トップへ

HARUHI×深田晃司監督が語る、映画と主題歌の関係「一人の表現者として参加してもらいたかった」

2016年10月05日 18:21  リアルサウンド

リアルサウンド

HARUHI × 深田晃司監督

 郊外で小さな金属加工工場を営む夫婦と幼い一人娘のもとに、ある日、夫の古い友人の男が現れる。彼は工場で働くことになり、不思議な共同生活が始まるが、やがて男は家族に消えることのない傷を残して去っていく。それから8年が経ち、夫婦はある巡り合わせにより、男の消息の手がかりをつかむ。しかし、それをきっかけに夫婦は自らの内なる闇と向き合うことにーー。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した『淵に立つ』は、冷徹とも言える人間観と描写力で家族の在り方、人間本来の孤独を浮き彫りにするような作品だ。


 今回リアルサウンドでは、映画の監督・脚本・編集を手がけた深田晃司氏と主題歌「Lullaby」を担当したHARUHIの対談を企画。映画と主題歌の関係、また深田氏が監督を務め、本日公開されたMVを中心に創作に対するスタンスなどについて語り合ってもらった。(森朋之)


・「『Lullaby』の歌詞は映画とは別のストーリーになっている」(HARUHI)


ーー映画「淵に立つ」は、深田監督が10年ほど前から温めてきた企画だったそうですね。


深田:最初に企画を立てたのは2006年ですね。A4サイズの紙2枚くらいのシノプシスだったんですけど、当時はまだ26歳でキャリアもなかったので、映画にするのは難しいと思っていて。その後、2010年に『歓待』という映画を作ったのですが、それは『淵に立つ』の前半分から発展させて、まったく別の作品にしているんです。ある家族のもとに怪しい男が現れて、かき乱して去っていくという内容なのですが、それを観てくれた映画プロデューサーの米満一正さんから「一緒に映画を作らないか」と声をかけていただき、ふたりで企画開発を経て実現したのが『淵に立つ』というわけです。2006年の最初の段階で何をやろうとしていたかはよく覚えてないんですが、単に家族を描きたいというよりも、その奥にある人間の孤独をモチーフにしているんですよね。そのモチーフは僕のすべての作品に通底しているものですが、『淵に立つ』は、それをより意識した作品になっていると思います。あとは暴力ですね。日常的に暴力に晒されていると「これは自分への罰なんじゃないか」などと考えてしまうこともあると思いますが、僕はそんなことはないと考えていて。意味も理由も何もわからないまま日常を壊すのが暴力だし、そういう残酷な出来事に晒されている状態が生きるということなんじゃないか、と。暴力の唐突さを暴力描写なしで描きたいというのはありましたね。


ーーHARUHIさんは『淵に立つ』を観て、どう感じましたか?


HARUHI:素晴らしい作品だと思いました。最初に観たときはちょっと難しいところもあったんですけど、その後、1時間くらい考え込んだんですよ。自分の人生の生き方だったり、家族との関係だったり。映画を観たのはちょうど海外に行ってるときで、ずっと部屋にこもって考えていたから、友達に「大丈夫?」と心配されました(笑)。


深田:嬉しいですね、これだけ年の違う方に何かしらが伝わったというのは。僕の映画は答えを出さないので、観てくれた方から「答えがほしい」と言われることもあって。そういうときは「いや、それはわかりません。考えてください」と答えるんですけどね。


HARUHI:そうやって考えさせられる映画が大好きなんです、もともと。だから『淵に立つ』にもどんどん引き込まれて。


ーー主題歌のオファーがあったときはどう思いました?


