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大根仁は伊丹十三の正統継承者か? モルモット吉田の『SCOOP!』評

2016年10月05日 11:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「SCOOP!」製作委員会

■“アレンジャー”としての大根仁
 映画監督を大別すると、他人の映画を観る監督と、観ない監督に別れる。「映画を撮ったり観たり同時にできるか」というのが、観ない側の言い分だ。映画を撮る以前から「僕の作品は全部元ネタありき、パクリというかサンプリングというかオマージュというか、その手の要素だけで出来上がっている」(『21世紀のポップ中毒者』川勝正幸 著/白夜書房)と語っていたのが大根仁だ。


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 『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(93年)を完コピしたテレビ版『モテキ』の第2話を挙げるまでもなく、単なる引用、模倣ではなく自作に定着させるアレンジャーとしての才が突出している。脚本家の荒井晴彦も事あるごとに口にするテーゼ、つまり〈あらゆる映画はすべて撮られてしまった――われわれが先人に勝っているのは現代を生きていること〉を自覚的に実践する監督である。しかし、「全部元ネタありき」と言っているのを真に受けて見くびると、テレビドラマ、バラエティ、ミュージック・ビデオ等で培った演出技術を目の当たりにして打ちのめされる。映画に限らずサブカルチャー全般への批評的な視点を自作に応用しながら商業映画で成功した稀有な存在――伊丹十三(俳優出身)、原田眞人(映画評論家出身)の系譜に連なる監督である。


 『SCOOP!』は原田眞人が32年前に監督し、後に劇場公開もされたテレフィーチャー『盗写1/250秒 OUT OF FOCUS』(84年)のリメイクだが、リスペクト&リビルドをこれほど巧みにやってのけた作品はめったにあるまい。そもそも長年の再映像化構想(連ドラとしても企画したこともあるという)が、福山雅治主演企画として通り、実現したという多幸感に満ちた作品である。ただし、『盗写1/250秒』は原田作品の中でも最初期作に当たり、知る人ぞ知る幻の佳作だけに、まずはオリジナル版の内容を紹介しておこう。


 熊本日本新聞の記者だった名女川野火(斉藤慶子)は、写真週刊誌「OUT OF FOCUS」編集部に採用される。上京した翌日、編集部へ挨拶に訪れるが、副編集長の横井定子(夏木マリ)の指示で、警察署に護送される容疑者を狙う記者の加柴大作(宇崎竜童)とカメラマン都ノ城静(原田芳雄)のもとへ向かう。署内に強行突入して取調中の容疑者を撮る静の荒業を目の当たりにする野火。文芸誌の編集部から移動してきた馬場(矢崎滋)と合流し、今度は結婚詐欺で自殺した被害者女性の実家を訪れる。遺族から追い払われて閉口する野火と馬場を尻目に、加柴は口八丁手八丁で遺族から被害者の写真を巻き上げてみせる。続いて情報屋のチャラ源(内藤陳)から女性議員が男連れでホテルへ行ったというタレコミが入る。静からカメラの使い方を教わった野火はホテルの廊下で見張り、部屋から出てきた中年カップルと共にエレベーターに乗り込み激写に成功するが、それは人違いで誌面を華々しく飾ったのは静が撮ったものだった。悔しがる野火は、編集部が次に狙う永野元総理の公判写真でタブー破りをやろうと意気込み、逡巡の末に乗った静、加柴らと共に法廷盗撮に挑む。


