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グリーン・デイは日本でどう地位を築いた? 元名物A&R井本氏が明かすバンドの軌跡と現在地

2016年10月16日 16:11  リアルサウンド

リアルサウンド

グリーン・デイ

 グリーン・デイのニューアルバム『レボリューション・レディオ』が10月7日、世界同時リリースされた。今作は初期のパンキッシュなサウンドとポップでキャッチーなカラーを維持しつつも、『アメリカン・イディオット』や『21世紀のブレイクダウン』で見せた構築美も兼ね備えた、「これぞグリーン・デイ」という傑作に仕上がっている。奇しくも同じ週にはHi-STANDARDが16年ぶりの新作『ANOTHER STARTING OVER』を無告知で突如リリースしたこともあり、90年代後半にパンクロックを愛聴した者には嬉しい1週間となったのではないだろうか。


 今回リアルサウンドでは、1994年の日本デビュー作『ドゥーキー』から2004年の『アメリカン・イディオット』までA&Rを務め、それ以降はインターナショナル本部の一員として今もグリーン・デイに携わり続けているワーナーミュージック・ジャパンの井本京太郎氏にインタビューを行った。グリーン・デイはここ日本でどのようにして浸透していき、今のような地位を築いたのか。またそのためにどのようなプロモーションを展開していったのか。彼しか知らない貴重なエピソードを交えつつ、バンドがどのような経緯を経て『レボリューション・レディオ』という作品を完成させるに至ったのか、たっぷり語ってもらった。(西廣智一)


・初めて経験するジャンルで、どう宣伝していいかわからなくて


ーーまずグリーン・デイのメジャーデビューアルバム『ドゥーキー』を日本で出すことが決まったとき、周りの反響はどうだったんですか?


井本:彼らは〈Lookout!〉という向こうのインディーズレーベルから何枚か出していて、『ドゥーキー』もすでに輸入盤のみで発売していたんです。


ーー海外では1994年2月発売、日本盤はそれから4カ月後の6月にリリースされますよね。


井本:そうです。正直なところ、その当時流行っていたロックの文脈とはちょっと違ってたんですよ。メロディックパンクというのは初めて経験するジャンルだったので、我々もどう宣伝していいかわからなくて。実際、いろんな音楽誌に話を持っていっても当たりが弱い。グランジからブリットポップへと流れていく時期だったし、メディア側もこういうパンクロックをどう扱っていいのか正直よくわかっていなかったんだと思います。ところが、意外なことにある男性ファッション誌さんが最初に食いついてくれて。恐らくファッション的にも当時の日本のストリートカルチャーや、のちに対バンすることになるHi-STANDARDさんをはじめとする日本のパンクシーンと通ずるものがあったんでしょう。その後は東京や大阪のラジオ局でも大きく取り上げていただけて、日本のアーティストさんも自身のラジオ番組で毎週かけてくれたりして。僕らが攻めたいと思っていたところとは違うところから、続々とサポーターが出てきたんです。


ーーなるほど。そういえば当時、ライブ・テイクを集めたEP『爆発ライヴ!』シリーズを国内限定でリリースしていましたよね。1作目は1995年3月発売で、初来日よりも1年近く前でした。これは日本のファンに彼らの魅力を知ってもらうために企画したんですか?


井本:その通りです。5万枚ほど売れたのかな。これが起爆剤となって『ドゥーキー』も売れたという、成功した企画盤だったんじゃないでしょうか。普通はバンドがデカくなっていくとこういうのって出させてもらえなくなるんですけど、彼らは日本に対しては非常に協力的で。最後に出したのは2009年の赤坂BLITZ公演を入れたEP(『爆発ライヴ!~赤坂篇』)。だから、わりと最近のファンは知らないかもしれないですね。ちょっと横道に逸れますけど、『爆発ライヴ!』のタイトルは僕や当時関わっていたスタッフで考えたんですけど、バンドはこのタイトルを知らないんですよ。邦題ってアーティスト本人が知らない、結構アブないものも多くて(笑)。で、2枚目に関してはちょっと面白いエピソードがあって。


