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黒沢清×タハール・ラヒム『ダゲレオタイプの女』対談 黒沢「ホラー映画ではなくラブストーリー」

2016年10月20日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(左から)タハール・ラヒム、黒沢清

 黒沢清が初の海外資本(フランス、ベルギー、日本の合作)によって、フランスのパリ郊外を舞台に撮った新作『ダゲレオタイプの女』。国際的に評価されている日本の映画作家の海外製作作品というと、例えば70年代の黒澤明監督による『デルス・ウザーラ』や80年代の大島渚監督による『マックス、モン・アムール』といった、映画作家としてキャリアの終盤に足を踏み入れてからの覚悟を決めた「挑戦」や「実験」が頭をよぎる。しかし、本作『ダゲレオタイプの女』の魅力は、黒沢清作品に魅入られた海外の役者陣や製作陣が、監督のもとに自然と集まり、そこで「いつもの黒沢清作品」を平熱で撮ってみせたような、ある種の軽やかさにある。


参考:「映画における“リアル”って、ただの“安心”なんですよ」ーー黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』インタビュー


 主演のタハール・ラヒムは、世界中の先鋭的な映画作家から引っぱりだことなっている人気アクター。ただ、アラブ系フランス人である彼の元にくるオファーの多くは、その民族的背景にまつわる役がほとんどなのだという。そんな中で、学生時代からずっと大ファンであったという黒沢清から舞い込んできた本作でのロールは、彼が役者の仕事をしなければきっとそうであった「どこにでもいるごく普通のフランス人青年」の役。それがとても嬉しかったというのも、とても納得できる話である。もちろん、作中で、そんな「どこにでもいるごく普通の青年」は、この世とあの世の境界にある黒沢清の「どこにもなかった」世界へと迷い込んでいくわけだが……。


 リアルサウンド映画部は、今回の『ダゲレオタイプの女』の公開を記念して、黒沢清監督とタハール・ラヒムの対談を企画した。対談といいつつ、通訳を介した会話ということもあってほとんど同席インタビューのような体裁にはなっているが、両者の深い信頼関係を垣間見ることができた。


■ラヒム「黒沢監督の大ファンだったので、自然に入っていくことができた」


ーー黒沢監督にとって長編としては初めての海外ロケ作品、それもフランスのパリという、おそらくはこれまでのご自身の映画体験の中でも特別な街を舞台にしての作品ということで、それなりに気負われて撮られているのかなと思いきや、始まって5分も経ったら、黒沢清作品以外のなにものでもない作品世界がそこに展開していて驚かされました。


黒沢清(以下、黒沢):気負いや緊張というのは、もちろん日本で作品を撮るよりはありましたが、自分以外、つまり監督と脚本以外は、すべて現地のスタッフで作った作品だったので、映画を撮影するシステムとしては、まるで普通のフランス映画のように、とてもスムーズに進んでいったんですよ。そのスムーズさが、僕の気負いや緊張を和らげたというか、ある意味、そんなものを無視していったから、このような自然な作品として成立したんだと思います。だから、僕としては、何も知らずに観たら一本のただのフランス映画なので、そういう気持ちで観てもらえれば、一番ありがたいですね。


ーー主演のタハール・ラヒムさんは、これまでジャック・オディアール、ジャン=ジャック・アノー、ロウ・イエ、アスガー・ファルハディをはじめとする、世界中の才能ある監督と仕事をしてきたわけですが、今回、黒沢清監督と仕事をする上で、どのような心構えで撮影に入られたのでしょうか?


タハール・ラヒム(以下、ラヒム):実際に成功しているかどうかわかりませんけど、自分は出演する作品ごとに、できるだけ違うタイプの役を演じたいと思ってきました。


ーーそれは成功していると思います(笑)。実際に、作品を観た後に「あっ! あの役もタハールさんだったんだ!」と気づかされた作品がこれまでいくつもあります。


ラヒム:(笑)。今回の『ダゲレオタイプの女』の撮影に入るにあたって、黒沢清監督とはかなりじっくりと話し合いをしました。この作品における幽霊の存在について。ラブ・ストーリーの側面について。この作品の主人公は、現在のパリのどこにでもいる普通の若者なんです。その、どこにでもいる普通の若者が、ある時をきっかけに、非現実的な世界に入り込んで、自分を見失っていく。そして、そのことに本人は最後まで気づかない。自分は黒沢清監督の大ファンだったので、彼の作品の世界は馴染みのあるものだったし、そこへ自然に入っていくことができました。


