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ダースレイダーの『高慢と偏見とゾンビ』評:恋愛小説 × ゾンビのマッシュアップやいかに?

2016年10月10日 12:51  リアルサウンド

リアルサウンド

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『高慢と偏見』という恋愛小説のバイブルとも称されるジェイン・オースティンによる長編をもとにセス・グレアム=スミスが大胆なマッシュアップを施したコメディー作品、『高慢と偏見とゾンビ』を原作とした映画である。この時点でクイクイっとツイストが数回入っているので、軸足がどこに置かれているのかにまず興味を引かれる作品です。原作ファンなのか? マッシュアップ版のファンなのか? ゾンビ映画ファンなのか? 全ての入門編として観てみたいのか? ちなみに制作のナタリー・ポートマンは『高慢と偏見とゾンビ』の熱烈なファン。言われてみると主演のリリー・ジェイムスにはナタリー・ポートマン的なシュッとした雰囲気があります。


参考:漢&ダースレイダーが語る、日米ヒップホップ・ビジネスの違い


 マッシュアップという手法に求められるのは、文脈だったり関連性を一見無視した投げ込みが生む新たな価値だと言えます。この新たな価値には、笑いや恐怖、気づきなど色々あると思いますが、原作がもっていた「隠れた」可能性を引き出す場合もあれば、全く原作者が意図していないハプニングが発生する場合もあるでしょう。いずれの反応を引き出すにも、勢いが大事だと思います。大きいエネルギーをドン!とぶつけることによって、どんな反応が生まれるのか? 細かく見ていくと(場合によっては丸見えな時もありますが)齟齬が生じる面があったとしても、とにかく瞬間風速が上がっている、エネルギー量が増大している。そこが肝心です。そういった意味で、投げつけるブツとしての「ゾンビ」はなかなかのエネルギーを持っています。


 「ゾンビ」とは何か? 簡単に言うと蘇った死者です。ここで詳述はしませんが、映画におけるゾンビはジョージ・A・ロメロ監督による『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68年)を起点として、『ゾンビ』(78年)、『死霊のえじき』(85年)と続いていくシリーズがまず大きな主軸。ロメロ監督はその時々の社会情勢をゾンビに投影していますが、後続作品はゾンビ自体のおぞましさや恐怖を増幅させたものや、“生と死”というテーマに焦点を当てたものなど多様性に富んでいます。


 エドガー・ライト監督による『ショーン・オブ・ザ・デッド』(04年)はこうしたゾンビ映画の系譜を巧みに織り込んだ最高のコメディー。佐藤信介監督『アイアムアヒーロー』(16年)は日本を舞台にしたゾンビ漫画の映画化ですが、ゾンビ一体づつの造形など最先端のゾンビを大量に見せてくれる大変楽しい作品です。ドラマ・シリーズ『ウォーキング・デッド』も大ヒットしていて、現在もゾンビを巡る状況は賑やか。その理由はいろいろあると思いますが、一つ確かなのは、ゾンビには解釈の余地が大きくあることです。では、今作のゾンビ解釈はいかがなものか?


 小説版『高慢と偏見とゾンビ』はコメディーと割り切っているのですが、実写となるとまた勝手が違います。バー・ステアーズ監督は「『高慢と偏見』とゾンビジャンルの両方に真面目で率直な敬意を表すトーンが必要」と語りますが、エネルギーの衝突を生むべきマッシュアップ作品へのアプローチとしてはかなり大人しい態度です。長編小説の実写化だけでも尺などの課題が多いのですが、そこにゾンビも入れて、両方に敬意を表した結果、原作を語る部分は、手紙の万能感がやたらと強調されてしまうなど、かなり駆け足になり、ゾンビは結局監督自身が「トッピングのようなもの」(でも、そのトッピング、腐ってますよ!)と語る程度の存在感に収まっています。


 ゾンビの解釈はちら見せにとどまり、あまり恐怖感を描かなかったために、ゾンビに襲われるという状況への絶望感が希薄です。とはいえ、主人公姉妹が武装してパーティーに行くシーンや、主人公姉妹が隊列を組んでゾンビを切り捨てるシーン、死肉を好むハエなど楽しい場面もあります。グロ描写も少ないのでカップルの休日ランチの前や原作『高慢と偏見』およびゾンビの入門編として観賞するのが良いと思います。(ダースレイダー)