・ボーリング、ボーリング、ボーリング、パーキング、パーキング


ーー初来日公演から晴海での音源が収められた、1996年7月発売の『爆発ライヴ2!~東京篇』ですね。


井本:そうです。彼らは初来日のとき、まず大阪に到着して2日ぐらいライブをしたんです。あのときはとにかく毎晩毎晩ボーリングばかりで、昼からやってたときもあれば、ライブが終わってから夜中にやるときもあって。そのボーリング場のビルの壁面には、上から「ボーリング、ボーリング、ボーリング、パーキング、パーキング」と各フロアごとに書いてあるんですね。要は2階と3階が駐車場で、4階から6階がボーリング場だったと。それがメンバー的に気に入ったらしく、よく「よっしゃ、あの『ボーリング、ボーリング、ボーリング、パーキング、パーキング』のところに行くか!」と言ってたんです(笑)。


ーー確かにキャッチーですね(笑)。


井本:ええ。それで帰国後に『爆発ライヴ!』の第2弾を作ることになったんです。邦題と一緒に英語のオリジナルタイトルも付けるんですけど、1作目のときはシンプルに『Live Tracks』だったんですね。でも、 2作目のときはオリジナルタイトルがなかなか決まらなくて。現地のスタッフからは「日本で考えた企画なんだから、日本で考えてよ!」と言われて、いろいろ考えて送ったんですけど全部NG。それである日、僕がやけくそになって「じゃあタイトルは「Bowling Bowling Bowling Parking Parking』はどうですか?」と提出したら、たまたま海外のほうでも何か考えなきゃいけないと思ってくれたみたいで、同じ「Bowling Bowling Bowling Parking Parking』というタイトルが上がってきたんですよ(笑)。


ーーメンバーもボーリング場のことを覚えてくれていたんですね。


井本:そうなんですよね。間に入っているレーベルの人たちからは「えっ、あなたたち何か話し合ったの? バンドからも同じタイトルが届いてるよ? このタイトル、なんなの?」と言われて(笑)。結局これに決まったんですよ。さらに、ライナーノーツの右下にそのビルのイラストまで描いて(笑)。


ーー(現物を見ながら)えっ、これ井本さんが描いたんですか?


井本:はい(笑)。でもこれには後日談があって。このCDは日本だけで出している商品なので、完成したらアメリカに数十枚送るんですが、中身を見た現地レーベルの人から「変な挿絵が入ってるけど、意味がわからないので外してほしい」と言われてしまって。アルバムタイトルの由来含めて説明したんですけど、結局2ndプレスからこの挿絵は外して、ここの部分は空白なんですよ。しかも『爆発ライヴ2!』は、のちに『爆発ライヴ!+5』(1997年)という作品が出たとき廃盤にしちゃったんです。なのでもうこのアルバムは中古盤でしか手に入らないという。


ーー聞くところによると、最近のビリー・ジョー・アームストロング(Vo, G)のインタビューで、初来日のときにボーリングばかりやってた話が語られていて、そこから「Bowling Bowling Bowling Parking Parking』というタイトルを付けたと言っていたそうですよ。


井本:へえ、すごいなぁ。覚えてるものなんですね(笑)。


ーーちなみに『ドゥーキー』って最終的にどれくらい売れたんですか?


