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『ジェイソン・ボーン』はどう生まれ変わった? リアリズムを深化させた脚本と映像

2016年10月12日 12:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Universal Pictures

 アメリカ同時多発テロの衝撃から間もない2002年、世界が緊迫した状況のなか公開されたスパイ映画『ボーン・アイデンティティー』から始まる「ボーン・シリーズ」は、いくつかの斬新な試みによって、アクション映画に画期的な変化を与えた作品として知られる。


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 『ボーン・アイデンティティー』の魅力の柱となるのが、アクションのリアリズムである。実際にアメリカ軍や警察で用いられている、フィリピンの格闘術を源流とする素手やナイフによる殺傷力の高い攻防、ライフルによる殺し屋同士の遠距離での戦闘描写など、その「非映画的」ともいえる迫真的で殺伐とした活劇が、当時はかなり新鮮だった。さらに、記憶喪失になった最強のCIA暗殺者という、荒唐無稽なキャラクターを演じるのが、ハーバード大学の入学経験があり、20代でアカデミー脚本賞を受賞した天才的な頭脳を持った俳優マット・デイモンであったというのも、ある種リアリティを裏付けることになった。そして「隣のかっこいいお兄さん」といった風情のロマンティック過ぎない外見も、また見事に作品にフィットしたといえるだろう。


 「ボーン・シリーズ」が飛躍的な発展を遂げたのが、2作目『ボーン・スプレマシー』だ。ここでは、前作から継続されるリアリズム表現に重ねるかたちで、実験的とまでいえる、あまりにも素早いカット割りと、目まぐるしく移動し揺れ続けるカメラのドキュメンタリー風のはたらきによって、アクション表現を従来の映画とは異なる境地に突入させてしまった。そして、スパイ映画の本家たる「007シリーズ」(『カジノ・ロワイヤル』や『慰めの報酬』)、「96時間シリーズ」など、その後の娯楽活劇の大きなひとつの方向性を指し示したのである。これによって「ボーン・シリーズ」は実質的に、主演のマット・デイモンと、2作目から演出を手がけたポール・グリーングラス監督のものとなったのだ。


 この特徴的な、せわしないカメラの動きというのは、一部の観客に拒否反応を与えているというのは事実だろう。CIAとボーンとの終わらないハイレベルな「鬼ごっこ」を、カメラの動きによって、実際以上に深刻なものに見せかけているということのばかばかしさが存在するのも確かである。監督が指揮するカメラマンたちは、いつでも無意味に上体を揺らしたりしながら撮影しているのだ。例えば、マイケル・ベイ監督の『トランスフォーマー』が、「ただガチャガチャした見にくい映像」だと評価してしまう観客が多いように、これらは「見やすく整理された映像」を好む価値観においては除外されてしまう手法なのである。


 絵画史のなかに「フォーヴィスム(野獣派)」という流れがある。これは、20世紀のはじめに流行していた、強烈なタッチと色彩を持つ作品を見た批評家が、「まるでフォーヴ(野獣の檻)のなかに閉じ込められたようだ」と表現したことから始まる。このような絵画と対峙するとき、今まで檻の外から野獣を受動的に眺めていた鑑賞者は、作品に巻き込まれ能動的に作品に参加せざるを得なくなった。


 人間の視認の限界に迫ろうとするグリーングラス監督の試みは、一種の「挑戦」を観客に投げかけているといえる。だから観客の側も野獣の檻に入るように、積極的に視認しようという意志を持つことを迫られる。従来の受動的な楽しみ方を期待する観客にとって、それが不快なものとして映るというのは、当然といえば当然であろう。


 主人公の名前をそのまま引用した本作『ジェイソン・ボーン』では、その取り組みがさらに深化する。それは、本作のアクションの多くが「夜間撮影」になったということに尽きる。そこには、多くのハリウッド映画のようにたくさんの照明を駆使した「昼間のような夜」ではなく、「ボーン・シリーズ」のリアリティにふさわしい闇と陰影がある。暗い場所で映像を撮影したことがある人には分かるだろうが、照明を抑えカメラを動かしながら、最低限のクォリティーを保ち続けるということは非常に難しい。本作は、『グリーン・ゾーン』でも見事な夜間のアクション撮影を行ったバリー・アクロイドが中心となり、今までのように尋常ではないカメラの動きを暗闇のなかで行おうとする。ときに手持ち撮影で、ときに途方もない大がかりな可動式クレーンを利用して、彼らはさらに視認の限界に挑戦し、ときに能動的に映像を追う観客さえをも置き去りにする。この視認の可否のエッヂの上をふらふらし続ける映像を追う体験は、まさに「恍惚」である。