 『SCOOP!』を観れば、ベースとなるプロットは踏襲されていることがわかるはずだ。なお、役名はオリジナルから微妙に変更されており、名女川野火→行川野火、都ノ城静→都城静、横井定子→横川定子などになっている。最も大きな変更は、宇崎竜童と原田芳雄にまたがっていた役を福山雅治が演じる静へ統合した点だろう。野火に対して宇崎は荒っぽく、原田は優しく接するが、福山ならば2人のキャラクターを1人で演じることが可能という見極めが、本作を成功させた要因である。この変更によって静と野火のバディフィルムとしての骨格が明瞭になっている。どれだけ異なる境遇の2人を設定し、共通の目的に向かって走らせることができるか、またその過程で愛憎を抱きながら最後には理解しあい、互いに成長するか。ベテランカメラマンの福山と新人記者の二階堂ふみが最初は反発しながら、やがて互いの能力を認めるようになり、絶妙のコンビネーションを発揮してスクープを追い求め、愛情も抱き合う。まさに間然する所がない構成である。


 しかし、よく出来た構成というだけでは映画は面白くならない。ここからがアレンジャーとしての大根の腕の見せどころである。当時は斬新だった『盗写1/250秒』も、32年の歳月による部分腐食は避けられない。そこで修正アップデートが必要となる。例えば「今どきタバコ吸える編集部なんかないよ」「なんで例えが野球なんですか」等々、オリジナルへの今の視点からのツッコミとも言える台詞が巧みに織り交ぜられる。ただし、除去しすぎると都城静という現代には存在しそうにない荒っぽいキャラクターまで漂白しかねないので、福山雅治が演じることで成立することを折り込み済みで(脚本を書く前に衣装合わせを行ったという)、時代に沿わない台詞もあえて残されている。


■『盗写1/250秒 OUT OF FOCUS』をいかに『SCOOP!』にしたか?
 時代の流れを踏まえて最も大きく変更されたのは中盤の見せ場だろう。オリジナルではロッキード事件公判をモデルにした法廷盗撮だったが、今回は連続殺人事件の犯人の顔を撮るというミッションである。失墜した権力者の顔から、凶悪犯罪者の顔へと時代を反映した変化に、フィクションなのだから、ここは権力者を追うべきでは?などと内心思いかけると、それを見透かしたかのように「読者が見たがっているのは、グラビア、袋とじヌード、ラーメン特集、それから……芸能スキャンダル。雑誌が反体制とかジャーナリズムを背負ってた時代はとっくに終わってんだよ」という台詞が聞こえてきて、納得させられてしまう。モラル・ハザードをテーマにしたオリジナルから、芸能ネタが中心の『SCOOP!』への変貌を軽薄と思えないのは、今年の写真週刊誌報道を見てもわかるとおり、極めて今日的な状況が映しだされているからだ。


 とはいえ、テレビ朝日とアミューズの製作だけに『コミック雑誌なんかいらない!』(86年)の様な実名で芸能人や事件が登場するような映画は不可能だろう。それならば、リアルとフィクションがせめぎ合う中で、どう魅力的な映像を見せてくれるかにかかってくる。政治家のホテル密会スクープのくだりは、前述のオリジナルと同じ設定に思えるが、ホテルの廊下で連れ立って歩いている程度ではスクープにならない。より困難なミッションであるベッドルームでの2人の写真が求められる。というわけでリメイク版独自の奇抜な作戦が展開するわけだが、そこからカーチェイス→福山と二階堂の “吊り橋効果キス”へと至るくだりは、本作屈指の快楽的なリズムで畳み掛け、大根の熟練の演出によって心地良く翻弄され、フィクションの世界を堪能することになる。


 こうした見事なリビルドの一方で、オリジナルへの過剰なまでのリスペクトにも驚かされる。野火が静の車から飛び降りて橋の欄干から吐くシーン、ホワイトボードへ部数が表示されるシーン(オリジナルでは毎回手でマグネット数字を動かす)、監禁された野火をチャラ源が助けるシーン、静とチャラ源が肩を組んで六本木を飲み歩くシーンなどは、同じシチュエーションを自分ならこう撮るというアレンジとして観ていられるが、オリジナルをほぼ忠実に再現したシーンも散りばめられており、このこだわりには圧倒される。


