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宮﨑あおいと橋本愛、“母娘役”なぜ成立した? 『バースデーカード』に見るシンクロニシティ

2016年10月24日 10:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「バースデーカード」製作委員会

 母娘役で、宮﨑あおいと橋本愛が共演する。このキャスティングをいったい誰が発想したのかはわからないが、それだけでも『バースデーカード』は一見の価値のある映画である。


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 おそらく発案者もそうなのだろうと愚考するが、宮﨑と橋本は、どこかでなにかがリンクしているような気がしていた。それはなんだと問われれば、うまく答えることができないのだが、作品歴で言えば、ふたりは宮藤官九郎作品で交差している。宮﨑は、宮藤の監督作にも、舞台にも出演している。橋本は言うまでもなく、あの朝ドラに出演している。ただ、宮藤と仕事をしている女優はたくさんいるわけで、これは別に特筆すべきことではない。


 宮﨑がもう30歳であること。橋本がまだ20歳であること。まずはそのことに慄然とする映画である。


 宮﨑は、ヒロインを演じる橋本の回想にしか登場しないから、両者の共演は(ほぼ)ない。この母親は、ヒロインが10歳のときに病死しているため、ふたりは違う時空に存在するしかない。映画は、それから10年にわたって、亡き母から娘に毎年届くバースデーカードをめぐって展開する。この10年が、宮﨑と橋本の実年齢差に重なりあう。本作はオリジナル脚本である。


 この映画において、宮﨑あおいは30歳でときが止まり、橋本愛は(とりあえず)20歳まで生きることを約束される。なんとも心憎い設定=シチュエーションだ。出来のいい母親と、あまり出来がよくない娘。優等生のようでいて反骨心もある母親と、臆病で地味に生きたい娘。


 対照的に描かれるふたりを演じる女優の芝居もまた、それぞれアプローチが異なっている。宮﨑は、明るさと気丈さの淵に哀しさを佇ませ、橋本は、気怠さと無頓着さの種に一途さを潜ませる。


 だが、たとえば、バースデーカードが宮﨑のモノローグによって読み上げられ、そのことばを受けとめる橋本の顔が映し出されるとき、母の声と、娘の身体が、不思議なシンクロを見せる。それが、なにかはわからない。だが、橋本愛は、このきわめて間接的なシチュエーションにおいて、10歳年長の宮﨑あおいから、なにかを継承している。


 目には見えない、それに、あえて、かたちを与えるとすれば、ふたりとも、硬い翼を有していると表現できるかもしれない。


 硬い翼。世間に、社会に、世界に、決して、容易になびかない、硬い翼。だが、その気になれば、いつだって、だれよりも高く、だれよりも深い空に向かって羽ばたくことができる、硬い翼。


 そういえば、塩田明彦監督の『害虫』の宮﨑あおいも、中島哲也監督の『告白』の橋本愛も、あの硬い翼を背中に持っていた。


 宮﨑を、橋本を、リアルタイムで追いかけてきた者であれば、決して見逃すことのできないシンクロニシティが、この映画には埋まっている。(相田冬二)