井本:品番を変えて何度も再リリースされているので正確な数字はわからないんですけど、トータルで80万枚は超えたんじゃないですかね。


・何か決める際には絶対にメンバー3人で話し合う


ーー改めて初来日の話についても聞かせてください。最初のジャパンツアーは1996年1月でした。


井本:初来日からプロモーターはずっとクリエイティブマン(プロダクション)さんなんですけど、ある日、今ではベテランの当時の若手スタッフさんから電話で「井本さん、グリーン・デイをやりたいと思うんですけど、どうですかねぇ?」と打診があって。「日本ではまだ全然売れてないし、ちょっとまだ早いんじゃないかな?」って応えつつ、しばらく様子を見てたんです。でもそういうところに目をつけるセンスというのは、クリエイティブマンさんのすごいところだと思います。で、そのセンスは間違ってなかった。『ドゥーキー』がだんだんと売れ始めて「そろそろできるかも」という頃には、バンドもすでに1,000人、2,000人のクラブじゃやれない規模感になっていて。日本でもその頃にはすでに10万枚ぐらい売れてたのかな。となると、東京では10,000人ぐらいいけるんじゃないの? ってことで、武道館でやりたいよねってことになったんですけど、当時はまだオールスタンディングのライブが主流じゃない時代。そこでクリエイティブマンさんがいろいろ頑張って晴海の展示場を探してきて、そこで日本では初めて9,000人規模でのパンクロックのオールスタンディングライブが実現したんです。


ーーそういう経緯があったんですね。僕もあのライブには足を運びました。


井本:そうでしたか。とにかく警備面も運営面も慣れてない初めて尽くしで、お客さん的にも初めて経験するものだったけど、結果的には成功したと。


ーー初めてメンバーとお会いした印象はどうでしたか?


井本:大阪で出迎えたとき、センシティブで眼力が強そうな印象を受けました。3人ともトンガっていて、ちょっと近寄りがたかったですね。音楽的にポップでメロディアスだけど、やっぱりパンクスなんだなって。最初はあんまり喋らなかったけど、何回か食事やボーリングを経て仲間のひとりとして認めてもらえたような気がします。それと一応メジャーデビューしたけど、インディースピリットあふれるパンクスだったので、何か決める際には絶対にメンバー3人で話し合うんですよね。それは僕らのプロモーションに対してもそうだし、ライブのやり方に関してもそう。バリケードの位置にいたるまでこだわりがあったりして、いろんな面でクリエイティブマンさんがかなり苦労したと思いますよ。


・フジロック空気銃事件の真相


ーーそして2度目の来日が、1997年の『FUJI ROCK FESTIVAL』初年度。グリーン・デイは2日目のヘッドライナーとしてアナウンスされましたが、台風の影響で2日目が開催中止となってしまいます。あの来日時は高田馬場AREAでもライブをしましたよね。


井本:やりましたね。あれは当時ライブをほとんどやってなかった期間だったので、フジロック前にウォームアップしたいということで、たまたま見つかったのがあの300人キャパのハコで。すごかったですよ、ビリーも終わった後に酸欠気味でフラフラしてましたから。


ーーで、その数日後にフジロック。あのときのエピソードは当時、雑誌などでもいくつか目にしましたが。


井本:空気銃ネタですよね?(笑)……初来日のときはボーリング場に行って暇つぶしをしたけど、2回目の来日のときはその暇つぶし方法が空気銃遊びだったんです。彼ら、フジロックに出演するいろんなバンドに向かって撃っちゃうんですよね(笑)。危ないじゃないですか、周りに関係ない人がいたりすると。けどグリーン・デイチームはそういうところはきっちりしていて、無線で連絡を取り合って周りに誰もいないタイミングを狙うんです(笑)。


ーー(笑)。


井本:ひとしきり某2組のバンドを狙い続けていると、彼らから「いい加減にしてほしい」と抗議を受けるわけです。すると最後の最後に、当時一番勢いのあったあのバンドの……。


ーーえっ!?(笑)


井本:名前は挙げられませんが(笑)。あの人たち、怖そうじゃないですか。そのメンバーのボーカルを狙おうと。ボーカルひとりになった瞬間、無数のBB弾が襲うわけですよ。何をするんだと(笑)。もしどなたかその年に出演していたアーティストにインタビューすることがあったら、ぜひその話題を聞いてみてほしいです(笑)。


