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佐藤健は映画俳優として過小評価されているーー観客の内面を映し出す『何者』の演技の凄み

2016年10月17日 12:11  リアルサウンド

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(c)2016映画「何者」製作委員会 (c)2012 朝井リョウ/新潮社

 映画賞などというものにどれだけの価値があるのかはわからないが、それでも思う。佐藤健は演じ手として、不当なまでに評価されていないと。たとえば『るろうに剣心 京都大火編』ならびに『伝説の最期編』における彼の演技に、なぜ最優秀主演男優賞が与えられなかったのか。明らかに偏見が邪魔をしていると考えられる。単にカッコいいひとが、カッコいいアクションを披露している。その程度の認識でしか、彼の表現を、(観客ではなく)映画業界の人間たちが捉えることができていなかった。ただ、それだけのことではないか。誠に情けない。


参考:『セカネコ』設定に見る“感動の方程式” 余命わずかな主人公はなぜ葛藤し続けるのか


 緋村剣心の殺陣だけに瞳を奪われていると、気づくことはできないかもしれないが、佐藤は剣心を、歩行と沈黙によってかたちづくっている。殺陣が独特なのではない。歩行が独特なのだ。歩行が独特だから、たとえば後ろ姿だけでも、彼が何者かがわかる。彼がどれだけの凄腕で、どれだけ凄まじい過去を背負っているかを、佐藤は歩行によって伝えている。そして、沈黙。いや、もっと身体的に静止と言ったほうがよいかもしれない。激闘が始まる直前の、剣心の静止は、これから起きるであろう惨劇のありようを、文字通り無言のまま引き受け、その上で下す決断としての静止であり、物言わぬ動かぬ瞬間こそが最高にドラマティックなのだということを表している。そして、それはきわめて映画的な表現に他ならない。


 黒沢清監督の『リアル~完全なる首長竜の日~』でも、不当に無視された。特異な設定の下、あの、魂だけが抜け出して、器としての身体が、夢遊病のように彷徨いつづけているかのような、非常な困難な芝居を成立させていたにもかかわらずだ。


 わたしは佐藤健を映画俳優として高く評価している。だが、『何者』の彼の表現には心底驚かされた。なぜなら、『るろ剣』や『リアル』のようなハイクオリティの方向に演技が向かっていなかったからである。


 簡単に言えば、ハイクオリティの演技とは、難しいことを鮮やかに達成することだ。『るろ剣』にしても、『リアル』にしても、大雑把に言えば、映画的なケレンが存在する。ケレン味ある世界観の中では、たとえば歌舞伎で言うところの、見栄を切る、そんな鮮やかさも効果的だ。『るろ剣』も『リアル』も、誰もがおいそれとは真似ができないようなことが平然とおこなわれており、そのことによって映画に強度がもたされていた。


 だが、『何者』は違う。この作品には、実に映画的な仕掛けが施されてはいるが、それが『るろ剣』や『リアル』のような、全体に敷き詰められたムードとしてのケレンにはなっておらず、いや、むしろ、そうしたケレンが派生してしまっては、その仕掛けそのものが沈没してしまう。端的に言えば、ある種のミスリードが必要な映画なので、演じ手にとってジャンプ台になるようなケレンはほとんどないと言ってよい。


 では、佐藤健はどうしたか。


 何もしなかった。これがわたしの結論である。『何者』の佐藤健は、もはや観る者に「凄い」とさえ呟かせない、超越的な次元で、芝居を繰り広げている。


 もちろん、何もしていないわけではない。何もしていないように見える、ということだ。精神論的な意味ではなく、そこでは唯物的に、無私、というものが映っている。


 無私の境地。


 これは、表現としては最強ではないだろうか。


 『何者』は、5人の就活生の物語であり、Twitterをめぐるディスコミュニケーション論でもある。群れることが孤独を突き詰めることにもなる、実に現代的な集団=社会論でもある。内定を目指して共に切磋琢磨しているかに見える大学生たちの深層の断面図が、ディスカッションドラマにも思える展開のはざまから、軋みのようにこぼれ落ちていく。


 佐藤健はここで一見ストーリーテラーにように見えて、まったくそうではなくなる主人公を演じているが、基本的に、あらゆる事態を前にして受けの芝居だけを積み重ねており、しかも、明快に表情が掴み取れる瞬間はほとんどない。


 かといって、無表情というわけでもない。動揺はある。焦りもある。好きなコを前にドキドキしたり、ルームメイトを前にカッコつけたりということもある。だが、すべてが微細な揺れに留まっており、肝心なものはどこかに仕舞われていて、蠢きは不明の場所で灯されているかのようだ。こうした、最低限の所作が、終盤の急展開に効いてくるわけだが、佐藤健の演技は、単純に作品の説話構造に奉仕しているわけではない。


 真に素晴らしい演技表現は、観る者の精神状態によって変幻するものだが、『何者』の佐藤健はまさにそうだった。わたしは二度この映画を観たが、印象がまるで違った。


 一度目は彼の姿が亡霊に思えた。二度目はひどく無防備な生きものに見えた。それは、佐藤健が、ある特定の主張の下に人物造形をしていないからだと思う。これはキャラクターに余白を与える、どころの話ではなく、余白だけでキャラクターを作り上げているからである。


 無表情ではない、と書いたが、『何者』の佐藤健の顔は能面を思わせる。能面は、観客が見る角度によって、表情が変わる。あるときは哀しくも見えるし、あるときは和やかにも見える。光の加減によっても、能面は変化する。いや、正確に言えば、何も変化してはいないのだが、変化したように見えるのだ。


 主人公は劇中で何度もスマートフォンを覗きこむ。その都度、彼の顔はスマホの光源を浴びる。照らし出されるその顔は、わたしたち観客の内面を映し出す鏡である。この物語を傍観する者も、この物語に感情移入する者も等しく、佐藤健の、いかようにも受け取れるあの顔の数々に、侵食されるだろう。おそろしいことが、そこでは起きる。


 主人公の名前は、拓人。人を拓く。わたしたちの内面を確実に拓く、静かにして凄絶な佐藤健に、個人的な最優秀主演男優賞を進呈したい。(文=相田冬二)