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格差問題が浮き彫りにする“人間の値打ち”とは? 世界中で支持されたイタリア社会派映画を観る

2016年10月15日 17:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『人間の値打ち』場面写真

 『グレート・ビューティー/追憶のローマ』などを制し、イタリア・アカデミー賞と呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の第58回作品賞を獲ったのは、『人間の値打ち』という、アメリカの同名小説を映画化した群像劇だった。「人間の値打ち」という題名から、「説教くさい、きれいごとの話か…」と思って油断していると、いきなり死角から角材でぶん殴られるような衝撃を与えられる辛辣な作品である。きれいごとどころか、現代社会の酷薄な現状や、人間の本音とドス黒い欲望までをも次々に目の当たりにさせられるのだ。


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 本作は、ある冬の夜に起こった轢き逃げ事件を中心に、『パルプ・フィクション』や、アスガー・ファルハディ監督の『別離』のように、同じ時間のなかで起こる様々な出来事を、複数の人間の視点から描いていく。ミラノ郊外、コモ湖のほとりの広大な敷地に建つ豪邸に住んでいる富豪家族。上流階級になんとか仲間入りを果たし大金をつかもうとする、不動産業を営む男の一家。そしてさびれた集合住宅に住んでいる犯罪歴のある青年。事件の真犯人が明らかになっていく過程で、北イタリアの上流、中流、下流という、それぞれの経済的階層に属する人々の真実の姿をも浮き彫りにされていく。


 イタリア・アカデミー賞7冠達成をはじめ、世界で40以上の受賞を果たすほど本作が支持された理由の一つは、格差問題を描きながらも、高所得者を「悪」、低所得者を「善」とするような、社会派作品にありがちな単純な図式に収まっていないという点が大きいだろう。彼らはそれぞれに悩みや秘密を持ち、またそれぞれに人生を意義あるものにしようとあがいている。登場人物に過度な思い入れをせず、一歩、二歩引いて「演劇的な」距離をとった演出は、富豪も貧民も、立場や生活は違えど同じ人間に過ぎないということを観客に印象づける。この対象からはなれた、ときに喜劇的にもなる演劇性というのは、本作の監督パオロ・ヴィルズィの作風でもある。


 カーラ・ブルーニの姉で、映画監督としてのキャリアもある、数々のゴシップで有名な女優、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキが本作で見事に演じているのが、主人公の一人である大富豪夫人カルラだ。カルラは不自由のない生活をしながらも、何か空虚さを感じていた。投資による金儲けやメンツのことだけしか頭になく、家族や自分に理解を示さない夫に対する不満も密かに募らせている。そんな彼女が偶然、崩れ落ちそうになっている劇場の前を通りかかる。県に一つしかないという演劇のための劇場は、修理するあてもなくこの世から姿を消そうとしていた。若い頃に女優を目指していたカルラは、財力を利用して劇場再建事業を起こすことを思いつく。


 リーマン・ショック以降、イタリアは欧州でもとくに経済が落ち込んでいる国である。銀行の不良債権と国の借金によって、国内全体の雰囲気が冷え込み、雇用状況も改善の兆しが見えない。そんな状況において、まず見捨てられていくのが、経済にあまり貢献することのできない「文化」だというのは、非常に身につまされるリアリティある表現である。ここで、ある種の「懐かしいにおい」が漂ってくる。それは1940年代から50年代にかけて、イタリアで起こった芸術運動「ネオレアリズモ」である。この運動は、映画や小説によって、荒廃したイタリアの真実の姿を、市井などの生活に根ざした視点から描き、地に足のついたリアリズムによって社会に好影響を与えていこうというものだった。そして、かつての日本映画にも、やはりこのような社会的なテーマを、より情熱的に表現していた時期があった。


 面白いのは、パオロ・ヴィルズィ監督はきわめて自覚的に、ある種ネオレアリズモ的なテーマを本作で蘇らせようとしているということだ。本作のカルラが劇場再建のために、批評家や劇作家、経営のプロなど有識者が集まる会議を開くシーンがある。彼ら業界人は、口々に演劇が斜陽化していく現状について語る。


「文芸的なテーマを劇場で演じるなんて、いまどき流行らない」


「仕事で疲れてる客は、難しい話など理解できるはずがない」


「演劇はもう死んでいる」


 ここで挙げられる意見は、イタリアを含めた現代社会の文化的な劣化の批判でもあるが、これはそのまま、本作の前時代性を自嘲的に指摘するものにもなっている。


 ルキノ・ヴィスコンティ監督によるネオレアリズモの代表的作品『揺れる大地』は、シチリア島の漁村で貧しい生活にあえぐ人々をドキュメンタリー風に撮った映画だ。同じくシチリア島を舞台にした作品『ニュー・シネマ・パラダイス』では、村の映画館で上映される『揺れる大地』を観た島民が、すっかり退屈し「休みなく働けということを言いたいんだな」と感想を述べ、作り手が労働者に向けて伝えたかった内容が、実際の島の労働者には全く伝わっていないという皮肉的なシーンがあった。


 このような構図というのは、現代もやはり変わっていないだろう。映画業界は内容のある中規模の作品を避け、過度な娯楽化が進む傾向にある。パオロ・ヴィルズィ監督は、それでも、いや、それだからこそ現代に、人間や社会の切実な問題を描く作品が必要なのだということを、ここで宣言しているように思える。しかし、意外にも『人間の値打ち』は、イタリアでも新鮮なものとして評価されている。それは、このような作品が撮られなくなってきたことの反動的な現象でもあるだろう。


 ヴィルズィ監督は、ある過去作でも労働者の厳しい現状を描いているが、そこで、人間に必要なものは「哲学」であるという、感動的な結論に達している。一見、実利がなく無駄に思えるものほど、人間にとって必要なこともあるはずだ。貧富の差はあっても、そういう人間の本質的な部分は何も変わらない。上流階級にいる優雅な人間たちも、ひとたび地位を脅かされるだけで、狂態をさらし奴隷同然になってしまうこともある。その古めかしくも力強い社会観や人間観が息づいた『人間の値打ち』の表現は、それが根源的であるがゆえに、観客の心を深い地点で揺さぶる力を内在しているはずである。それが本作を、数ある映画作品のなかでも真に観るべき値打ちのある映画にしているのだ。(小野寺系(k.onodera))