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90年代ヒップホップ集中連載2:元祖B-BOY・CRAZY-Aが語る“4大要素”の発展と分化

2016年10月17日 16:51  リアルサウンド

リアルサウンド

CRAZY-A

 ジャパニーズヒップホップが興隆し、日本語ラップやクラブカルチャーが大きく発展した90年代にスポットを当て、シーンに関わった重要人物たちの証言をもとに、その熱狂を読み解く書籍『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』が、12月上旬に辰巳出版より発売される。宇多丸、YOU THE ROCK★、Kダブシャイン、DJ MASTERKEY、CRAZY-A、DJ YAS、DJ KENSEI、KAZZROCK、川辺ヒロシといったアーティストのほか、雑誌『FRONT』の編集者やクラブ『Harlem』の関係者などにも取材を行い、様々な角度から当時のシーンを検証する一冊だ。


 本書の編集・制作を担当したリアルサウンドでは、発売に先駆けてインタビューの一部を抜粋し、全4回の集中連載として掲載する。第2回は、80年代より原宿の“ホコ天”でブレイクダンサーとしてキャリアをスタートさせ、日本で初めてのB-BOYとも称されるCRAZY-Aが登場。ヒップホップカルチャーとの出会いから、現在ブームとなっているフリースタイルバトルの礎となったイベント「B BOY PARK」開催の経緯、さらにヒップホップの4大要素が日本でどのように受容されていったのかまで、じっくりと話を訊いた。


(関連:90年代ヒップホップ集中連載1:元CISCOバイヤーが語る、宇田川町が“レコードの聖地”だった頃 


・「日本はヒップホップを始めるのが早かった」


ーーCRAZY-Aさんは、83年10月に『ワイルド・スタイル』が公開されるより少し前に、ヒップホップと出会っているんですよね。


CRAZY-A:俺は同じ年の7月に公開された『フラッシュダンス』っていう映画を観て、ブレイクダンスに興味を持った。その後に『ワイルド・スタイル』や『ビート・ストリート』(84年/ビデオリリース)で、ヒップホップへの理解を深めた感じかな。当時は南千住に住んでいたんだけど、原宿のホコ天に行けばやっている人がいるんじゃないかと思って、見に行ったの。いわゆるブレイクダンスをしている人はいなかったものの、パイオニアの“ディスコロボ”っていうラジカセが道端にポンと置いてあって、ラップっぽい音楽がかかっていた。そこでしばらく待っていたら、チラホラ人が集まってきて、自然と踊るやつも出てきて。そこで仲良くなったやつらと「来週もみんなで踊ろう!」みたいな感じになって、そのうちに俺も自分でラジカセを持っていくようになった。当時のホコ天には竹の子族やローラー族もいて、そのブームの終焉くらいに俺らがダンスを始めた感じで、最初は駅から一番遠いところでやっていたよ。


ーーホコ天ダンス文化の延長として、ブレイクダンスを始めたと。


CRAZY-A:俺の場合はそう。その後、ホコ天にはバンドブームに伴ってバンドが増えてきて、ラジカセだとまったく歯が立たないから、ターンテーブルとか音響機材を持ち込むようになっていった。俺はダンスを始めてすぐにDJもやり始めたんだけど、当時はDJミキサーがなかったから、秋葉原で部品を買ってきて横フェーダーを自作したりして。87~88年くらいには、DJ KRUSHとかもホコ天でやり始めた。


ーー80年代の初期から半ばくらいに、同時多発的にいろんな人がヒップホップを始めたイメージですか?


CRAZY-A:ブレイクダンスに関して、一番早かったのは横浜のFLOOR MASTERSっていうチームの前身となったFUNKY JAMの連中だと思う。俺より年上の浅岡さんっていう方が、ソウルダンスの流れでニューヨークからブレイクダンスを仕入れてきて、おそらく『フラッシュダンス』の前に彼らは始めていた。俺らが組んでいた東京B-BOYSは、FUNKY JAMとよくバトルをしていたね。それから、浜松のAPPLE PYE ALL STARSもかなり早くからやっていたよ。でも、世界中で一斉に始まったのは、やっぱり『フラッシュダンス』と『ワイルド・スタイル』の影響。ちなみにヨーロッパは、公開時期の関係で日本より2年ぐらい遅れていたから、その経験の差で彼らとバトルして負けることはほとんどなかった。85~86年だと、俺らはすでに2~3年やっていたから。そう考えると日本はヒップホップ先進国だよ。DJ機材だって日本製のものが一番良いわけだし。


