トップへ

福山雅治の芝居は“環境”をつくり出す 『SCOOP!』都城静役に見る演技の本質

2016年10月02日 19:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「SCOOP!」製作委員会

 とりあえず『SCOOP!』は、福山雅治が、”らしくない”ワイルドな風貌でやさぐれパパラッチカメラマンを演じていることがまずはトピックの筆頭にあげられる映画だろう。こんなこともやるんだ、できるんだ。俳優、福山のイメージが一変するひともいるかもしれない。あるいは、キャラクター的にも、描写的にも、もはや中年であることを隠そうともしない潔さに胸打たれる同世代もいるかもしれない。


参考:二階堂ふみのラブシーンはなぜ心を揺さぶるのか  10代で脱いだ大物女優の系譜から考察


 福山のシフトチェンジ、モデルチェンジとして語りやすい、語られやすい作品ではある。大根仁監督という意外なタッグもある。だが、福山雅治という演じ手のことを考えたとき、『SCOOP!』で彼がおこなっていることはマイナーチェンジですらないと思う。


 スターの一語で処理されてしまいがちな福山だが、その演技表現は常に緻密だ。彼は、いわゆる成りきり型の自己満足タイプではなく、己が作品にいかに貢献できるかを意識下に置いた奉仕型なのである。自分自身を、映画全体を作り上げるパーツのひとつとして認識しようとする志向が高い。したがって、扮した人物の感情におもねる”主語”を重視した芝居に陥ることがない。それは今回に限ったことではなく、これまでもずっとそうだった。


 その意味で、何かを吐露することがほとんどない『SCOOP!』の主人公、都城静(みやこのじょう・しずか)は福山の演技の本質を見極めるためには最良のサンプルと言えるかもしれない。


 福山は、とりわけ映画においては、作品を醸成する環境づくりの一環として演技をおこなっている印象がある。


 主演俳優はよく、座長なる大仰かつ暑苦しい比喩でその役割を固定化される傾向があるが、福山の演技からは、何かを牽引するというより、環境の一部と化し、また環境と溶け合っていこうとするDNAが感じられる。


 演技とは、アクションではなくリアクションだと、よく言われる。つまり、相手に働きかけることよりも、相手の芝居にいかに応えていくか。そのことのほうが大事だということだ。


 福山雅治がおこなっている環境づくりは、そうしたリアクションを超えた次元でおこなわれている。そして、それは、前述したように、彼が座長として、キャスト陣が演じやすい現場づくりをしているということではない。


 福山は、映画の中に、ある環境をつくり出す。そのために彼の演技はあると言っても過言ではない。架空の登場人物を成立させるために芝居が駆使されているわけではない。その環境は、観客に作品を享受しやすくするためのコーディネートの結果である。


 映画を観ているあいだは気がつかないかもしれない。だが、劇場を出たあと、川辺ヒロシが手がけたオリジナルサウンドトラック盤を耳にすれば、理解できると思う。


 このCDには劇中の台詞がいくつか散りばめられているが、どうか静のことばを注意深く聴きとってほしい。


 福山が、いかに、その都度、発声方法を変えているかがわかるはずだ。そして、それは静という人物の多彩な側面を表しているというより、そのシーンを成立させるための変幻なのだということが示されている。


 そして、そのことばのありようが、川辺の音楽といかに融合しているかも体感できる。


 声を、いかに響かせるか。あるいは、響かせないか。虚勢とカモフラージュが綯い交ぜになった都城静というキャラクターを演じながら、福山は作品の“内装”をかたちづくる。


 サントラでは主に、二階堂ふみとのやりとりが中心となっている。もう一度、映画を観れば、福山が、吉田羊や滝藤賢一、そしてリリー・フランキー(彼もまた、違った意味で役の“主語”に支配されない特異な俳優である。彼が福山と親交が厚いのは必然と言えるだろう)、それぞれと相対するとき、いかなる環境づくりをしているかが、明瞭になるだろう。彼は状況を整え、その状況を充分に活性化させる、きわめて地道なコーディネーターなのだ。


 いま、福山雅治を正当に発見する契機が訪れている。(相田冬二)