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『とと姉ちゃん』最終回に寄せてーーテーマ・キャストの魅力と、脚本・演出への不満点

2016年10月03日 07:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『とと姉ちゃん』公式サイト

 花山との別れが描かれた『とと姉ちゃん』最終週。昭和四十九年、「あなたの暮し」が売上を伸ばし80万部を突破。その一方で、花山伊佐次(唐沢寿明)は体調を崩すことが多くなっていった。自らの死期が迫っていることを知った花山は、戦時中の人々の暮しの証言をまとめようとする。常子(高畑充希)は、読者から募集した戦時中の証言をまとめて「あなたの暮し」で、「戦争中の暮し」の特集を組む。


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 先週の君子(木村多江)との別れに続き、花山との死別が描かれたのだが、半年間見てきた視聴者にとっては、馴染みのある登場人物が退場していく姿はそれだけで、感動できる名場面だろう。主題歌である宇多田ヒカルの「花束を君に」が死別した母親のことを歌っているだけあって、“最愛の人との別れ”は、本作に通底するテーマで、『とと姉ちゃん』自体が死者に手向ける花束のようなドラマだったのかもしれない。


 だから、最初に死別した父親の竹蔵(西島秀俊)と大人になった常子が夢の中で再会する場面を最終話に持ってきたことも納得できる。ただ、とと(父)として生きてきた常子を竹蔵が肯定してあげるという場面は、意図はわかるのだが、竹蔵は喋らずに微笑んでいるだけでよかったのではないかと思う。


 あの場面は常子の願望であって、その裏側には「私の人生は、これでよかったのだろうか?」という迷いがあったのだろう。夢の中で死んだ父親に肯定してもらいたいというのは、自分の不安を言う相手のいない常子の孤独の裏返しなのだが、竹蔵にすべてを喋らせてしまうことで解釈の幅を狭めているのがもったいない。


 高畑充希を筆頭に出演俳優は魅力的で、戦前・戦中・戦後を通して、女性の自立と日常の大切さを訴えるという、テーマも間違っていない。本作を通して花森安治と「暮しの手帖」について知れたことも、ありがたいと思っている。しかし、脚本と演出の安易さがドラマとして好きになれなかった。


 西田征史の脚本は、見せたいテーマとキャラクターが明快でお話としてよく出来ている。しかし、わかりやすさを優先するが故に、登場人物が類型的になりすぎて、良い奴は良い奴、悪い奴はとことん悪い奴という描写になっている。それでも、序盤は、主人公に敵対する人にも実はその人なりの事情があってという、ひっくり返しを丁寧におこなっていて、西田なりに人間の複雑さを描こうと格闘していたように見える。しかし、終盤になっても同じことを繰り返しており、商品試験のくだりで気持ちが萎えてしまった。


 こういった脚本上の弱点は、本来なら演出サイドでフォローできるものだったのだが、脚本の安直さをより際立てる方向に演技指導が働いていたように思えてならない。街や屋内を撮影する際に見せた臨場感のあるカメラワークは魅力的だっただけに、演技面での安易な見せ方が最後まで引っかかった。戦時中の戦争に向かう日本と戦後の復興から高度経済成長に向かう日本を対比する構成でありながら、経済発展に対する内省的な視点が戦争批判に較べて踏込みが浅いことも不満に感じた。
 
 普通の連続ドラマならヒロインの成長物語を半年かけて描ききり、高視聴率を獲得した時点で充分合格で、それ以上の深みや作家性を求めるというのは贅沢な注文なのかもしれない。


 今や朝ドラはテレビドラマの中心として、多くの人々が注目する放送枠である。だからこそ、脚本と演出は最高レベルのものであってほしいし、テーマももっと深く掘り下げてほしかった。朝ドラだから、複雑な現実を単純なストーリーに落とし込むのではなく、朝ドラだからこそ、複雑なテーマと表現を追求してもいいのではないかと、保守的な作りに見ていて歯がゆく感じた。(成馬零一)