 本作が深化したのは、映像面だけではない。「ボーン・シリーズ」は、これまでの3部作ですでに完結している。ここに似たような物語を付け足すだけでは、ただの蛇足になってしまうだろう。だから主演のマット・デイモンは、納得できるような脚本が出来なければ出演はしないと発言してきた。そうして『ボーン・アルティメイタム』から9年経ち、自身がアカデミー脚本賞を受賞している彼が、もう一度ジェイソン・ボーンを演じたという事実は、その価値のある脚本が書きあがったということを意味している。


 かなり改変されているとはいえ、『ボーン・アルティメイタム』までは80年代に書かれたロバート・ラドラムによる原作があった。だからブライアン・ヘルゲランドなどの名脚本家の手腕を持ってしても、急進的な映像表現に対して、物語自体は基本的にクラシカルなものを背負い、現実とのリンクも薄かった。しかし本作では、「ボーンとは何か」という問いを考え抜き、今までのシリーズの要素を、もう一度組み直して新しい解釈に落とし込んでいる。そして本作は答えにたどり着いた。だからタイトルが『ジェイソン・ボーン』なのである。


 ボーンが戦うのは何故か。CIAが彼を追い殺そうとするのは何故か。それは真実という名の「情報」を得るためであり、知られたくない「情報」を隠ぺいするためである。経済や軍事、国防においても、また個人においても、現代社会のなかでは「情報」こそが最も重要なものとなってきている。インターネットの発生や、PCや携帯端末の普及、そして世界的なソーシャル・サービスの出現は、情報という意味において社会を劇的に変貌させていることは言うまでもない。本作でも名前が挙がるように、エドワード・スノーデンやジュリアン・アサンジという人物が、インターネットを媒介して政府の機密情報を一気に世界に拡散するという事態も起きた。


 いままで国家が独占してきた情報が、一般の市民に行き渡っていくという状況は、まさに一種の「市民革命」といえるかもしれない。だが、この状況は一方で、さらなる国家の支配という可能性をも生んだ。インターネットの発達によって出現した、国家をはるかに超える規模の個人情報を扱う民間企業を、政府が秘密裏に取り込むことによって、事実上、世界中の情報の監視が可能になるのである。そして、それはすでに行われているのかもしれない。


 本作では、「情報」による社会の劇的変化を背景に、「情報」を奪おうとするボーンが活躍する。そこには、かつてないダイナミズムがある。ジェイソン・ボーンが物語を飛び出して、現実の社会のなかに、はじめて血肉をともなって現れたのである。


 もうひとつ、本作に組み込まれているのが、CIAのなかの「古い世代と新しい世代」という対立軸である。ジョージ・ブッシュが「衝撃と畏怖」と称したイラク空爆のように、彼らが敵とみなした勢力を、ただ力でねじ伏せようとするやり方が限界に達していることは、かたちを変え続けるイスラム系の過激組織によるテロ事件がいまも絶えないことからも明らかだ。まさに『ノーカントリー』での演技によって「古い世代」を体現したトミー・リー・ジョーンズが、ここでも旧勢力を演じ直しているのは象徴的である。


 人間はみな、できれば正しい道を歩み、筋を通した生き方をしたいと望む。だが現実の社会に生きる我々は、ときにその理想を曲げなければならないこともある。権力が歪んでいれば、それに付き従う者も同様に歪まなければならないからだ。筋を通し抜くためには、誰にも寄りかからず、自分の頭と肉体だけを頼りに生きていくしかない。身体に傷とアザを作りながら、地下ファイターとして裏社会の生活を余儀なくされるジェイソン・ボーンは、まさにそういう存在である。反骨精神を鼓舞する、その血だらけの姿は、我々一人ひとりのなかにいる理想の自分の姿でもある。本作は、観客自身が彼の後ろ姿に自分を重ね「自分こそジェイソン・ボーンだ」と思いたくなる映画になったのだ。(小野寺系(k.onodera))