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菊地成孔の『隻眼の虎』評:おそらく同じソフトによって『レヴェナント』のヒグマと全く同じ動きをする朝鮮虎

2016年10月09日 18:11  リアルサウンド

リアルサウンド

リアルサウンド映画部

■蛸壺とうとうヒビ、入りました(「オレの努力の甲斐あって」じゃないけどね、全然・笑)


 お陰様で当連載もそろそろ10回目を数えるに至り、当初の予定では、アルファベットを公用語に使わない国の映画なら、ロシアでもインドネシアでもエジプトでも扱うつもりだったのだが、結果として「韓国映画と日本映画」の連載となった。そのこと自体は、今後変わっても良いし、また、変わらなくても良いのだが、「韓国映画」の現状の蛸壺ぶりは、K-POPやK-TVドラマの大ペンでさえ、「韓国映画」は観ない(逆もまた真なり)、といった極端さの中にあり、『シン・ゴジラ』と比して、、、、とまで言うつもりは無いが、「同一作品が複数レヴュワーに批評される」という事は、一度も起こっていない。


 故・川勝正幸氏らの尽力により「日本でも、香港映画並みに、韓国映画が消費されるようになる」可能性を秘めていた(つまり『シュリ』で始まり『グエムル-漢江の怪物-』、そして韓国映画ではないが『空気人形』でピークを迎える)、K-MOVIE(「韓国映画」に非ず)勃興期と比べれば、現在の「韓国映画」の消費のされ方は完全に蛸壺の中に押しとどめられ、それは少女時代もKARAも第一線でなくなってからも、ヒットチャート上位に常にK-POPアイドルグループが堂々とランキングしているアイドル界の現状と比べても、不甲斐ないとも、純化されたとも言える状況である。


 しかし、とうとう、本作によって「複数レビュワー」の実現が成し遂げられたことは記念すべきことであろう(参考:『隻眼の虎』と『レヴェナント』、その共通点と違いとは? 韓国ノワール旗手の特異な世界)。過去扱ってきた『インサイダーズ/内部者たち』や『技術者たち』、前回の『暗殺』と比べて、映画としての面白さや興収が、どれだけ高く見積もっても、大きく劣るとしか言えない、非常にストレートに言うと「大して面白くない作品」が、この快挙を達成したのは何故か?


■本当に『レヴェナント』と類似しているか?(正解⇨しているともしていないとも言える)


 それは、本作の主人公である「虎」が、かの『レヴェナント: 蘇えりし者』のヒグマと、全く同じ動きをするから。ただただその一点のみである。


 先行レヴュワーは、この「動き方が一緒」を契機に、「つぶさに観れば内容も似ている」とする論調だが、筆者は若干立場を異にする。


 『レヴェナント』と『隻眼の虎』の共通点は「野生の巨大な動物が、人間を襲う」シーンの画面構成と、方や、ヒグマ、片や朝鮮虎という違いこそあれ、「非常に恐ろしい、馬鹿でかい野生動物が、一人の人間を襲う」というビジュアルにニュールックをもたらした、その一点以外、一切何もない。「あるソフトが開発され、高い効果を上げると、猫も杓子もそのソフトを使う」というトレンド効果は、音楽の世界では既に70年代から前提的なまでに定着している事実だが、映画におけるあらゆるVSFで、「ああ、動物が人間と連動して、こうやって動くソフトが出たんだな」と判断される事は、少なくとも音楽と比べた時に、非常に少ないか、或いは全くなく、そういう事をするのはVSXオタクであって、一般の観客は、未だに映画批評の手法にストーリー主義を漠然と採用していると言えるだろう(念のために断っておくが、筆者はその事に一切の憂慮はない。先行例である音楽界における「ああこれオートチューンね」「ああこれ元ネタあれね」といった一種のオタク・ニヒリズムの功罪は、コンマ数ミリ差で、罪の方が大きい、と筆者は考えている)。


 『レヴェナント』におけるヒグマは、主人公の、狂気の復讐、その狂気ぶりを強調するための単なるワンショットであり、『地獄の黙示録』の虎が、実際にマーティン・シーンに襲いかかって、半死状態にした。といった感じで、映画自体のテーマは、大雑把に言えば「人間対人間の復讐戦、その虚しさと凄まじさを大自然(雪山)の中で描く」というもので、敢えてこじつければ『ヘイトフル・エイト』に近い。

 のに対し、本作のそれは「人間対自然(文明対天然、人対神)の戦い、その虚しさと、崇高さ大自然(雪山)の中で描く」というもので、敢えてこじつければ『もののけ姫』に近い。『ヘイトフル・エイト』と『もののけ姫』ではテーマ性から何から、だいぶ違うだろう、とまでは言わない(こじつけの結果であるし)までも、少なくとも物語に於いて、両者の共通点は「主人公の愛息子が殺される」以外、象徴的にも具体的にも、一切何もない。


■とはいえ絵がね(デジタルVFS時代の弊害)


 映画の眼目は、娯楽寄りであろうと、アート寄りであろうと、物語の構造ではない。「絵のもたらす触発作用」は、時に物語など吹き飛ばす可能性を秘めている。筆者が憂慮するのは、「新しい絵造り」が、コンピューター頼りになり、先行した音楽界のように、「ああ、これ、あれと同じエフェクツだな。同じソフトだろ」というオタク・ニヒリズムの浸透がもたらされるという事態に対してである。情報解析力のエリートであるオタクは、『レヴェナント』と本作のみならず、そこに『ジャングル・ブック』も併記するかも知れない。