・日本で売る際にキャラを印象付けたかった


ーーここだけ切り取ると、相当メチャクチャなバンドに映りますが(笑)。


井本:ちょっとビジネスの話に戻しますけど、僕は日本で売る際にそういうキャラ付け、ヤンチャっていうキーワードをどうしても印象付けたかったんですよね。3人とも当時は童顔で、キャラ的にはカワイイじゃないですか。でもやっぱりトンガったところも見せたい。(『爆発ライヴ2!』のブックレットを開き)この学生服を着た写真は、初来日のときのものなんですけど、トンガってるけどちょっと面白い、そういうイタズラ好きなところも見せたくて。特に脚色はしてないんですけど、そういうこぼれ話は僕が求めていたイメージにぴったりだったと。普通だったら隠したほうがいいことかもしれないですけど、これは全部世の中に出してしまえと思って、あえて出したということなんです。


ーーその等身大でリアルな感じが、バンドが大きくなっても身近な存在として親しまれる要因になったと。


井本:そうですね。でも最近残念に思うこともあって。以前は来日すると必ず小さいハコでもライブをやっていたのが、ここ数回の来日ではそれができてないんです。それに最近はカリスマになりすぎてしまって、今さら「隣のあんちゃん」に戻れないというのもあるのかな。


ーー楽曲的にも『アメリカン・イディオット』(2004年)以降、かっちりと作り込まれた作品が増えたことで、以前のように小バコでラフに見せることが少しずつ難しくなってしまったというのもあるんでしょうか?


井本:それもあると思います。今はサポートメンバーもいるし、できることなら「そういう小バコでのライブも久しぶりにやるといいんじゃないか」と提案したいんですけどね。


・『ドゥーキー』以降も日本だけセールスが上り調子だった


ーー『ドゥーキー』以降、バンドは『インソムニアック』(1995年)、『ニムロッド』(1997年)、『ウォーニング』(2000年)と作品を重ねていきます。


井本:グリーン・デイって『ドゥーキー』から『ウォーニング』まで、日本だけセールスが上り調子だったんですけど、アメリカやヨーロッパでは逆でセールスを落としていたんですよね。ところが『アメリカン・イディオット』のときはアメリカやヨーロッパで売り上げが一気に回復するんです。だから、あの頃の『アメリカン・イディオット』に関しての海外インタビューを翻訳すると、みんな「グリーン・デイが復活した」みたいな言い方をしてるんですよ。一回ダメになったけどまた戻ったみたいな。でも僕らにしてみると「いや、日本ではずっと売れてたし、何も変わってないんだけどなぁ」という思いがあったので、そういう記事がすごくイヤであちこち訂正した記憶があります。


ーーそうなんですよね。海外では『ドゥーキー』が1,000万枚以上売れたために、その後の作品がセールスを落とす中、日本では常に一定以上の人気とセールスを保っていて。


井本:海外ではツアーにはお客さんが入っていたのに、CDが全然ダメで。でも日本ではそんなことなかったんですよね。


ーーそういえば『アメリカン・イディオット』の前までは、頻繁に日本を訪れてましたよね。調べてみると、1996年1月の初来日、1997年7月のフジロック以降は、1998年3月にジャパンツアー、2000年8月に『SUMMER SONIC』初年度ヘッドライナー、2001年3月にジャパンツアー、2002年3月に『GREEN DAY FESTIVAL』開催、そして2004年8月に再びサマソニ出演と、ほぼ毎年のように来日しているんです。


井本:『GREEN DAY FESTIVAL』ありましたね。初来日のときはHi-STANDARDさんにお世話になり、『GREEN DAY FESTIVAL』ではSNAIL RAMPさん、GOING STEADYさん、MONGOL800さんに出演していただいて。今考えてもすごいメンツですよね。


・『ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス』を日本のお客が歌えなかった


ーーそしてグリーン・デイは『アメリカン・イディオット』で再び頂点に達します。


井本:『アメリカン・イディオット』でさらにワンランク上に行きましたね。ビリーはリプレイスメンツやランシドみたいなバンドに憧れているのと同時に、ストーンズやビートルズのようなクラシックロックも好き。メロディアスなものが好きで、自分たちの曲を世の中の人に口ずさんでほしいという思いが強かったんです。それが「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」が世界的に大ヒットすることでついに実現した(※Billboard HOT100で最高2位)。ああいう曲をヒットさせることが、彼のかねがねの目標でありモチベーションだったみたいなんです。実際大ヒットしてすごく嬉しかったようですよ。日本でもラジオで1位を獲ったんですけど、歌えるかどうかとなるとまたちょっと別の問題で。


