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妻夫木聡と綾野剛、ゲイを正面から演じたことの意義 『怒り』が日本映画界に投げかけたもの

2016年10月02日 06:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016映画「怒り」製作委員会

 住宅地で夫婦が殺害され、犯人が逃亡した。犯人の手配写真とともに事件が報道されるなか、千葉、東京、沖縄で、素性の知れない3人の男と関わり始めた人々の、3本のストーリーが同時に進行していく。李相日監督の『怒り』においてその1本を担うのが、妻夫木聡が演じる優馬と、綾野剛が演じる直人という、ゲイの男性2人のパートである。


参考:妻夫木聡と綾野剛、『怒り』の関係性はなぜ愛おしい? “裏の感情”を忍ばせる芝居の深み


 『怒り』は言うまでもなく、『君の名は。』や『シン・ゴジラ』など、あらゆるジャンルで次々とヒット作を連発し、もはや一人勝ち状態の、東宝が放ったメジャー作品である。初日9月17日は全国228館という邦画最大規模で公開された。筆者は1987年のイギリス映画『モーリス』以降、LGBT(なんて言葉は、当時は知らなかったが)映画を積極的に観てきたが、主人公がゲイであることや、男同士のラブシーンがここまで当たり前のものとして、しかも東宝のメジャー作品で描かれる日が来るとは想像もしていなかった。


 これまでの邦画では、ゲイのキャラクターは社会的にマイノリティであることや、カミングアウトできないこと、そもそも自分のセクシュアリティに関する迷いなどがベースになっており、男と男の恋愛やセックスは、秘めたるもの、タブーなものとして描かれてきた。最近の作品では、『無伴奏』で斎藤工と池松壮亮が演じたキャラクターの関係性がもっとも顕著な例だろう。1969年という今よりも保守的な時代背景において、女性を好きなふりをしながらお互いへの思いをつのらせる関係性が悲劇として描かれている。『ライチ☆光クラブ』の場合は、デカダンスな世界観を彩るものとして、古川雄輝と間宮祥太朗のキスシーンが機能した。『MARS~ただ、君を愛してる~』での藤ヶ谷太輔と窪田正孝のキスシーンは、少女漫画的ファンタジーのなかで成立するものだった。


 しかし『怒り』は、そのどれにも当てはまらない。その証拠に優馬と直人のパートは、アイデンティティに悩む時期を(おそらく)すでに乗り越えた優馬が、都会にそびえ立つビルの屋上プールで開催されるゲイパーティーではしゃぐシーンからスタートする。日に焼けた水着姿の男たちがそこかしこでキスをし、すれ違うときは視線を絡ませ、仲間とキャッキャとボーイズトークを繰り広げる彼らはリア充の極み。その後、優馬はかなりの高給取りのエリートサラリーマンだということが、リッチな暮らしぶりから明らかになる。彼は、都会でゲイライフを謳歌しているのだ。


 優馬はある日、新宿のサウナを訪れる。赤と黒の照明が、汗ばんだ男たちの肢体を艶かしく彩る中、自分に向けられる男たちの視線をすり抜け、優馬は膝を抱えた直人を発見する。荒々しく直人を抱く優馬。そこには愛なんてものはなく、それはただの行為でしかない。


 その後、一緒にラーメンを啜りながら、直人が住所不定無職の状態にいることがわかると、優馬は直人に自宅への居候を提案する。遠慮がちに転がり込んだ直人と生活をともにしながら、自分の過去については「語りたくない」と拒否するも、言動からにじみ出る本質的な部分に惹かれ、優馬は直人と過ごす時間を愛おしく思い始める。同居直後のセックスシーンは全裸での激しいものだったが、裸で抱き合いながらのピロートークでお互いを知っていく。愛情が深まるにつれ、窓の外を眺めてベッドに座る直人を後ろから優しく抱きしめ首筋に優しく口づけするようになり、しまいには夕日に包まれてまったりとビールを飲みながら、自分たちの墓をどうするか、なんて会話を微笑みながら交わすようになる。


 日本映画に限らず、ゲイを主人公に据えた作品は、抑圧された状態から始まり、次第に自身のセクシュアリティやアイデンティティを解放していくという流れが王道だ。しかし『怒り』は、すでに(ゲイとしての)生き方を確立している主人公が、1人の人間として本当に求めるものに気付かされるという、〈その先〉を描くストーリーである。優馬という人間を描くためにはまず、優馬の立ち位置を示す場所がある。そのために、冒頭のパーティシーンや刺激的な性描写は必要だったのだ。そして、直人といることで、(ゲイとして)生きるために身につけた鎧を一枚ずつ脱ぎ捨て、むき出しになり、どんどん優しく、そして弱さを露呈するようになる。その変化を見ていれば、彼の過去について言葉では何ひとつ語られなくても、優馬がどれだけ傷ついてきたのかは容易に想像できるだろう。


 前段の(ゲイとしての)(ゲイとして)と括弧でくくった箇所は、(親として)(独身子なしとして)(夫として)(経営者として)など、様々な役割や立場に置き換えられる。つまり本作は、『怒り』はゲイを社会の片隅にいる特別な人物としてではなく、我々の物語として描くことに成功しているのだ。それはもちろん、すでに多くのインタビューで語られているような方法で、畏怖と愛と覚悟をもって役にぶつかっていった、妻夫木聡と綾野剛の繊細な芝居の力でもある。


メジャーな日本映画として『怒り』が与えたインパクトは、作品の時代もテーマもまったく違うが、ヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが西部開拓時代に愛し合う男同士を演じた、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』くらい大きいのではないだろうか。しかも、本作はPG12作品なので、基本的にすべての人が鑑賞できる。11歳の自分が親と観に行っていたら、「男の人たちが裸でたくさんいた場所ってなんていうところ?」と質問していただろう。もしも自分が同様の質問をされたら、「あそこはゲイの人が相手を探す場所なんだよ」と教えてあげられる親でありたい。(独身子なし)ですけども。(須永貴子)