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上野樹里の真髄は“ながら演技”にあり 『お父さんと伊藤さん』が描く日常の断面

2016年10月11日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)中澤日菜子・講談社/2016映画「お父さんと伊藤さん」製作委員会

 上野樹里というひとは、おそらく演技派として認識されていると思う。言わずと知れた『のだめカンタービレ』では日本では稀有なコメディエンヌとしての実力を発揮し、性同一障害のモトクロスレーサーを体現した『ラスト・フレンズ』では絶賛された。硬軟いずれにも対応できる柔軟性には特筆すべきものがある。


参考:上野樹里、“20歳差の恋愛”を成立させた眼差し 『お父さんと伊藤さん』が描く新たな家族のカタチ


 だが、演じ手としての彼女の魅力は本来、硬軟いずれにも傾かない人間のグレーな領域の、微細なグラデーションにかたちを与えることにあった。今年放映された香取慎吾との共演ドラマ『家族ノカタチ』は、その事実を想起させた。


 お気に入り文具メーカーへの愛情転じてクレーマーと化しているバツイチOL。ある秘密を抱えたまま、それでも、あくまでも平凡な日々を送ろうとする彼女は、必ずしも前向きなわけではないが、事態に流されているわけでもない。つまりは、能動にも受動にも取り込まれない生き方に、ひそやかなリアリティがあった。


 働きかけと、受容。人は、己の人生をなんとかしようとする一方、どこかでそのすべてが叶うわけではないことを知っており、ある種の諦めと共に、物事を受け入れている。そして、この、受け入れる、という行為の果てに、他人との関わり合いも、なんとか肯定している。


 上野の芝居が伝えてくれるのは、たとえば、そんな真実だ。人は、能動と受動を切り替えながら生きているわけではなく、あるときは能動の中に受動を見い出しながら、あるときは受動の中に能動を発見しながら、つまりは能動と受動を反転させ混濁させながら、日々を転げ回っている。


 最新主演映画『お父さんと伊藤さん』でも、ヒロインの人生をすっとスライスし、そんな断面をさり気なく提示している。


 20歳年上の彼=伊藤さんと同棲している34歳の彩のアパートに、彩の兄一家に厄介になっていた74歳のお父さんが居候することになる。そうして、綺麗に20歳差のトライアングルな人間模様が展開する。


 わだかまりのある父と娘のあいだに、伊藤さんは柔軟剤のように存在し、両者を取り持つ。


 伊藤さんを演じるリリー・フランキーは、いつものようにキャラクターの主語に頼らない卓越した演技を見せている。伊藤さんは、リリーがこれまで多くの映画で演じてきた人物たち同様、何を考えているのかわからない。何を考えているかわからない人物ほど、際限なく優しくなれるし、一方で、どこまでも怖くもなる。天使と悪魔、いずれも表現できるであろうリリーの演技マナーは、何も考えないことにあるのだと、上野とのやり取りから、あらためて気づかされた。考えてみれば、天使の主語も、悪魔の主語も、そんなものがあると思った瞬間、天使も悪魔も存在そのものが嘘くさくなる。


 では、上野樹里は、ここで人生の断面をどんなふうに演じているか。
 
 端的に言おう。


 上野は、常に、何かをしながら、演じている。ながら演技。これこそが、上野の独壇場なのではないか。


 異形に見えて、その実シンプルなホームドラマである本作には食事シーンがたんまりある。大切な話はほとんど人物が何かを食べながらなされていると言ってもいい。食事だけではない。たとえば、彩が柿の皮をむきながら、伊藤さんと肝心な話をするというくだりもある。


 とりわけ、印象的なのは、彩が、東京・銀座、資生堂パーラーのサロン・ド・カフェで、兄から父親のことを託される場面だ。彼女は瀟洒な苺パフェを食べながら、兄からの申し出を拒否する。やんわりと。パフェのクリームのように。


 何かをしながらの演技は別に珍しいことではない。多くの作品に、そのような場面はあるし、役者によっては、何かをしながらのほうが台詞が言いやすいと証言する者もいる。


 だが、このシーンの上野は、パフェを食べることで、芝居という場のリズムを形成しているというより、彩という人物の心象、もっと言えば、内面的な状態をトレースしているように思える。


 パフェの食べ方に、彩のクセのようなものを植え付けるわけではない。


 答えに窮するような、困ったシチュエーションでこそ、人は目の前のパフェをきちんと食べたりするのだという真実が、そこではあからさまになっている。


 もちろん、それは、このような場を設定した監督タナダユキの采配の賜物でもあるだろう。だが、上野のパフェの扱いは、監督の演出の領域を超えた次元でおこなわれているのではないか。


 上野の所作が、結果的に映し出すのは、人は、複数の日常の中で綱渡りをしているという事実だ。


 兄と待ち合わせして、深刻な相談を受けることも日常なら、パフェをオーダーして、それを完食することも日常。上野の演技を見つめていると、わたしたちの人生には、非日常などというものはなく、すべては複数の日常の交錯にすぎないのではないかという感慨に耽りたくもなる。


 兄の話を聞きながら、それに答えながら、パフェをすくい、それを食べること。


 それぞれは別個のことでありながら、人はその別々の日常を、ほとんど無意識のまま綱渡りして、その人固有の日常を作り上げている。


 単一の日常なんてありえない。いくつかの日常を、わたしたちはつなげ、重ね合わせながら、新しい日常を更新させている。


 上野樹里は、ながら演技をスムーズに駆動させることで、人間のグレーな領域の、微細なグラデーションにかたちを与えている。


(相田冬二)