ーー確かに、日本人が口ずさめる洋楽ヒット曲とはちょっと違いますよね。


井本:日本のリスナーが歌える洋楽ヒット曲って限られてくると思うんです。これは苦労話になるんですけど、『アメリカン・イディオット』ジャパンツアーの名古屋公演の話で、アメリカやヨーロッパのライブで観客が大合唱する「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」を演奏するとお客さんが歌わなかった、いや、歌えなかったんですよ。そうやって歌える曲/歌えない曲の差って、日本人にとって難しい単語がどれだけ入ってるか、どれだけ日本人が歌いやすいメロディかどうかなんですよね。そこの壁を乗り越えることができたら、みんなが合唱して定着していくんでしょうけど、「バスケット・ケース」は歌えます、「マイノリティ」は歌えます、でも「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」は難しいですという、そこの線引きは間違いなく存在するんじゃないかと。


ーーなるほど、わかります。


井本:あのときはアールイーエムとグリーン・デイが同じ時期に日本でツアーしていて、僕はその日はたまたまアールイーエムに付いて大阪にいて。ある朝ホテルで身支度をしていたらアメリカのワーナー本社から電話がかかってきて、「グリーン・デイのマネージャーとつなぐから、今から3人で話そう」ということになったんです。「何が起きたんだろう?」と思っていたら、マネージャーが「ビリーが『日本であの曲を演奏したら、誰も歌わない。あの曲は日本では全然ヒットしてないのか?』と言ってる。実際のところ、どうなの?」と聞いてくるんです。「いやいや、あの曲は日本でもラジオで1位を獲ってるし、チャートでも1位を獲ってるし、しっかりヒットしてるんだよ。ただ、日本人が歌うには言語的に難しい。今、お前歌ってみろと言われたら、僕はあの曲のサビ、歌えませんし。それはしょうがないことですよ」と伝えると、今度は「えっ、そうなの? 歌えないの? そうか、じゃあそれをビリーに伝えてあげてくれ」と言われて(笑)。


ーーマネージャーが伝えないんですね(笑)。


井本:そうなんですよ(笑)。しょうがないから、ビリーが乗る新幹線と同じ便に大阪から乗って、名古屋で彼と合流したんです。でもビリーはその一件をすごく気にしていたみたいで、結局幕張に到着するまでちゃんと話ができなくて。会場に着いてサウンドチェックが終わった後に改めてビリーと話したら、「えっ、そうなの? 俺、そんなに気にしてないよ?」と言って強がってるのがわかるんですよ(笑)。それで、「あの歌詞は僕でも歌えないよ。もし日本人が合唱するんなら、「ウェイク・ミー・アップ・ホウェン・セプテンバー・エンズ』のほうが歌いやすいんじゃないかな。試しにあの曲、サビのところだけでも振ってごらん。たぶん「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス』よりも歌える人がたくさんいるはずだから。その違いはアメリカ人の君たちからしたらわかりにくいだろうけど、歌えないからといって別にヒットしてないということではないから安心してよ」と説明したんです。もう必死で、すごく緊迫した思い出ですね。


ーー正直、「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」は日本人が好むタイプとはちょっと違いますし、当時は「これがアメリカではウケるんだ!」と驚いた記憶があります。