 現に筆者も『暗殺』では「本作と絵的に最も似ているのは『ALWAYS三丁目の夕日』である」と指摘している。<凄まじい速度で人に喰いついては、数メートルも吹き飛ばす虎や熊のリアルとアンリアルの境界にある(「やっぱ本物の熊ってこれぐらいやるよな。ヤベー超こえー」VS「あんなことされたら、最初の一発で失神もしくは即死だろうよ。あんなんある筈ないだろ」に引き裂かれる)暴虐、顔面崩落寸前の損傷を忠実に再現する特殊メイク、20世紀初頭という時代設定によって規定された武器と服装で入山する人々>という<絵>のインパクトに依って、『レヴェナント』と『隻眼の虎』は<かなり似ている>と断ずる者を、石もて打つことは出来ない。


■ついに出た。「日本人有名俳優による<日帝時代>の再現」


 と、そんな事より、当連載的にとって本作は、かなり重要なトピックを持つ。

 それは(特にレビュー前作『暗殺』を参照されたし)「日帝時代を、ちゃんと日本人俳優を使って描くこと」であり、ひいては「日本人のネイティヴ日本語、日帝に組した朝鮮人のカタコト日本語」の差をしっかり描くこと。である。

 今回、ほとんど特別出演枠とさえ言える、日帝の「閣下」(軍位も姓名も劇中には出ず)を演ずるのは我らが大杉漣である。大杉の演技については後述するが、うがった見方をすれば、聖山である舞台の智里山は、大杉演ずる「閣下」の管轄地区内にあるだけに関わらず、作品には智里山しか描かれない。


 つまり、ここでの日帝軍は、アンデルセン童話『雪の女王』やレリゴーこと『アナと雪の女王』にも似て、雪によって閉ざされた空間での、おとぎ話の悪役であって、生臭い政治性は脱臭されているのであり、だからこその「韓国で人気の日本人俳優の、リスペクト特出」だと断じても良いだろう(同じく、前回『暗殺』をご参照いただきたい)。


■「韓国で人気の」俳優たち


 今やデリケートを超え、超デリケートな領域にある問題なので、「他意や憶測は一切ないが」とするが、「韓国で人気の俳優たち(因みに「音楽家たち」も)」は存在する。


 オダギリジョーと窪塚洋介だったら、圧倒的にオダギリである。妻夫木聡と伊勢谷友介だったら、圧倒的に妻夫木である。加瀬亮と星野源だったら、圧倒的に加瀬である。蒼井優と宮崎あおいだったら、圧倒的に蒼井である。理由は多義的だろうが(岩井俊二の人気が高いとか、実際に韓国映画に出ているとか)、そして、こうした明示されているラインナップと別に、どうやら大杉漣は、韓国の監督や共演俳優たちによって、非常にリスペクトされていると、プレスシートは伝えている。


■だが残念(何故だ?)


 せっかく「漫画のようなナチス・ドイツ」と同格にある、ここでの「名前も軍位も明確ではない、日帝の「閣下」」は、あらゆる力学によって、怪演を求められている。大杉漣にとって、怪演は、否、珍演さえも決してリミットオーヴァージョブではない。


 何せ、物語を動かす、つまり「虎を殺さずにはいられない」原動力は、「聖なる山で、聖なる<大虎(←原題、筆者の個人的なセンスでは、僅差で原題のが良かった)>を退治するために、あらゆる根拠(復讐心や、聖なるものへの畏敬、金や地位、等々)を持って何年間も行動を共にしている猟師たち」が50%、残る50%が「虎の剥製にフェティッシュがあり、自然との戦いに、軍事力が破れるはずがないと信ずる、狂気の<閣下の鶴の一声>」なのである。カリカチュアライズされたキチガイぶりが、非常に地味でスローな本作のスパイスや活力源になるのは言うまでもない。


 猟師役の、K-MOVIEでもK-TVドラマでもお馴染の俳優陣による演技はすべて的確であって、最高の誉め言葉でもあり、脇役俳優の最低限のミッションでもあるように、本物の猟師にしか見えない。


 しかし、肝心要の大杉漣が、抑えた演技プランを立ててしまったか、自分なりに狂気を表現したつもりか、なんだかんだで韓国の現場は難しいか(ビッグリスペクトされつつも、やはり現場の水が違う。といったような)、全く狂気の人、に見えない。「そんな役じゃないんだよ」ではないのである「そんな役なのによ」なのである。


 大杉一人を責めるのはお門違いだろうが、画竜点睛に欠く、とはこの事である。ディカプリオとトム・ハーディの如き、凄絶な演技合戦が、大杉と、主演の(非常に抑えた演技が成功している)チェ・ミンシクの間でも火花と共に演ぜられれば、本作は、もう何歩も『レヴェナント』に似ている。と断言できる位置にまで来るだろう。


 主演の名優チェ・ミンシク、傑作Kノワール『新しき世界』の監督であるパク・フンジョンの力量と尽力については一切書かない。これは、本作が、当連載で過去に扱ってきた『技術者たち』『内部者たち』『暗殺』等の傑作に比べると、シリアスではあるが冗長で、深淵ぶっているが、大した中身のない、そして、肝心要の「漫画の悪役=日帝」が大暴れしない、要するに「さほど面白くない」作品なのに、『レヴェナント』との表層の相似だけでリアルサウンド韓国映画初複数レビューを成し遂げた。という、絵に描いたようなハイプに対する、筆者からのペナルティである。警告する。「見るな」とは決して言わない。『技術者たち』『内部者たち』『暗殺』を見てからにしてほしい。というのが、筆者のすがりつくような願いである。(菊地成孔)