ーーCRAZY-Aさんは日本初のB-BOYとも称されます。改めて、B-BOYの定義をどう捉えているか教えてくれますか。


CRAZY-A:俺らの頃で言えば、B-BOY=ブレイクダンサーだった。俺自身もホコ天で踊っていたときに、白人の女性から「あなたたちみたいな人を、B-BOYっていうの」って教えてもらって、東京B-BOYSを名乗るようになった。当時はカーティス・ブロウとかはいたけれど、まだラッパーと呼べる人はほとんどいなかったんだよね。Run-D.M.C.が登場する前、MCの時代で、彼らの役割は革靴を履いてジャケットを着て、DJを盛り上げることだった。ブレイクダンサーが花形で、いまみたいにラッパーが前に出ていなかったんだ。その後、グランドマスターDSTのスクラッチを取り入れた、ハービー・ハンコックの「Rockit」(83年)で、ヒップホップDJが脚光を浴びた。ラップも、シュガーヒル・ギャングが79年に「Rapper’s Delight」を流行らせたりしたけれど、本格的に注目されるようになったのは、もう少し後だった。


ーー当時は全国的にブレイクダンスが流行していたのですか?


CRAZY-A:そうだね。風見しんごさんのバックダンサーとして全国ツアーに行った時は、訪れた先々のB-BOYたちとバトルをしていた。楽屋口で待っているやつもいれば、クラブで待っているやつもいて。俺は当時、テレビやステージでは風見しんごさんより目立っちゃいけないわけだから、そういう場では自分の技を隠しているわけだよ。だからやつらは俺の本当の実力を知らないのね。でも、キャリアが違うから実際にバトルになると圧勝しちゃう。全国制覇するつもりでやっていて、楽しかったな(笑)。


・「Run-D.M.C.が出てきてから、4大要素が分化していった」


ーーでは、CRAZY-Aさん自身がラップを始めたのは?


CRAZY-A:88~9年頃からやり始めたのかな。B-FRESHの連中はもともとみんなダンサーなんだけど、遊びでラップを始めたんだ。当時はヒップホップの4大要素のすべてがまだ原始的だったから、誰でもできることだったんだよね。グラフィティなんて、いかに自分の名前をカッコよく描くかだけの落書きだった。だから本当にNetflixの『ゲットダウン』みたいなノリで、どれも子どもたちがブロンクスで遊びとして始めたものだったんだよ。B-BOYには、“ブロンクスボーイ”って意味もある。たぶん、そっちの方が最初なんじゃないかな。


ーー4大要素がいまみたいに分化していったのは、いつ頃だったのでしょう?


CRAZY-A:86年にRun-D.M.C.がエアロスミスの楽曲をモチーフにした「Walk This Way」でブレイクして、みんながラップもやり始めた後、4大要素のひとつひとつが成熟していった80年代後半くらいから徐々に分かれていったんだと思う。俺らの場合はダンスから始めて、4大要素のすべてに触れたけれど、Run-D.M.C.に影響を受けてラップから始めた人は、そのままラップだけを追求していくみたいな感覚だったんじゃないかな。その頃からブレイクビーツも、ラップ用の遅めのトラックと、踊る用の早めのトラックに分かれてきた感じだと思う。RHYMESTERが99年に「「B」の定義」(『リスペクト』収録)で俺をフィーチャリングに迎えてくれたのは、改めて4大要素があってのヒップホップだということを示そうとした部分もあったんじゃない。


ーー92年にはEP『PLEASE』をリリースしています。日本語ラップの音源としては、かなり早い時期に発表された作品です。


CRAZY-A:当時はすでに30歳くらいだったので、早くなにか出したいと思って、ファイルレコードの佐藤善雄さんに無理やり出してもらった感じ(笑)。バブルガム・ブラザーズ「Won’t Be Long」のラップバージョンをメインにするなら良いよって言われて、Bro.KORNさんにも参加してもらって。日本語ラップは、いとうせいこうさんやMajor Forceの連中がすでにやっていたけれど、彼らはもともと新しい音楽としてやっていて、俺らみたいにストリートのヒップホップカルチャーから入ってきているのとは違うから、対抗意識があったというか、俺だってこれくらいのことはできるんだっていうのを見せたかったのかもしれない。


ーー94年にはEAST END×YURIが、同じくファイルレコードから『DA.YO.NE』をリリースして大ブレイクしますが、どのように見ていましたか?


CRAZY-A:EAST ENDは「アイドルと一緒にやれば絶対に売れるのに」って、俺は最初から言ってたの(笑)。佐藤さんは「そんな簡単にはいかないんだよ」って言っていたけれど、ポーンって売れちゃった。彼らはあの曲の後、いろいろと大変だったみたいだけど、メインストリームで売れる曲は必要だったし、俺はヒップホップにはいろんなスタイルがあって良いと考えているから、全然アリだと思っていた。m.c.A・TとかTINNIE PUNXSも、ライバル視していたところはあったけれど、いろんな人がいてこそ発展するから。そもそも、ヒップホップ人口が少ないのだから、みんな表向きはバチバチやっていたけれど、どこかで仲間意識は持っていたんじゃないかな。だって、相手がいないと戦うこともできないからね(笑)。自分たちだけではヒップホップはできないんだよ。(続きは12月上旬発売予定の『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』にて)


(編集部)