井本:僕も思いました。人生の影を何かに比喩しているような曲だから、そこでのわかりにくさもあるし。日本のマーケットの場合、1stシングルでアルバムセールスに決着がついてしまうことが多くて、そこが常々課題だったんです。でもアメリカのマーケットでは2ndシングル以降で勝負をかけることが多いんですね。『アメリカン・イディオット』は日本でも初動で25万枚ぐらい売れたんですけど、そこから先が伸びにくかった。で、2ndシングル「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」を世界的に1位に!と本社から激があったんですけど、難しいなと思いながら頑張ってプロモーションして。結果的には50万枚を超えるんですけど、初動から倍にする努力という意味ではすごくいい勉強になりました。ちょうど2ndシングルのヒット中に来日公演があったので、日本というのは特殊なマーケットなんだと双方にとってもよくわかったのかなという気がします。


・新作は初期衝動と大人になった彼らが同居したアルバム


ーー井本さんは『アメリカン・イディオット』を最後にグリーンデイのA&Rから外れるわけですが、その後もインターナショナル本部の一員としてリリースに携わっています。最近では3部作(2012年9月発売の『ウノ!』、同年11月発売の『ドス!』、同年12月発売の『トレ!』)などもありましたが、あれはプロモーションが大変だったんじゃないですか?


井本:本当に大変でした。『アメリカン・イディオット』以降は、まず『21世紀のブレイクダウン』(2009年)があって、あれはすごくいい作品だったし、コンセプトもしっかりしていたので。それが今度は『ウノ!』『ドス!』『トレ!』と3枚ほぼ同時期にリリース。バンドとしてちょっと変わった流れを作りたかったんでしょうけど、やはり散在している印象が拭えなくて。まず『ウノ!』を9月に出して、その2カ月後に『ドス!』を出した。本当は『トレ!』を翌年1月に出す予定だったのが、急遽12月に前倒しになったんです。それぞれいい曲は入っていたしちゃんとプロモーションできたはずなのに、『ウノ!』を宣伝している間にもう次の『ドス!』が出てしまう。それが本当に勿体なくて。毎回アルバムからひとつはヒット曲が作れるバンドなのに、それすらやりづらくなっちゃって、自分で自分の首を絞めてしまった感はありましたよね。


ーーそして今年10月に待望のニューアルバム『レボリューション・レディオ』がリリース。「『ドゥーキー』の20年後」みたいな側面がありつつも、しっかり『アメリカン・イディオット』以降のカラーも含まれていて、とてもカッコいいアルバムだなと思いました。


井本:僕もそう思います。彼らもすでに40代で、ファンも一緒に成長している。よくベテランアーティストが陥るジレンマに「20代の頃に書いたあの曲を、なんで今40代の俺が歌えるんだよ?」みたいなのがあるんですけど、グリーン・デイはそこをちゃんと理解しつつ歌える。40代になっても「あの頃の気持ちを今も忘れてないよ」と出してくるし、それが『レボリューション・レディオ』のジャケットにも表現されてるのかな。今感じている怒りを音楽だけではなく、直接的に視覚でも訴えてきてくれるし。しかも、「スティル・ブリージング」や「フォーエヴァー・ナウ」みたいな曲はたぶん今の彼らにしか書けないもので、20代の彼らには書けなかったと思うんです。そういう意味ではパンキッシュな初期衝動と大人になった彼らが同居しているこのアルバムが、僕にはとても嬉しくて。『21世紀のブレイクダウン』のときにも思ったんですけど、まだ成長している姿をちゃんと我々に見せてくれるというのは嬉しいですよね。


ーー確かにその通りですね。


井本:『21世紀のブレイクダウン』冒頭の「21世紀のブレイクダウン」はちょっと組曲っぽいじゃないですか。あの曲を聴いたときにすごく勢いを感じて、泣いちゃうぐらい感動したんですよ。今回のアルバムにはそれに近いものを感じて、1曲目の「サムウェア・ナウ」から2曲目「バン・バン」へと移っていき、だんだんストーリーが構成されていく流れには感激しました。『ウノ!』『ドス!』『トレ!』も決して悪かったわけではないけど、ある種の迷いがあったんじゃないかな。そういう迷いを経てここに戻ってこれたという意味では、あの3枚は必要だったのかもしれませんね。