 静とチャラ源が登る階段がオリジナルと同じ場所で撮影されているなどというのは序の口で、静の部屋へ野火が訪れるくだりは部屋の雰囲気も台詞もほぼ同じなのでいっそう再現ぶりは際立つ。ここに定子がやってきて静との意外な関係が明らかになるが、オリジナルで夏木マリが演じた定子を今回演じる吉田羊が絶品で、夏木のイメージが違和感なく継承されている。静の部屋から帰っていく野火のロングショットと、それを見送る静と定子が壁にもたれているショットに続いて編集部で連続殺人事件の犯人を盗撮するための作戦会議シーンで、ミニカーやフィギアを用いて無駄口を叩きながら練るくだりも完コピである(野火がリスのフィギアを用いるところまで同じ)。


 ここまで来ると、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(60年)を完コピしたガス・ヴァン・サントの『サイコ』(98年)を思わせるが、この後の野火と静のベッドシーンも手のアップからパンダウンして静の髪を触り、互いの肩越しに2人を撮るというアングルまで再現する凝りようである。それをメジャー映画の枠でやってのけるところに、大根の「パクリというかサンプリングというかオマージュというか」の精神を失わずにいようとする意地を感じさせる。若き日に影響を受けた映画を再現したいという映画好きなら一度は夢見る妄想を実現させたというべきか。ヒッチコックは若き日に撮った『暗殺者の家』(34年)を後年、『知りすぎていた男』(56年)でセルフリメイクしたが、前者を「才能あるアマチュアの作品」、後者を「プロの作品」と自己分析してみせた。35歳の原田眞人が監督3作目として撮った『盗写1/250秒』と、48歳の大根仁がメジャーでの劇映画3本目として撮った『SCOOP!』の関係は、ヒッチコックのそれに近いものがあるのではないか。


●以下、結末にふれています


■『SCOOP!』に漂う伊丹映画の気配
 オリジナルとリメイクの関係は、終盤でいっそう際立つことになる。野火はカメラを手にある決定的瞬間を撮る。これはオリジナルもリメイクも同じ展開をたどるが、撮る瞬間の扱いに違いがある。オリジナルでは加害者は自分を撮れと静に求め、それが拒絶されると「じゃあ、俺が撮ってやる」と手にした銃口を静に向けて発砲する。それまでの過程をやや離れた場所から撮影していた野火は、その銃撃の瞬間を連写して写す。ファインダーから目を外し、本能的、職業意識的に撮ったという感じだ。


 リメイクも流れは同じだが、拳銃を持った加害者が視界の隅にカメラを構えた野火に気づき「あれなんだよ?」と息巻き始める。野火に銃口が向けられたので静は身を挺して加害者の腕を掴み、そして発砲される。この時、「野火、撮れ」という静の声が野火に聞こえた気がするという描き方になっている。


 念のため『シナリオノベルズ THE MOVIE SCOOP!』(KADOKAWA)で確認すると、


《 野火、指先をシャッターに置いたまま固まっている。
 その時、野火の脳裏に静の声が響く。
 静の声「野火……撮れ!!」
 反射的にシャッターを押す野火。》


 となっており、淡白ながらインパクトのあるオリジナルと、野火と静の関係性を加味して何のために撃たれたかの意味を明確にしたリメイクは、ともに甲乙つけがたいクライマックスになっている。


 しかし、リメイク版の野火がこの瞬間にシャッターを押せるとは、2回観ても思えなかった。ピンボケの写メに静が激怒して、記者がカメラマンの気持ちが分からなくてどうすると説教する前半から、何度となく記者とカメラマンとしての意思疎通の様子は描かれるが、野火が本格的にカメラを手にするのは、このシーンの直前の連続殺人事件犯人の盗撮時である。それも静に言われて撮らされた、あるいは興奮のまま撮ってしまったという感じで受動的なのだ。