ーータハールさんが黒沢清作品に初めて出会ったのはどの作品だったのですか? また、一番好きな黒沢清作品も教えてください。


ラヒム:最初に観たのは、大学の授業で観た『CURE キュア』でした。一番好きな作品は……うーん、迷いますが、『叫』かもしれませんね。


ーーあぁ! 『叫』は、『ダゲレオタイプの女』に近いものがありますよね。


ラヒム:確かに、『叫』と『ダゲレオタイプの女』にはいくつもの共通する要素がありますね。幽霊をめぐる、ある種のシュルレアリスム的な作品であること。そして、作品の帰着点も。


ーーただ、これまで「幽霊」的な存在を描く上で様々な手法を試み、そして発見してきた黒沢清監督にしては、今回の『ダゲレオタイプの女』はそこでの表現をとてもストイックなものに抑えているようにも思えたのですが。


黒沢:確かに、今回は幽霊を特殊な技術で描くことはしませんでした。この作品で自分がやってみたかったことは、実は日本の怪談映画の形式でラブストーリーを描くことだったんです。最初は幽霊ではない生身の女性が、生身の男性と恋人関係になる、それが途中で女性の方が生身の人間ではなくなっていくことで、その関係がより深まっていく。そのように、物語の途中から人間が人間でなくなるというのは、実は四谷怪談に代表される日本の怪談の典型的なパターンなんですよね。ただ、怪談の場合、それが恨みとか怨念のような感情が主軸になっていくわけですけど、今回はそれを愛として描きたかった。そういう意味で、この作品はホラー映画ではなくラブストーリーだと考えています。


ーー「現実の存在ではなくなったからこそ、その関係性が深まる」というのは、実は恋愛においてわりと思い当たる人も少なくない、イビツではあるけれど普遍的な感情であるような気もします。恋愛感情と妄想というのは、とても近いものというか。


ラヒム:確かにその通りですね。愛する人を失った時、私たちはその相手を美化したり、理想化していくことがあります。ただ、私がこの主人公を演じていた時は、そのような考えはまったく排除していました。この作品の中の主人公にとっては、あくまでも恋人はそこに実在しているんです。ただ、悲しいことに彼は、彼女がこの世のものではなくなってから、さらに強く彼女を愛するようになって、理性を失っていく。恋愛感情というものは、人から理性を奪いますからね。


■黒沢「滅びつつある古いものと、新しいものの境目を描きたいと思った」


ーー黒沢監督にとって、今回一緒に仕事をされたタハール・ラヒムという役者はどのような存在でしたか?


黒沢:ジャック・オディアール監督の『預言者』を最初に観た時に、すごい役者だなと驚かされて、それから他の出演作を観ていくうちに、『本当のタハール・ラヒムというのはどんな人間なんだろう?』と思うようになっていきました。自分にとって、彼はとてもミステリアスな存在で、機会があったらいつか会ってみたいと思っていたんです。そして、たまたまある映画祭で一緒になって、そこで会った瞬間に、彼の中にある人間としてものすごくノーマルで、ニュートラルな部分にとても惹かれたんです。もう直感で、この作品の主人公を彼に演じてほしいと思いました。彼本人がどこまで意識しているかはわかりませんが、役によっていろんな顔を見せることができる役者というのは、基本的にとてもノーマルでニュートラルな部分を根っこに持っている役者だと思うんです。これは自分が知る日本の役者にも言えることですが、優れた俳優の条件というのは、この人にしかないという特殊で強烈な個性と、誰にでもなることができるようなまったくノーマルな部分、その両面を持っていることだと思うんですよね。タハールからは、それを最初からものすごく強く感じました。


ーー優れた役者には二つのタイプがあるのではなく、その二つを持ち合わせている役者が優れた役者だと。


黒沢:そういうことです。そして、タハールのようにそういう役者は一つの作品の中で、その二つを出すことができる。


ラヒム:ありがとう(笑)。


ーーところで、自分は街の中でタハールさんとすれ違っても、あの『預言者』や『ある過去の行方』のタハール・ラヒムだと100%気づかない自信があるんですけど(笑)、黒沢監督は最初から気づきましたか?