ーー『ドゥーキー』や『アメリカン・イディオット』をリアルタイムで知らない若い世代も入っていきやすい作品だし、それと同時にあの頃聴いていた世代にもちゃんと引っかかる内容ですし。


井本:そう、両方の世代のことをちゃんと考えてるんじゃないかなと。『ウォーニング』ぐらいからかなりメロディを意識した、もうパンクバンドじゃないような曲がアルバムにたくさん入るようになってきたけど、そういうところの成熟はより強く感じますよね。と同時に「バン・バン」みたいに昔からの骨太路線の曲もあって、これは『ドゥーキー』の頃の彼らがやっていても全然ハマると思うし。『ドゥーキー』の頃のライブ映像があったら、音だけ消して「バン・バン」とか流してどれだけマッチするのか試してみたいですよ。


・グリーン・デイは洋楽の入り口になりやすいバンド


ーー最近は洋楽をあまり聴かないという若い世代も増えていると聞きます。でも海外にもカッコいいバンドがたくさんいるんだよってことを、まずはグリーン・デイの新作をきっかけに知ってほしいですよね。


井本:そういう洋楽の入り口になりやすいバンドっていくつかあると思うんですけど、グリーン・デイってまさにそのひとつだと思うんです。あとは、ライブのエネルギーや実力も、誰にも負けないと思う。ライブ映えする曲がたくさんあるし、ライブを観て好きになる曲も多いんじゃないかな。よくライブに行って毎回必ずやってる曲が勝手に刷り込まれることってあるじゃないですか。「アルバムで聴いてもピンとこなかったけど、ライブで聴くと最高だね」みたいな。そういうのがやたらと多いのがグリーン・デイじゃないかと思うんです。ライブがうまいバンドって、そういうところは得ですよね。


ーー洋楽への入り口という点において、グリーン・デイは過去に2度(2009年5月と2012年8月)『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)に出演してますよね。


井本:テレビ出演も『アメリカン・イディオット』までは全然考えてなかったんですよ。ロックファンの中である程度完結させて、そこからちょっと足を伸ばしたら50万枚という数字があったので。たぶん以前はテレビ局側も、パンクバンドの生演奏というのを受けきれられなかったと思うんです。ところが『アメリカン・イディオット』であれだけいろんな記録(グラミー受賞など)を作ったことで、お茶の間にも出せるセッティングが出来上がった。バンド側はその頃になると今までと違ったことがやりたい、変わったことがやりたいということで、それならやってみようかということで、しかもお客さんを入れてのパフォーマンスだったので、ライブの雰囲気をしっかり伝えることもできた。最初に出演した2009年はまだ着うたの時代でしたけど、放送後一気にダウンロード数が伸びるぐらい反響がすごかったですよ。


ーーストリート出身で今もそこを大事にしてるんだけど、それと同時にお茶の間の大衆性も意識して大事にしている。グリーン・デイって面白い存在ですよね。


井本:彼らはメロディのあるパンクロックという、パンクの既成概念を崩すようなスタイルでスタートしたけど、『ドゥーキー』が売れた後にもともとのパンクファンから敬遠されてたんですよね。それでちょっと傷ついたりもしたんですけど、彼らに続くバンドたちがたくさん出てきて、そういう流れがしっかりできた。それによって彼らの筋がしっかり通っていることを周りに見せることができたんです。しかも極めつけに「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」がグラミー賞まで獲った。結局テレビに出るのも同じことで、ヒット曲を生むにはどうしたらいいかというのが日本の場合はそこだったんです。と同時にヤンチャな部分を残したまま20年以上やっていくというのも、よかったんじゃないですかね。若いイメージを風化せずに維持してるわけですから。そういう部分も含めて、今の若い世代にも響くものがあるはずなので、まずは先入観なく聴いてみてほしいですね。初めて聴いたロックが、初めて行ったライブが、初めて弾いたギターのリフが、グリーン・デイだった、というリスナーが増えてくれたらこんな嬉しいことはありません。
(取材・文=西廣智一)