 この後、静がキャパの『崩れ落ちる兵士』の写真でカメラマンを目指すようになったと野火に語り、その直後、まさに同様のポーズで撃たれる。こう書いていくと、野火が撮るだけの必然も揃っているのだが、実際に映画を観ると、クライマックスの直前に矢継ぎ早にそれらが提示され、熟成しないうちに終わりを迎えてしまうのでもう少し前の段階で描かれていれば、また変わったのではないかと思えた。静が実際にあの瞬間に「撮れ」と叫んで撮ったなら納得できたのだが。あの静の声の扱いが曖昧に思える。


 ちなみに、オリジナルで野火を演じた斉藤慶子について宇崎竜童は当時、「まだ研究不足なんだ。カメラの持ち方だって、本当ならあんなのじゃないもの。カメラ使う者の経験なり心境なりを、いったん自分が通ってこそ、はじめて演技できるってとこがあるでしょう。撮影が始まってから、それをしてたんじゃ遅いんだ。」(『〈竜童組〉創世記』黒川創 著/亜紀書房)と辛辣に評していたが、今回のカメラを構える二階堂ふみの眼光の鋭さは素晴らしい。


 『SCOOP!』には『チ・ン・ピ・ラ』(84年)や『コミック雑誌なんかいらない!』などの80年代日本映画の匂いと共に伊丹映画の気配も漂う。実際、アバンタイトルを除けば本篇は「スクープの女」と言っても通りそうだ。伊丹が好んでテーマにした異業種の物語であり、『マルサの女』(87年)でマルサ(国税局査察部)に入った新人の宮本信子が挨拶に訪れると、そのまま現場へ行くよう求められる展開は、本作冒頭と酷似する。『マルサの女2』(88年)で宮本と新人マルサの益岡徹がコンビを組むバディフィルムぶりにも通じるものがある。内偵の過程で宮本と津川雅彦がカップルを装ったり、あの手この手の秘密兵器を用いながら東京でロケーションを駆使して描いた点、エロへの固執も含め、『SCOOP!』は『マルサの女』を最も正統に継承した作品ではないか。殊に静と野火のコンビが次々とスキャンダルを激写していくシーンの高揚感は、マルサの活躍をモンタージュしたシーンと双璧である。


 また、〈日本の公道でのカーチェイス〉に挑んだ点も伊丹映画との関連で語ることができるだろう。『アイアムアヒーロー』(16年)の様に韓国で迫力あるカーアクションが撮れる時代に、国内でカーチェイスを撮る意味があるのかという見方もあるだろうが、『スーパーの女』(96年)、『マルタイの女』(97年)と末期の伊丹映画はカーチェイスにこだわり続けた。本作のカーチェイスは国会前の走行、小道具の扱いも含めてかなり充実したものになっており、伊丹が求めていた迫力と笑いが混在したカーチェイスの理想形はこういうものだったのではないかと思える。


 ところで大根は、伊丹と縁深い周防正行が監督した『それでもボクはやってない』(07年)について「伊丹さんの功績に対する歴史的評価を行ったと同時に、伊丹超えも果たした。」(『21世紀のポップ中毒者』)と卓見を吐いている。実際、伊丹の自死以降の周防作品は、『終の信託』(12年)に『大病人』(93年)を、『舞妓はレディ』(14年)に『あげまん』(90年)を連想させたように、伊丹が意図を伝えきれなかった後期作品を自分なりに捉え直したかのような作品が続き、伊丹映画の影が常に見え隠れする。


 その意味では、本作もまた大根による伊丹映画の〈歴史的評価〉と継承を行ったのではないか。興行力も含めて往年の伊丹映画に匹敵する存在となった今、『SCOOP!』の出来栄えからして、「モテキ2」的と言われる次回作『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』(大根版『マルサの女2』か?)と合わせて、伊丹とは似て非なる形で異文化体験を描き続けてきた大根の「伊丹超え」が実証されるはずである。(モルモット吉田)