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本木雅弘と竹原ピストル『永い言い訳』の対照的な芝居 若手演出家が感情表現の奥深さを考察

2016年10月20日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「永い言い訳」製作委員会

 若手の脚本家・演出家として活躍する登米裕一が、気になる俳優やドラマ・映画について日常的な視点から考察する連載企画。第12回は、映画『永い言い訳』にて、妻を亡くした男を演じる本木雅弘と竹原ピストルについて。(編集部)


参考:本木雅弘×竹原ピストル『永い言い訳』対談 本木「“自意識の歪み”は、私の中にもある」


■“表現”と“発散”の違いとは?
 カラオケで、「上手いけれど、なぜか聴いていて疲れる人」に出会ったことはありませんか。もしかしたらその人が“表現”ではなく“発散”をしているため、聴いている側にストレスを与えているのかもしれません。


 プロの歌手は聞き手に良い音楽を届けることが仕事なので、鑑賞に耐えうる“表現”を求められます。しかし、カラオケでは歌い手が気持ち良くなればそれだけで成立する娯楽なので、その人が歌うことで気持ちを“発散”したとしても、間違いではありません。


 芝居の現場においてもときどき、“表現”と“発散”の区別が出来ていない俳優さんに出会うことがあります。セリフに感情移入し過ぎてやたら泣く、怒る芝居の時はひたすら怒鳴る、自分のシーンに酔ってしまうなど、観客を置いてけぼりにして俳優さん自身が一番気持ち良くなっていたりすることがあります。それは“表現”ではなく“発散”です。


 では、両者はなにが違うのでしょうか。人は嫌なことがあっても人前で泣かないように我慢したり、見境なく怒ったりしないようにしています。それは周囲の視線を感じながら、ここは我慢しようと感情を抑えているからです。日常生活では、感情を抑えるのが普通のことなのですが、芝居になると必要以上に感情を垂れ流す俳優さんがいます。


 我慢したいけれど出来ないくらいに感情が溢れてしまった結果として、涙が溢れてしまうのであれば、そこにある葛藤こそが“表現”となります。日常に即したリアルな心の動きを再現するからこそ、鑑賞者も共感することができるのです。悲しいシーンだから、ただ思う存分泣くというのとは違います。


■感情を抑える幸夫と、感情を素直に出す陽一
 前置きが長くなりましたが、映画『永い言い訳』を鑑賞させていただきました。特に本木雅弘さんと竹原ピストルさんの芝居は、大変素晴らしいものでした。


 本木雅弘さん演じる衣笠幸夫は小説家で、表現することに長けている職業です。妻を亡くしたにも関わらず、その悲しみを表立って口にすることはありません。泣き言は胸にしまって、周囲に心配かけまいと正しく立ち回ろうとします。しかしそこには、なにかを表現したいと考えながらも、なにもできない葛藤もまた感じられ、哀しみが漂います。


 一方、竹原ピストルさんが演じる陽一もまた同じように妻を亡くしますが、幸夫とは対照的に感じたことを素直に口にし、人前でも涙を流します。しかし、だからといって竹原さんの芝居が単なる“発散”になっているかというと、そんなことはありません。あくまでも、人目を気にせずに自分の感情を表に出せる人間という役柄を演じていて、その演技には説得力がありました。感情の発露の裏に、何層もの思考のレイヤーが感じられ、鑑賞者に伝わる“表現”になっていたのです。


 周囲の人々や社会に何を求められているか、いつも考えすぎてしまう私のような人間は、幸夫に深く感情移入してしまいました。その一方で、悲しいときに悲しいといえる陽一の生き方が、とても眩しく見えます。


 ふたりの対比は鮮やかで、ストレートに感情表現しない人と、思ったことを素直に口に出す人とでは、どちらが人間として正しい生き方なのか考えさせられました。同時に、二元論では語れない“人間”というものの複雑さが、西川美和監督によって丁寧に描かれていました。そしてその複雑さは、そのまま“表現することの奥深さ”を改めて突きつけてくるもので、私自身もとても刺激を受けました。


 是非、多くの人に劇場に足を運んで欲しい作品です。(登米裕一)