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ロックバンドは心意気ひとつで“状況”を変えるーー忘れらんねえよZepp DiverCityワンマンレポート

2016年10月13日 14:11  リアルサウンド

リアルサウンド

忘れらんねえよ

 この連載では、基本的に若いバンドを取り上げている。まだ広くは知られていないが、ライブハウスで新たな動きを起こし、現在のシーンに切り込もうとするカウンターをいち早く見つけていきたいのだ。


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 ただ、そうなるとこぼれ落ちるものがある。ロックシーンの頂点をひたむきに目指し、周囲の理解や協力があっても、なかなか芽が出ないバンドたち。彼らが途中から大きく脱皮し、今までにない求心力を手にする瞬間。誰もが怒髪天のように武道館に立てるとは言わないが、心意気ひとつで状況を変えることは可能である。忘れらんねえよが、今、そのタイミングにいる。
 
 結成から約1年、ロッキング・オン社の新人コンテスト『RO69JACK 09/10』に入賞、VAPからメジャーデビューした忘れらんねえよは、ほかから見ればずいぶんと恵まれたスタートを切ったバンドである。王道ロックンロールと青春パンクをブレンドしたような音楽性も、いつの時代にも一定数いるタイプであり、決してわかりにくくはなかったと思う。シングルはタイアップに恵まれ、地道ながらテレビ出演も多数。しかしすぐには売れなかった。


 バンドをスタートさせた頃、すでに三十路手前だった柴田隆浩(Vo./Gt.)には、「他とは違う戦略が必要」との気負いがありすぎたのだと思う。基本的に女子が苦手という自身の性格を粉飾して童貞を公言し、「慶応ボーイになりたい」などとコンプレックス剥き出しの曲を連発していく。当時の私は鼻白んだ。かっこ悪さも突き詰めれば魅力に転じるかもしれないが、世の中に峯田和伸はひとりで十分だ。柴田が本当に目指しているロックバンド/ロックスター像と、自分で打ち出したイメージにズレがあることは、ライブでもなんとなく見て取れた。いいかげん底辺の童貞野郎ぶらなくても、ちゃんと素敵な曲が生まれているのに。そう思ったのが昨年の1月である。

 そこから約一年半。10月9日、Zepp DiverCityで忘れらんねえよを見た。


 大バコでのワンマンが発表されたのは3月のことだが、チケットは前日になってようやくソールドアウト。このスピード感はバンドの通ってきた道によく似ている。スタートダッシュで敏感なリスナーを一気に攫うことはできない。だがフロアを見渡せば、楽しいことなら何でも大好きな10代女子がいて、柴田の歌に自分を重ね合わせている同世代男子がたくさんいて、ちょっとくたびれた感じのオッサン、やけに元気なオバサンも結構いる。アニメ主題歌や映画の劇中歌、朝のワイドショーや深夜バラエティまで、多くの場所で撒いてきた種がちゃんと芽になっているのだ。メジャーでやる意味はこういうところにあるのだとしみじみ思う。


 暗転。華やかなスポットのあたるステージではなく、後ろのPA卓上に柴田が仁王立ちになっていた。今からダイブするから、このまま俺をステージまで運んでくれ、というわけだ。ソールドアウトの喜びを爆発させているのだろうが、いったい何分前からここに身を潜めていたのかを想像すると吹き出してしまう。やっぱり、クールなことよりも、ちょっと隙のあるバカのほうが似合う人なのだ。ただ、そこには必要以上のへりくだり、自らを底辺に貶めていく卑屈さが全然なかった。驚いた。


 この道の先にはデカいステージがあると歌いあげる「バンドワゴン」からのスタート。ずっと描いていた景色を実際に見つめながら、柴田隆浩も梅津拓也(Ba.)も心底楽しそうに笑っていた。以前なら興奮しすぎて逆ギレみたいな事態にもなり得たと思うが、二人は素直にこの場を楽しんでいる。おそらくは、サポートのマシータ(Dr./元BEAT CRUSADERS)とロマンチック☆安田(Key.&Gt./爆弾ジョニー)の存在が大きいのだろう。


 前述したように、三十路手前のデビューだから実際は若くない若手であった。この3人で何とかやっていくと気を吐きつつ、爆弾ジョニーのようにフレッシュな新人が現れれば当然焦るだろう。「中年かまってちゃん」なんてタイトルの曲は作ってきたが、非リア充の僻みが詰まった歌詞にミドルエイジの余裕は感じられなかった。だが、酒田耕慈(Dr.)の脱退によりガムシャラな青春時代にひとつ区切りがついたのだ。40代マシータの頼もしいドラムに勇気づけられ、20代安田の元気に煽られたりしながら、まず音楽的な幅と自由度が広がった。そのことで30代相応の、フラットな感覚が生まれてきたのだと思う。自意識過剰は捨て去ってよい、もっと音楽を楽しんでいいのだ、と。

 「ダサくてみっともない俺」を演じなくなった柴田の歌声が、まず変わっていた。勢い任せて叫ばない今の彼は、とても甘やかで、子供っぽい愛らしさ、少年の無垢さすら感じさせるボーカリストだ。ほとんどが3分弱という簡潔な楽曲から、スイートでポップなメロディが小気味よく飛び出していく。子供でもすぐに覚えて一緒に歌えるだろう。童貞云々のイメージを剥ぎ取ってしまえば、残るのは童謡のように素朴な歌メロだったわけだ。


 歌詞はただ、やはり厨二病的に熱苦しいと思う。彼らの曲はサビや歌い出しがタイトルになることが多いので曲名だけを以下に記すが、「僕らパンクロックで生きていくんだ」「ドストエフスキーを読んだと嘘をついた」「世界であんたはいちばん綺麗だ」などなど。もう少しクールで詩的な表現ができないものかと言いたくなる。


 ただ、もしかして、とも思うのだ。「僕らパンクロックで生きていくんだ」が、たとえば「反逆のナントカ」みたいなタイトルだったら、少女からオッサンまでが笑顔で唱和するこの風景はないのかもしれない。また、恥ずかしいくらいに愚直な歌詞がなければ、この素朴なメロディにロックの熱を感じることはなかっただろう。甘さと青臭さ、親しみやすさと熱苦しさという柴田の個性なしに、忘れらんねえよのロックンロールは成り立たない。言い換えれば、柴田が他の誰でもない柴田であることにファンは感動しているのだ。


 中盤の転換の場面で、今をときめくWANIMAやキュウソネコカミに扮するなど、ブレイクしたバンドに過剰反応しすぎな側面は今もある(一年半前はセカオワに扮していた)。でも、そこも含めて柴田劇場だ。笑いも情けなさもしっかりエンタテイメントになっている。「ばかばっか」「ばかもののすべて」などの必殺ナンバー、最新シングルの「俺よ届け」など、相変わらずかっこつかない曲で最高潮に盛り上がるフロアを見ながら、これでよいのだ、と思った。柴田でよいのだ、と。

 決してスタイリッシュではなく、ロックスターらしい振る舞いが似合わない。むしろみっともなさすぎて愛すべき存在となり、じわじわと時間をかけて「お茶の間のロックンロール・バンド」になりつつある今の彼ら。Zepp DiverCityの広さを満喫しながら「ほんとゆっくり、ゆっくり、やーっとここまで来た!」と破顔する柴田と梅津を見ながら、幸せなバンドだなと思った。2人はいま35歳。次は来年4月の日比谷野外音楽堂が発表されたが、その次の次の、さらに大きなステージを目指し、バンドワゴンは果てしなく続いていく。


(石井恵梨子)