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イーストウッド監督の映画はなぜ“特別”か? 『ハドソン川の奇跡』に見る、余韻の豊かさ

2016年10月01日 15:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Warner Bros. All Rights Reserved

 あなたは、ある老舗の有名なレストランで料理を注文する。ありふれた料理だが、あまりにおいしいので、お礼を言うために料理人を呼ぶことにした。そこにやって来たのは、かなりの年配だが、背が高く眼光の鋭い無口な料理人だ。


「この料理、至って普通に見えるのに、どうしてこんなに美味しいのですか?」


「………」


 あなたが質問すると、寡黙な料理人は苦みばしった表情をするだけで、何も答えてくれない。あなたは、狐につままれた気持ちでレストランを後にしながら、ずっと食べた料理のことを考えている。


「あの料理には、一体どんな秘密があったのだろう…」


参考:イーストウッドは「洋画」最後のブランド? 『ハドソン川の奇跡』のヒットを考える


 クリント・イーストウッドは俳優としても監督としても、きわめて評価が高い映画人である。その消費のされ方や称賛のされ方は、映画の言論において、半ば宗教化されてしまっているといってもよいかもしれない。たしかに、イーストウッド監督作には素晴らしいものが多い。だが、本作『ハドソン川の奇跡』を観れば分かるように、名だたる個性的な名監督と比べ、その演出があまりにも奇をてらわず「スタンダード」の装いを持っているがゆえに、明瞭な美点を指摘しづらい、指摘したとしてもありふれたものになりがちだというのも確かだろう。だから、本作を観て劇場を出た後、まさに前述したレストランを後にするときのような気持ちになる観客が多いのではないだろうか。何がすごいのか言葉にしにくいが、ものすごく満足してしまっているのである。ここでは本作を検証しながら、その特別な充実感の秘密に迫ってみたいと思う。


 2009年の有名な航空機事故の映画化作品である『ハドソン川の奇跡』は、その一部始終を克明に再現しようとする。155人が搭乗する航空機がニューヨークの空港を離陸してすぐに、飛んでいる鳥がエンジン部に巻き込まれ、エンジンが止まってしまった。「バードストライク」によるエンジン機能の停止は、ごくまれに起こる事態であるらしい。しかし、おそろしく運の悪いことに、この日は両翼の2つのエンジンとも、それが起こってしまい、機は完全に推力を失ってしまう。機長は空港に戻る余裕がないと判断し、急遽、ニューヨークのマンハッタンに流れるハドソン川に、危険な緊急着水を試みるという決断をする。


 この事故はアメリカはもとより、日本でも大々的に報道された実話なので、その結果がどうなったかを隠す必要はないと思う。ここでの見事な判断と操縦技術による大惨事の回避は、ニューヨーク州知事によって「ハドソン川の奇跡」と称えられ、機長は一躍、英雄として人々から持てはやされることになる。


 しかしその後、機長に起こった出来事はあまり知られていない。乗客たちが助かったにも関わらず、本件について国家運輸安全委員会は、機長に対する人為的な過失への疑惑を追求していた。コンピューターによる計算や、パイロットによるフライトシュミレーターのテストでは、当時の状況下では全く問題なく空港に帰還することができたというのである。これがもし事実だとすれば、機長は英雄ではないどころか、おかしな判断で乗客の命を危険にさらした人物だということになってしまう。本作はここで、脚本や編集による構成力によって、実話を見事に緊迫感のあるサスペンス作品に仕上げている。だがこれを「非凡」とまで表現し褒めあげてしまっては、いささか「宗教的」な反応になってしまう。