HARUHI:最初にオファーをもらったとき、深田監督がメールを送ってくれたんです。「ひとつの思いを歌うというよりも、遠くから見ているような感じで」というようなことが書いてあって。


深田:依頼文というか、すごく長い文章を送ってしまったんですよ。最初は正直、主題歌というものを警戒していたんですね。僕自身、これまでの作品にもほとんど音楽を使っていないし、主題歌も付けていなくて。それは音楽の力を警戒しているからなんです。いまも話に出ましたけど、『淵に立つ』という映画は作品のなかで答えを出していなくて、100人いたら100通りの答えに分かれるようなものにしたいと思っていて。だから主題歌もひとつの感情を描いたものではないほうがいいと思ったんです。音楽の力はすごくて、たとえば同じ表情であっても、哀しい音楽が流れていればそういうイメージになるし、楽しい音楽があると喜んでいるようなイメージになる。日本映画の主題歌も、やはり説明しているものが多い印象があるんですよね。多様な受け取り方ができて、解釈の幅が大きい映画を作ったのに、最後に「こういう感情になってください」というような曲が流れるのは本意ではない。HARUHIさんにも映画を解釈するのではなく、人間の心根をのぞき込んだときの恐ろしさを書いてほしかったんですよね。


HARUHI:私も以前から、そういうテーマの楽曲を書いてみたかったんです。ちょうどいいタイミングで主題歌のお話をいただいて、いろいろ考えるなかで「子守唄を書いてみよう」と思って。歌詞も映画とは別のストーリーになっているんですよ。英語の歌詞なんですけど、まず子供が寝て、その後(両親が)「今日も1日お疲れさま。じゃあ、寝ましょうか」と話して、そこから夢の世界が広がって。そうすると子供が起きてしまって、子守唄を聴かせて、また夢の世界が広がるっていうイメージで。自分の気持ちを込め過ぎないということも意識していました。


深田:「Lullaby」が上がってきたとき、自分の心配はまったく杞憂だったと思いましたね。最初に聴いたときに「これだ!」と感じたし、本当に素晴らしかったので。


HARUHI:ありがとうございます!


深田:複雑な捉え方が出来る楽曲だし、最後に唸るような叫びがあるのも素晴らしくて。あの部分は言葉に出来ないからこそ出て来たものだと思うし、映画を観るお客さんにもぜひ聴いてほしいですね。「Lullaby」は英語の歌ですが、日本語と英語で歌うときの違いはあるんですか?


HARUHI:ぜんぜん違いますね。私はもともと英語で歌い始めたので、そっちのほうが慣れているところがあるんですよ。英語で歌うとしっかりお腹と肺を使えるんですけど、日本語で歌うと喉から声が出てしまうクセがあって。外国人に日本語で歌ってもらうと、そういう傾向があるみたいなんです。いまは日本語と英語の両方をバランスよく歌うようにしていますが、この映画の主題歌は日本語で歌うと意味が強くなりすぎると思ったので、全体の雰囲気が伝わるように英語で歌詞を書きました。


深田:なるほど。『淵に立つ』の主題歌はHARUHIさんのデビューEPを聴いたうえでオファーさせてもらったんですが、英語の歌のほうが素直に歌っているというか、HARUHIさん自身の心情みたいなものが出ている気がして。だから今回もぜひ英語で歌ってほしかったんです。


ーーメロディの手触りもとてもエキゾチックだし、いわゆるJ-POPとはまったく雰囲気が違いますよね。


HARUHI:自分の中での音楽のスタンダードがいわゆるJ-POPとは違うのかもしれません。楽曲を制作していても「メロディ、コードの使い方が外国人っぽい」と言われることが多いし。


深田:いままで聴いてきた音楽のなかに、そういうものがなかったということですか?


HARUHI:そうですね。ずっと洋楽ばっかり聴いていたので。


深田:そこも自分にとっては良かったんだと思います。類型的な日本映画の主題歌とはまったく違っていたので。


ーー予定調和的を避けたかったということですか?


深田 そうなるとシャクですからね(笑)。HARUHIさんにも一人の表現者として映画に参加してもらいたかったし、この映画に向き合ってほしいと思っていたので。制作の時間が短くて大変だったと思いますが、お互いにやり取りもできたし、素晴らしい楽曲になったのは本当に良かったですね。


HARUHI:私も嬉しいです!


