ってベスト・アクトと言うべき名演を見せている。嫉妬と不快感を胸に秘めた佐藤もいいが、岡田が最後に登場するカットでそれまで掛けていたメガネを外し、屈託なく振る舞う姿に宮本隆良というキャタクターの表裏を1カットの芝居の中に凝縮して見せたのがいい。


 映画監督には細かく演技指導するタイプもいれば、自由に演じさせてテイクを重ねてからジャッジするタイプもいる。一概にどの演出スタイルが良いというわけではない。2000年代に4本の映画を撮った劇作家で演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチは、日本の映画監督は演技について演出していないと発言したことがあった。実際、演技は俳優にお任せという監督もいる。したがって、経験が少なく演技パターンの少ない若手俳優の中には、いつも同じような役を同じような芝居で演じる人もいる。その意味では演劇畑の演出家の映画への進出は、俳優の潜在力を引き出すためにも、今後いっそう求められるのではないか。


 最近では『愛を語れば変態ですか』(15年)、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』(16年)、『葛城事件』(16年)、『ふきげんな過去』(16年)などが演劇出身監督によるものだ。役者たちの演技や人物の動きなどは流石に舞台演出で鍛えただけのことはあると思わせるが、ではこれらが映画としても上出来かと言えば、そう手放しに絶賛もできない。映画の世界観と演技をガッチリ作り上げているわりに、そこに依存しすぎて外枠ばかりが強固になっているが、その内側は手隙に思える作品が多い。これはSNSと役者たちの演技の充実に終始した『何者』も同様である。


 もっとも、こうした演劇/映画という線引き自体、時代遅れだろう。舞台の演出家が映画監督をやることが珍しくないように、青山真治、深作健太をはじめ舞台演出を手がける映画監督は多い。『淵に立つ』(16年)を監督した深田晃司の様に、映画の専門校を出て、劇団青年座に演出部として入った経歴を持つ監督もおり、ボーダーレス化は進んでいる。実際、『淵に立つ』は演劇的要素と映画が拮抗し合う瞬間に満ちている。


 『何者』が映画監督3作目となる三浦大輔の前作は自作戯曲を映画化した『愛の渦』(14年)だったが、舞台劇を映画に正攻法で移植することに徹していたのが堅苦しかった。外のシーンを入れたり、美術や撮影で映画向きにしようとすればするほど、舞台にあった自由が消えていた。その意味で『何者』は、小説を演劇的に映画にしたことで自由を手にしつつある。作を追うごとに映画×演劇の融和が進む三浦映画は、次回作でいよいよ他の何者でもない演劇を内包した映画が生まれるのではないだろうか。(モルモット吉田)