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山下敦弘と李相日の“奇妙な一致”ーー両監督の15年から探る、日本映画の分岐点(後編)

2016年10月07日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『オーバー・フェンス』(c)2016「オーバー・フェンス」製作委員会

 山下敦弘と李相日が監督デビューした2001年、その後の青春映画の流れを大きく変えるエポックメイキングな作品が公開された。矢口史靖が監督した『ウォーターボーイズ』である。東宝洋画系チェーンで東宝作品としてはこじんまりと封切られたこの作品は、しかし日比谷シャンテ・シネで13週間にわたるロングランを記録するなど、関係者の予測を大きく上回るヒット作となる。男子シンクロナイズドスイミングのようなマイナー競技に光を当てる、『シコふんじゃった。』『Shall we ダンス?』などで培われてきた製作会社アルタミラピクチャーズの手法。そして役者たちが実際に習得した集団パフォーマンスをクライマックスに置く構成と演出は、これ以降青春映画の新たな定型になっていく。例えば李の『フラガール』が、タイトルといいクライマックスの演出といい、明らかに『ウォーターボーイズ』の影響下にあるといった具合に。


参考:山下敦弘と李相日の“奇妙な一致”ーー両監督の15年から探る、日本映画の分岐点(前編)


 初主演したこの映画をきっかけに人気を集め、00年代以降の日本映画で存在感を増していったのが妻夫木聡だ。03年『ジョゼと虎と魚たち』のような作家的作品から07年『どろろ』のようなアクション娯楽作品まで、両極を柔軟に行き来し、なおかつヒットを生みだしてきた彼が、山下と李にとって数年ぶりの長編監督作『マイ・バック・ページ』『悪人』で主演を飾ることになる。


 妻夫木と李が『69 sixty nine』以来、二度目の顔合わせを果たした『悪人』は10年に公開された。原作は吉田修一が初めて新聞に連載した長編小説。朝日新聞での連載中にその題名を見た東宝のプロデューサー、仁平知世は「この小説を映画にしたらきっと人の記憶に残るものになる」と感じ、映画化に乗り出した。ところがすんなりと企画が通ったわけではないらしい。単行本として刊行された後に原作を読み、「この主人公を絶対にやりたい」と考えた妻夫木がみずから映画化権の所在を探りだしたところ、東宝がすでに取得していた。だが――。


「僕のほうは「もう東宝が権利を持っているらしい」と聞いて「ああ、無理だな」と思っていたら、すぐに東宝から連絡があって「出演すると確証してもらえますか?」と聞かれて。「話が重いから企画が通らない。確実に主演をやるって確証をもらえるなら、再度企画を出したいということでした。「どうしてもやりたいです」って即答したら、企画が通って」


 難航していた企画を前へ進めたのは、30歳の節目を目前に控え、新たな役柄に挑みたいと考えていた妻夫木のアクションだった。そして『悪人』は妻夫木だけでなく、李にとっても新たな挑戦となる。デビュー以来、他者や世界への違和感を青春映画のかたちで表現してきた李は、『フラガール』を経て、『悪人』で人間の内面を深く探求することに関心を示しはじめる。それは彼自身のモチベーションの変化と、同時に原作との出会いが大きかったのだろう。


「人間誰もが持ち合わせる複雑さを多層的に描かれるので(中略)、もっと自分の目で探りたいと思わせてくれるんです」
「吉田さんの小説には、すごく分かると同時に、なぜ今まで気づかなかったんだろうという感覚が常にあります」


 これは『怒り』を撮り終えたあとの李による吉田作品評だが、吉田の小説が触媒になって、李がより大きな視座を獲得していったことがよくわかる。ちなみに吉田作品はまず『7月24日通りのクリスマス』が06年に映画化され、『悪人』と同年には『パレード』が行定勲の手によって映画化された。その後、『横道世之介』『さよなら渓谷』とつづけて映画になり、高い評価を受けることになったのは、現代的なテーマや魅力的な登場人物、その描き方の多層性などをそなえた原作そのものの力も大きい。


 11年『マイ・バック・ページ』も山下の新たな挑戦だった。原作は評論家の川本三郎が雑誌記者だった全共闘時代を振り返るルポルタージュ。山下が描いてきた日常の平坦な物語とは異なる、劇的な時代の実話が素材だ。


「今回は下手な小細工は通用しない世界だと思いました。斜に構えたりできないと思ったので、バカ正直に作品と向き合った気がします。だから、イライラしたし、見失いそうになった時もあったし、重かったです」


 みずからこう話すように、山下はそれまでの世界とかけ離れた題材に、作品の完成後も戸惑いを隠さなかった。でも原作に登場する『ファイブ・イージー・ピーセス』や『真夜中のカーボーイ』といった、もともと彼が好きだったアメリカン・ニューシネマを入口にして、そこに自分の気持ちを重ね得る要素を見出していった。そのひとつが、妻夫木扮する雑誌記者の沢田と、忽那汐里扮する表紙モデルの眞子との会話に反映されている。沢田は眞子とふたりで映画館へ行き、公開中の『ファイブ・イージー・ピーセス』を観たあと、彼女に「どこがよかった?」と尋ねる。すると彼女は答える。


