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浅野忠信演じる男はなぜ恐ろしいのか? 『淵に立つ』距離感のある芝居の凄み

2016年10月16日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

 観る者の心を終始揺さぶり続ける深田晃司監督の渾身作『淵に立つ』は、すでに国内外からの賞賛にもある通り、とにかく浅野忠信の存在が凄い。ある家族の中へ突然現れる浅野は、日本国旗を象徴するような白と赤の衣に包まれた悪魔のごとく、物語と我々をまさに淵へと追い込んでいく。もう「恐ろしい」の一言だが、それはなぜか。『淵に立つ』で見られる現象をもとに考えていきたい。


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 まず、浅野忠信には「距離」がある。『淵に立つ』の主軸となる家族には、これまでの深田晃司監督作品に欠かせない古舘寛治が父・夫、そしてその母・妻に筒井真理子、と卓越した演技力をもった俳優らが集っている。そこへ古舘の旧友・八坂演じる浅野がやって来て、あれよあれよという間に同じ家の中で暮らすようになる。以降、浅野は娘を加えた家族3人と会話をし、食事をし、オルガンを教え、徐々に打ち解けていくのだが、他の俳優らと芝居を交しながらも、その肉体的かつ心理的な距離感を変えることはない。ここでいう距離感とはシナリオ上のそれとは違い、浅野という俳優自身が作るもので、常に他者と絶妙な間合いをもって存在し続けるのだ。これはたとえ古舘に重い罵声を浴びせ、筒井の肉体を凶暴にむさぼるような感情的なシーンにおいても同様で、浅野演じる人物の本性がどんなものなのかまるでわからず、その困惑はそのまま恐ろしさに直結する。やはり浅野忠信という俳優は、他者とどのように距離感を作れば、緊張した状態にできるか知っている天才なのだ。それは役者間だけに限らず、監督にもカメラに対してもそう。つまり、映画そのものと絶好の距離を保つことができるということだ。


 続いて、浅野忠信は「自然さ」が恐ろしい。ここでの「自然さ」とは日常的な所作に近い演技という次元の話ではなく、どんな非日常的な役にもリアリティを与えられるということだ。『淵に立つ』での浅野は、基本的に敬語で会話する。シナリオ状態で考えれば、「小学生の娘に対しても敬語を使う奇妙な男」というのは変なキャラクターとして非常にわかりやすい。だが、いざ実際に浅野が演じるとその奇妙さがとてもナチュラルに感じられる。そこには、おかしいキャラクターを演じる際に発生しがちなあざとい匂いが一切無い。ただしこれは熟練した俳優ならば当然のスキルだろう。だがさらに『淵に立つ』で、浅野は奇妙さを推し進め、シワのない白ワイシャツを眠る時すら着ている。これは浅野自身からの提案だったそうだから凄い。あえて極端になることでリアリティを獲得し、単なるキャラクターの枠を超えた「人間」として自らを作り直すことが、浅野には可能なのだ。


 しかしこうして勝手に語れば語るほど、浅野忠信のことが余計わからなくなってくる気もする。そう、浅野忠信は「謎」そのものだから恐ろしいのだ。謎を演じるのでなく、謎そのもの…。それが作品のコアにもなる『淵に立つ』だが、連なる過去の作品たちを思い返してみれば、浅野がはるか以前から「謎」であったことは確か。


 例えば、黒沢清監督の『アカルイミライ』で、浅野は毒クラゲを飼う男を演じ、突然殺人を犯したのちに獄中自殺を遂げた。是枝裕和監督のデビュー作『幻の光』では江角マキコの夫として登場するが、これまた突然自死して幻となった。両作の浅野が消えた後に物語が大展開する構造は『淵に立つ』も同じ。浅野忠信が突然消えてしまのは、もはや映画史のルールのように思えてくる。では、なぜ浅野は消えるのか。その理由はいつだって「謎」である。しかしそれでも観る者は深く納得してしまうのだ。大いなる「謎」がただ「謎」のまま消え、その後とんでもない出来事が起きるのが予感される。このざわつきを巻き起こせるのは、浅野忠信だけなのではないか。


 キャリア初期はインディーズ映画界の未知なるスター然としていた浅野忠信も、今やメジャー大作にも欠かせないベテランとなり、さらにはアジアやヨーロッパに飛び出してハリウッドデビューまで飾り、日本を代表する国際的俳優として疑いの余地が無い地位を築いた。しかし、彼が本質的に持つ「恐ろしさ」を持て余すことなく、慎重に扱うことに長けているのはやっぱり日本映画。それもギリギリの崖上で「映画」と向き合う独創的な監督、映画作家の作品だということが、『淵に立つ』を観れば改めてわかる。(松井 一生)