・「肉体が死から生に戻るところを映像にしてみたい」(深田晃司)


ーー「Lullaby」のミュージックビデオも深田監督が手がけられています。舞台は映画にも出てきた工場ですが、深田監督の作品『さようなら』(2015年公開)で使われた手法が応用されているそうですね。


深田:『さようなら』の大事なシーンで使った方法がすごく面白かったんですよね。そのときは、ひとつの肉体が物理的に死に向かっていく要素をCGを使わずに描きたくて。そんな無茶な要望に特殊メイクを担当してくれた「造形工房『自由廊』」のJIROさんが応えてくれたんです。女優のヒト型を取って人形にしているんですが、肉の部分をチョコレートで作ってもらって、それが溶けていく様子を撮影したんですよね。それがすごく上手くいったので、また別の機会に使えないかなと思っていたところに「Lullaby」のミュージックビデオのお話をいただいて。今回は死に向かうのではなくて、生き返らせるという映像なんですよ。こう話すと、単に自分がやりたいことをやってるような感じですが(笑)。


HARUHI:いえいえ(笑)。ミーティングのときに説明していただいて、素晴らしいコンセプトだし、絶対に良い作品になると思ったので。


ーー『淵に立つ』と同じく、監督の死生観のようなものも反映されているんですね。


深田:そうですね。歌詞の内容が子守唄なのですが、僕は短絡的な人間なので「眠りに落ちる」ということに死を連想してしまうんです。そこから「肉体が死から生に戻るところを映像にしてみたい」と思って。CGを否定してるわけではないんですよ。映画は「いかに嘘をつくか?」という表現だし、CGもいいと思うんだけど、死や生は物理的な現象だと捉えているので、実際のモノを使って描く方がしっくり来るんですよね。HARUHIさんには最後のシーンに出演してもらったんですが、全員がしっかり集中して、30分くらいで終わったんです。でも、チョコレートが想定よりもぜんぜん溶けなくて、結局4時間くらいずっと待って(笑)。


HARUHI:最後に微笑むシーンがあるんですが、どういう感じの表情なんだろう?と考えて撮影に臨みました。私はMVの撮影自体が2回目だったんですけど、前回より自分の集中力のレベルが上がったと感じましたね。MVというよりも映画の撮影をしているような感じで。


深田:撮影スタッフもふだん映画をやっている人たちですから。自分も映画の撮影と同じようにやっていましたが、唯一違うのは(セリフがないので)本番中に声に出して指示できることかな。HARUHIさんは感情表現が日本人らしくなくて、反応が楽しかったです。初めて自分の人形を見たときも……。


HARUHI:「Oh,my god!」って(笑)。自分の死体を見ているような感じがしたんですよね。だから最初は近づきたくなくて、ちょっと離れて見ていて。髪の毛の色までまったく同じだったし。


深田:霊魂になって、自分の死体を見ているような感じですよね。


HARUHI:そうなんですよね。でも、最後は横に寝転がって一緒に写真を撮りました(笑)。


ーーミュージックビデオは楽曲を映像で表現するものなので、やはり映画とは違いますよね?


深田:確かにミュージックビデオは“曲ありき”ですが、映画も完全にゼロから作るのではなくて、モチーフやテーマがありますからね。『淵に立つ』で言えば、家族を描くというところから広げていったわけで、そういう意味では似ているところもあると思います。ミュージックビデオは尺が短くて物語に束縛されないので、撮っていて解放感がありましたね。ミュージックビデオを撮るのは初めてだったし、すごく良いご縁をいただきました。


HARUHI:「Lullaby」も映画と同じように“答え”がないまま終わる感じで、そこもすごく好きなんです。映画も楽曲もMVも作品として素晴らしいものになったので、本当に嬉しいですね。
(取材・文=森朋之/撮影=三橋優美子)