 それでは、クリント・イーストウッド監督が本作を「特別」なものにしている要因とは何だったのだろうか。ここで、本作のある場面を思い出してほしい。トム・ハンクスが演じる機長と、アーロン・エッカートが演じる副機長が不時着水を成功させたあと、ハドソン川とニューヨークの街並みをしみじみと眺めながら、「ニューヨークの景色に、こんなに感動するなんて」とつぶやき、生きていることを実感するシーンだ。また、国家運輸安全委員会での審問の最中、機長は副機長と二人だけで廊下に出て、「君を誇りに思う」と伝え、自分たちの行動に確信を深めるシーンを思い返してほしい。


 人は何か重大な経験をしたとき、その出来事を反芻し、落ち着いた場所で実感を得るものだが、それをいちいち映画のなかで何度も描くことは、ドラマを停滞させることにもつながりかねない。ハリウッド映画をはじめとする現在の娯楽作品の多くは、次々に刺激的な見せ場を用意し、観客を飽きさせない努力をしている。その結果として、例えばJ・J・エイブラムスのような、余韻を削り観客の興味を惹きつけるような展開を連続させていく監督が大きな位置を占めるということになる。だがイーストウッドは、その「余韻」を自信を持ってたっぷりと演出するのである。その姿勢は、本作で機長を褒め称える人々を少しずつ見せていくような非効率性にも表れている。


 それでは、この種の「非効率」というのは、本当に効率的ではないのだろうか。我々が退屈なものとして捨て去ってきたもののなかに、豊かなもの、美味しいものが含まれていたのではないのか。イーストウッドが尊敬する映画監督のひとり、ジョン・フォードが、まさにこのような人間同士の信頼感や絆を情感たっぷりに、ゆっくりとした尺で描いていた。『ドノバン珊瑚礁』の時間感覚などは、もはや現代ではあり得ない境地にまで達している。それは、イーストウッドが役者として最も活躍していた時代に、彼を演出していたセルジオ・レオーネやドン・シーゲルといった名匠にも共通する感覚である。


 その時代、優れた映画はむしろ一種の「ゆるやかさ」を持ち合わせていた。それぞれのシーンには、必要不可欠な時間以上の間があったり、展開を追う上で意味のない場面や、反復的な表現も比較的多かった。しかし、その一見無駄にも思える時間は、リアリティを高めたり、また物語を説明し観客をエンジョイさせるという以上の意味合いを作品に与え、何より観客に強い印象を植えつけることにつながっていたように思える。そしてイーストウッドは、映画を「そのようなもの」として学習し記憶しているのである。だからクリント・イーストウッドが、現在世界でも最高齢の監督のひとりになっているということが、現代では大きな意味を持っているはずだ。


 監督作『ヒア アフター』がそうであったように、本作でも映像的なスペクタクルは終盤には用意されず、クライマックスの盛り上がりはあくまで内的なものとして、トム・ハンクスの見事な演技によって表現される。現代的な感覚では、ともするとそれは特別なものとして受け取られかねない。イーストウッドの映画の「特別さ」を「特別」足らしめているのは、イーストウッド自身ではなく、むしろそれ以外の現代的な風潮の側なのではないだろうか。それはまさに、本作における人間的な経験を重視する機長と、合理性に突き進むコンピューターとの戦いに重なって見える。


 だが、イーストウッドは反時代的な態度を決め込んでいるというわけでもない。本作で委員会に責められることで、「もし違う選択をしていれば…」と悩み始める機長は、「自分の人生のすべて」だと考える操縦技術に対する自信が次第に揺らいでいく。その不安は、9.11同時多発テロの記憶とも重なる、ニューヨークのビルに航空機が激突する光景の幻視シーンによって象徴的に表される。それはとくにアメリカ人にとって、最も悪夢的なイメージである。この多くのアメリカ国民の精神的背景が、機長の内的な物語と同期していくからこそ、本作のクライマックスにはスペクタクルが発生することになる。イーストウッドは、自分を演出してきた監督たちがそうであったように、娯楽映画を通し、常に現実の社会問題をテーマに描く、紛れもない「現代の」監督でもあるのだ。(小野寺系(k.onodera))