「ジャック・ニコルソンが泣くところ。わたしはきちんと泣ける男の人が好き」


 その一言がラストで見せる沢田の泣き顔につながっていく。デビュー以来、ささやかな感情の機微をとらえてきた山下にとって、これは彼が初めて映画に刻んだほろ苦い涙だった。そして現在の視点で振り返れば、その涙は『怒り』で妻夫木が流す涙にも、『オーバー・フェンス』でオダギリジョーがむせび泣く涙にも、どこかオーバーラップして見える。


 08年のリーマン・ショック以降、日本映画の二極化は進み、映画の多様性を担保してきたメジャーとインディペンデントの中間層が崩落していく。10年、その中間層の映画製作を担っていたシネカノンが経営破綻。一方、同じ10年に過去最高となる748億円の興収を記録したのがメジャー最大手の東宝である。もちろんこの数字は偶然の産物ではない。01年『千と千尋の神隠し』が304億円という歴代最高興収を上げたのを契機に、東宝は映画環境の変化をとらえた、いくつかの施策を打ちだしていた。最たるものは03年、ヴァージンシネマズの買収とTOHOシネマズへの転換だろう。


 そもそも東宝は、阪急グループの創業者である小林一三が、東京における演劇・映画の興行を主目的に設立した1932年の東京宝塚劇場をルーツにしている。その後、東宝は50年代に百館主義を掲げ、全国の一等地に100館の映画館を建設し、強力な興行チェーンを確立していった。「興行の東宝」と言われるゆえんだ。そんな東宝がシネコン時代の興行も牽引していく。映画館の85%をシネコンが占める現在、TOHOシネマズは700に迫るスクリーン数を有している。


 そういった巨大な興行網を背景に、東宝は配給で他を圧倒し、翻って製作でも独自の力を発揮するようになる。東宝が過去最高の興収をあげた10年は、『THE LAST MESSAGE 海猿』『踊る大捜査線THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ』などのテレビ局作品、『借りぐらしのアリエッティ』に代表されるアニメ作品が大きなヒットを生むなか、自社製作作品からも異色のヒット作品が誕生した。李の『悪人』と中島哲也が監督した『告白』である。


 異常犯罪を通して人間の暗部に迫るこのふたつの作品は、大規模な公開を義務づけられた東宝作品であればこそ、なおさら高いリスクをともなったはずだ。実際、『悪人』の映画化をめぐる経緯はそのような企画の困難さを教えてくれる。しかし結果として、『悪人』は19.8億、R18指定された『告白』にいたっては、この年の国内実写作品4位となる38.5億の興収を記録。01年に東宝に入社し、ふたつの作品にプロデュースで関わった川村元気は、この年、著しい功績をあげた映画製作者に贈られる藤本賞を史上最年少で受賞している。


 おそらくこれらの製作が実現したのは、TOHOシネマズの誕生と同時期に打ちだされた、また別の施策の影響も大きい。03年、東宝は東宝スタジオに41年ぶりとなる新たな特大ステージを完成させ、テクノロジーの進化に見合う大規模なスタジオ改造計画に着手した。竣工は10年。


「生まれ変わった東宝スタジオ。それは、この新しい時代に、東宝が再び映像製作に力を注いでいくことを内外に“宣言”するものであり、また、映像製作の一大拠点を築こうとする強い意思の表れなのです」
「いまや「映画」は、良質な作品であればそれだけ長期間にわたって利益を生み続ける息の長い商品であり、「生もの」と呼ばれた時代は過去のものとなりました」
「とすれば「コンテンツの権利確保」が何より大切になってきます。東宝が自社制作(原文ママ)体制を強化し、製作出資も活発に行っているのは、“コンテンツホルダーの時代”に勝ち残るためなのです」


 東宝は公式サイトにこう記している。00年代に興行の揺るぎない基盤を確立した東宝は、13年『永遠の0』で87.6億という自社製作作品の興収記録を打ちたて、新しい製作の時代のはじまりを宣言した。今年話題を集めた『アイアムアヒーロー』『シン・ゴジラ』といった東宝製作作品は、そのような自社製作体制を強化する流れのなかに位置づけられるものだ。もちろん、李が再び吉田原作の映画化に取り組み、川村がプロデュースを手がけた『怒り』も。


 今年、『怒り』や『君の名は。』『何者』を手がけている川村は、自身のプロデュースに対する考えを次のように話している。


「僕が考えるプロデュース力とは、コンセプトを決めること、そして撮影や音楽などクリエイターの組み合せを作ること」
「僕も自分で組み合せ作りを行っていて、例えば『バクマン。』ならサカナクションに音楽をやってもらうとか、VFXをパートごと4チームに分けてやってもらうとか、そういうことを考えました」


 特に近年、彼のプロデュース作品では音楽が際立つ。『怒り』の坂本龍一、『君の名は。』のRADWIMPS、『何者』の中田ヤスタカ。映画畑の人材にこだわらず、業種の垣根を越えたスタッフィングを行うことによって、彼は日本映画に新しい活力を注入しようとしているように思える。


