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『君の名は。』を観て考えた、異性関係の悩みーー地下アイドル・姫乃たまが思春期を振り返る

2016年09月30日 13:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「君の名は。」製作委員会

 『君の名は。』を観ても、私は泣きませんでした。23歳になったからかもしれません。それでも何度も何度も溢れそうなくらい胸は苦しくなりました。隣の席では制服姿の女の子が泣いていて、劇場の照明が明るくなると、一緒にいた男の子に泣き顔を見せないようハンカチで顔を隠して通路へ駆けて行きました。私は、子供のころ男の子になりたかったことを思い出していました。


参考:『君の名は。』なぜ社会現象に? 映像プロデューサーが考察する、大ヒットした3つの理由


 妙に思われるかもしれませんが、私はとても鈍くさい人間なので、小さい頃はいつか幼稚園で遊んでいる誰々ちゃんになれるものだと思っていました。自分は一生、自分のままであるという事実を受け入れるまで、人よりずっと時間がかかったのです。それなので、なんとなく男の子になってみたかったのは、いつか男の子にだってなれる気がしていたからなのです。私は異性の兄弟がいるせいか、思春期に男の子のことを知りたいとか、体のことや気持ちがわからなくて悩んだ覚えがありません。私が男の子になりたかったのは、そういった好奇心とは別のことでした。


 それでも学校で配られる悩みについてのアンケート結果には、「異性関係の悩み」がいつも上位に記されていました。私は同級生達が悩んでいるらしきこの悩みが、具体的にどういったもので、どのように苦しいのかあまり想像ができませんでした。


 それでも小学生や中学生だった頃は、『君の名は。』の三葉ちゃんと瀧くんのように、男女で体が入れ替わったらどうなるかという話を時々していたような気がします。同級生達は悩んでいたのです。異性の体がどうなっていて、何を考えていて、どう接したらよいのか。いつか男の子になれるんじゃないか(あるいは自分は本当は男の子なんじゃないかと思っていた)私も、友人達の会話に加わっていました。そして、いつからか私達はなんとなく自分の存在を受け入れて、異性と触れあえるようになって、そういう話をしなくなりました。しかし、あの頃たしかに、異性の体になって、自分にはない部分をしみじみと触り、いつもと違う一人称で友達と遊んでみたい好奇心が、今よりもずっと強かったように思います。朝目が覚めたら、三葉ちゃんの体になっていて、真っ先に胸を揉んだ瀧くんを見て思い出しました。


 父親とふたり暮らしの瀧くんと、妹と祖母と暮らし、父親との関係が良好ではない三葉ちゃんは、互いに異性と関わりのない家庭で生活をしています。それが何度かの入れ替わりを体験した後、三葉ちゃんは父親と正面から向き合って強く意見します。三葉ちゃんが、瀧くんとの入れ替わりをきっかけに、人生の中でどうしても譲れない目的が見つかって行動を起こす前向きなシーンです。


 ふと、異性との肉体的な接触を持った後、父親への嫌悪や対抗心を増幅させる女の子達がいたことを思い出しました。私はその感情の仕組みは理解できても、彼女達の気持ちをすべて同じようにわかることはできませんでした。彼女達を見ているとなんだか自分が、清純ではないような気がしたものです。


 「異性関係の悩み」を抱える友人達の問題は、多かれ少なかれ複雑でこじれていました。それでなくても、あの頃の私達はよくわからない生き物でした。私なんか、自分のわからなさを説明するために具体例を書こうと思ったのに、記憶にもやがかかっているくらいよくわかりません。薄っぺらい書き方をすると、一生懸命で視野が狭くて、不安で不満でした。


 ようやく三葉ちゃんと触れあえた瀧くんは、お互いの名前を忘れないようにペンで手の平に名前を書くことにします。再びふたりの体が離れて、そっと開いた三葉ちゃんの手の平には、「すきだ」と書かれていました。強い気持ちだけを残して、必要な名前の情報はまた失われてしまいます。この思春期特有の空回る熱心さ。


 こうして何度も私は思春期の記憶のもやが外れかけて、胸を苦しくしていました。しかし、私がこの映画で最も衝撃だったのは、何よりも“所在のなさ”や妄言が物語から肯定されていたことです。


 異性関係で悩まなかった私の問題は、いつか男の子になれると思っていたところにありました。いつか誰々ちゃんや、男の子になれると思っていた私は、自分の存在の所在がここではないような気がしていたのです。それは、はたから見るとすごくおかしなことで、それがきっと言動にも滲み出ていたのだと思います。三葉ちゃんの不可解な言動(瀧くんと入れ替わった時の振る舞いや、通行人に「みんな死んじゃう」と触れ回るなど)には、状況は違っても強い共感がありましたし、父親と向き合った時、「妄言は血筋か」と吐き捨てられるシーンには息をのみました。


 物語は大人になった三葉ちゃんと瀧くんが再会することで、所在のなさも妄言も肯定します。やはり自分は自分ではない人と入れ替わっていて、思春期の妙な言動もきちんと理由のあるものだったことが証明されるのです。私は未だに所在のないあの頃の私を救えません。ただ、それを肯定しても良くなったのかもしれないということだけが衝撃でした。


 『君の名は。』を観ても、私は泣きませんでした。しかし、ふたりが大人になってから落ち着いて再会したように、あの頃どんなにあがいても不安でも、大人にならないとわからないことがあるのです。そのことが視覚化されただけで、この映画があって本当に良かったと思います。欲を言えば、『君の名は。』が10年前に公開されて、あの頃の私達を救って欲しかったということだけです。(姫乃たま)