黒沢:いや、まさに自分もそうで(笑)。彼の方から話しかけてくれたからわかったんですけど、最初はびっくりしました。


ラヒム:後からでも、気づいてもらえてよかったです(笑)。


ーー黒沢清ファンとして『ダゲレオタイプの女』がとても新鮮だったのは、日本で撮った作品にはほとんど出てこない「街のなにげない風景」が、この作品ではいくつも出てくるところでした。例えば、街角のスポーツバーであったり。


黒沢:おっしゃる通り、この作品では街のなにげない風景を作品に収めたいという、僕の強い欲求がありました。東京で映画を撮っている時は、なにげない街の風景であったり、人々の生活の様子というのは、自分にとってあまりにも当たり前のものなので、映画の中で興味を持って描こうとはあまり思えないんです。ただ、初めてパリで映画を撮るということになって、主要な舞台となるのは郊外の屋敷の中や森の中ですけれど、『せっかくパリで撮るんだから』という思いがむくむくと出てきてしまったんですね。ある意味、それは無邪気な観光者ならではの欲望なわけですが。『このシーン、いらないんじゃないか』というプロデューサーの意見もあって、確かにジャンル映画としては必要のないシーンもいくつかあるのですが、パリで撮った証として残しておいたシーンがいくつかあります。お恥ずかしいことに、最後のシーンではセーヌ川沿いを車で通って、その向こうにはエッフェル塔も見えますからね(笑)。あれは、僕のちょっと子供じみた欲望に沿って捕えたものです。


ーー冒頭、パリの郊外で行われている工事の騒音が、ことさら強調されているシーンなどからは、60年代後半のゴダールの諸作品のことを思い出さずにはいられなかったのですが。


黒沢:(笑)。そこは特に意識はしてなかったのですが、パリとパリ郊外の境目にある場所で、何かが取り壊されて、そこに新しいものが作られている風景というのは、この作品の大きなテーマを象徴しています。つまり、滅びつつある古いものと、新しいものの境目。死んでしまった者と、生きているものの境目。自分はこの作品で、その境目を描きたいと思ったのです。


ーーこの作品で描かれているダゲレオタイプという写真装置は、まさに滅びつつあるものの代表ですが、黒沢監督は、滅びつつある古いものと、新しいものがあったら、滅びつつあるものの方に寄り添う立場にいると言っていいのでしょうか?


黒沢:これは脚本を書き始めた時にはそこまで考えてなかったのですが、脚本を書き進めていくにつれて、このダゲレオタイプという、ほとんど妄想か狂気に取り憑かれていないとこんな表現方法は選択できない技術のことを、『でも、映画もほとんどそれと同じだよな』と思うようになっていきました。僕たちがやっていることって、もう技術的にはほとんど取り残された領域にあるわけで。いまどき、動画なんて誰でもスマホで撮れて、それをYouTubeとかにアップして人に見せることができるわけですから。それを映画の世界では、数秒のワンカット撮るのに1時間も2時間もかけているわけです。照明を当てて、ダゲレオタイプのように被写体を固定こそしませんが、役者にここに立っていてくれと指示をして。そんなこと、『ここには特別なものが宿っている』という妄想の中にいなければ、とてもじゃないとできないことですよね。


ラヒム:それでも黒沢監督は、役者にとってはすごく自由を残してくれる監督なんですよ。役者にとって、撮影現場でとてもいい推進力となってくれるというか。リテイクをするのも、明確に『これは違う』という時だけで、あとは役者が自分で考える余地を与えてくれた。黒沢監督から自分が学んだことは、役者にとっての身体性の重要さです。黒沢監督はすごく引きのカットであっても、身体の動きだけでストーリーを語ることができるんです。この作品で黒沢監督とこうして仕事ができたことは、自分にとってとても大きな財産になりました。(宇野維正)