 『怒り』が強く胸に迫ってくる理由のひとつは、これが“何者でもない者”たちのドラマだからだ。誰からも愛されたことのない女、ゲイであることをひた隠しにする男、見知らぬ土地で苦痛にあえぐ少女、そして彼らの前に現れる正体不明の男たち。社会の周縁で息を殺して生きるマイノリティーの姿をとらえるとき、李の筆致はとりわけ力強い。考えてみれば、朝鮮高校に通う男子生徒の葛藤を描いたデビュー作『青 chong』以来、ずっとそうだった。李の目線はそういった何者でもない者たちと同じ高さに据えられてきたのだ。『青 chong』のラストで主人公に「俺は俺だ」と言わせた通り、それが俺なんだといわんばかりに。


 “何者でもない者”たちの物語を描きつづけてきたのは山下も同様だ。童貞三部作や『苦役列車』『もらとりあむタマ子』の主人公たちは、何者かになる前のモラトリアムな時期を過ごしている。『マイ・バック・ページ』に登場する雑誌記者の沢田、活動家の梅山は、いずれも本物になりたいと願いながら、結局のところ挫折する男たちだ。『オーバー・フェンス』の主人公である白岩もまた、東京で職も家族も失い、郷里の函館で何者でもない時間を生きている。いや、どうあがいたって、彼らは何者にもなれないかもしれない。でも山下は彼らの姿をありありと描写することによって、その人生を救済している。デビュー作『どんてん生活』を「まあ、いっか。生きてりゃいっか」のセリフで締めくくった通り、そんな生き方でもいいんだ、ただ生きてりゃ、とでもいうふうに。


 『オーバー・フェンス』を覆う孤独感や閉塞感は、これまでの作風と決して相容れるものではなかったが、山下は敢えてそこに立ち向かうことで新境地を切りひらくことに成功している。同じようにオダギリジョーも、この作品で中年男の悲哀をまとい、新しい世界に手をのばした。01年に映画デビューした彼は、メジャー作品に背を向け、作家主義的で独創的な作品のなかに自分の居場所を見出してきた。だが彼のキャリアが円熟へ向かう一方、彼の好むような映画は時代のあおりを受けて減少していく。


 一時期、彼は「いつ役者を辞めてもいい」という発言をくり返していた。その言葉の裏には複雑なニュアンスがあって、決して字面だけで理解できるものではないが、ただ彼が日本映画の現状を単に肯定的にとらえていなかったことは確かだ。そんな彼が『オーバー・フェンス』で次のような状況に直面する。蒼井優扮する聡(さとし)と激しく喧嘩するシーンでのこと。


「様々なことも重なり、もう夢中でやっていました。やろうと思っていたことも、やりたかったことも、自分ではもうコントロールできなくなるくらいに……(中略)自分でもわからないところに行っていました」


 彼はこの場面を「プロとして計算できる範囲を超えてしまった可能性があるシーン」だと振り返る。オダギリは今回の作品で、めったに経験することのない、豊かで幸福な映画的瞬間と巡りあった。それはかねて好んだ作家的な作品に、映画の豊かさと幸福が間違いなく存在することを、みずから証明する瞬間だったのかもしれない。


 映画の二極化が進むなか、東宝は一強時代を突き進んでいる。そんな東宝の一本道を整備してきた中心人物のひとりが、01年『千と千尋の神隠し』で宣伝プロデューサーを務め、現在は取締役として東宝の映画調整と映画企画を担当し、同時に東宝映画の社長も兼務する市川南である。彼は東宝が配給・製作する作品の基準をこう語っている。


「わかりやすい感動があるということ。「泣ける」でも「笑える」でも、「怖がる」でもいい。そこに強い感動があることが重要。(中略)わかる人にしかわからない感動は、大型公開の映画には向きません」


 わかりやすい感動を与えてくれる作品も大事だ。でもそういった作品だけでは味気ない。演者すら「わからない」という感覚を覚える、決してわかりやすくない感動を届ける役目が、『オーバー・フェンス』のような作品には確実にある。


「初めて客観性がないまま演じた作品です。難しかったし、すごく苦しかった」


 そう話す蒼井にとってもまた、この作品はこれまでにない演者体験となった。蒼井が映画デビューを飾ったのは01年『リリイ・シュシュのすべて』。オダギリの映画デビューも、山下の監督デビューも、同じ01年だ。01年の映画で世に出たふたりの俳優と監督が、この作品で偶然にも顔をあわせ、蒼井にとって20代最後の、オダギリと山下にとって30代最後の映画を撮影した。なんという筋書きだろうか。


 しかしすべては01年にはじまっていたのだ。


※引用
『小説怒りと映画怒り ‐吉田修一の世界』
『マイ・バック・ページ』劇場パンフレット
東宝公式サイト
『BRUTUS』2015年12月1日売号
『オーバー・フェンス』劇場パンフレット
『日経トレンディ』2011年9月号


(門間雄介)