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イーストウッドは“重厚な余白”をどう作ったか? 松江哲明が語る『ハドソン川の奇跡』

2016年09月28日 16:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Warner Bros. All Rights Reserved

■実話の映画化は、“裏側”が重要
 トム・ハンクス演じるサリー機長の悪夢から本作は始まります。飛行機がニューヨークの市街につっこみ、大惨事となるその夢は、ありえたかもしれない未来です。この描写が冒頭にあることで、サリー機長の苦悩や、繰り返し挿入される飛行シーンの回想がより生きたものになっています。


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 本作で描かれている飛行機事故は、故障から着水まで、時間にすればわずか数分の出来事です。この題材をジェリー・ブラッカイマーが制作していたら、実際に5分で終わる映画になっていますよ(笑)。でも、イーストウッドはその5分ほどの出来事を、1秒単位も無駄にできないという繊細なスリリングさで描いていきます。多くの人が知っている実際にあった事件であり、サリー機長が“英雄”とされていることも事実として知られています。それでも、あの事件の裏に何があったのか、サリー機長の選択が本当に正しかったのか、観客である僕らの認識をグラグラと揺らがせる作り方をしている。


 実話の映画化って、みんなが知っているのはこんなことだけど、でも裏側ではこんなことがあったんだよ、と示すものですよね。本作でいえば、サリー機長は飛行機事故から155名の乗客を救った英雄のはずなのに、事故調査委員会に追及されていたという点が重要です。フラットに事実だけを伝えるのは、映画ではなくニュースであって、裏側にドラマがないと映画にはならない。それは劇映画もドキュメンタリーも一緒だと思います。


 トム・ハンクスは、これまでも『キャプテン・フィリップス』の船長役や、『プライベート・ライアン』の大尉役など、信念を抱いた人物を演じてきました。それがいつの間にかアメリカという国を背負う役者、アメリカ人の理想の象徴となっていきました。そんなトム・ハンクスが演じている以上、観客の誰もが、サリー機長は糾弾されるような悪人ではないだろうと想像するはずです。でも、昨今の合理主義的な社会においては、サリー機長がとった行動は非難の対象となっても仕方がないかもしれないと、観ているうちに思わされます。それがひとつの仕掛けになっているんです。サリー機長こそが異端なんじゃないかと疑わせるスリリングさが、この映画のポイントのひとつでしょう。


 事故調査委員会がサリー機長を追及する公聴会のシーンは、特に注目したいところです。「私たちの検証の結果、あなたの行動は異常だということになりました」と突きつける感じ。そこにある感情や経験を無視して、理屈だけで通してしまう調査委員会たちの姿は、現在の社会のあり方ーー白黒はっきり付けたがって、些細なことで大騒ぎしてしまう風潮を示唆するものだと思います。でも、最後にはほっとするカタルシスが待っている。やったぜ!という感じではないんだけど、映画があるべき場所にすっと着陸してくれる。それがすごく気持ちいい。


■96分の中に、“行間”を感じさせる編集
 観ているうちに時間の感覚がおかしくなるのも、本作の興味深いところ。サリー機長は事故のショックで不眠症になるのですが、自身の体験してきた過去がフラッシュバックしたり、事故当日の映像がインサートされたり、かと思えばテレビ出演していたり。一瞬の判断で人生が目まぐるしく激変してしまったサリー機長の感覚を、観客も追体験していくような非常に巧みな編集が行われています。そして、シーンとシーンの間にも重厚な余白があるんです。


 行間がある映画というか、カットとカットの間、シーンそのものだけではなく、シーンに映っていない何かがある。近作のイーストウッド映画に外れがないのは、その行間の作り方を知っているからなんですよね。どんなテーマを撮ろうが、どんな手法だろうが、やっぱり面白い。そこが、イーストウッドが映画人に愛される理由でしょう。


 この映画が96分ということが話題になるぐらい、最近は長尺の作品が多いですよね。冒頭、中盤、終盤と定期的に見せ場を作るから、全体が膨れてしまっている。それってDVDの悪い影響だとぼくは思っていて。チャプターで区切られてしまっているというか、飛ばしながら観ても楽しめる構成にしているんですよ。アメコミの映画などは特にそういう印象です。一方で、この映画にはチャプターがない。だから飛ばしてみても全然面白くないと思う。でも、それゆえに「映画を観たなあ」という満足感も大きいです。もしかしたら、もっといいシーンがあったかもしれないけれど、あえて96分でバッサリ切っている感じで、作品としてのまとまりを優先しているのだと思います。


 よく新人の映像作家は、「いいシーンが多くて切れない」って言うんですね。僕も撮っているときには、同じように思うことも多いです。でも、本当に面白い映画って、気合の入っているシーンだけが優れているわけではないんですよ。さり気ないシーンや、ちょっとした実景なども、映画全体の空気がちゃんとできていれば、自然と魅力的なシーンとして浮かび上がってくる。逆に言えば「いいシーンが撮れた!」って思うところほど、先にバッサリと切った方がいい場合もある。いいシーンが100点だとすると、そこだけが目立ってしまって、ほかのシーンが50点に見えてしまうんです。


■無名のキャストも輝かせる、イーストウッドの手腕
 そういう意味で言うと、イーストウッドの作品は、どのシーンもテンションが一定です。だからトム・ハンクスのようなスターも、無名のキャストも、フレームの中に入ったらすべてが“生きている”人として輝いて見える。名も無きニューヨークの人々も、重要なキャストになっています。たとえば、サリー機長がテレビ出演することになった際に出てきた、メイク係の女性。彼女はサリー機長のことを英雄だと讃え、「うちの母は独身なんですよ」と言ってキスをします。彼女はこのシーンにしか出てこないんだけど、グッとくるものがありました。彼女の一言で、母親がどんな気持ちであの飛行機事故を見ていたのか、サリー機長と会う娘に母はどんな言葉をかけたのか、彼女の家族にはどんな背景があるのか、一瞬で想像できる。


 また、サリー機長が滞在するホテルの女性従業員が「ホテル総出であなたをお守りするので、何でも言って下さい」と声をかけるシーンもよかった。機長は「このクリーニングをお願いします」と返すんだけど、それに対して女性は「そんなことならいくらでもやりますよ」と言って機長に抱きつくんです。このシーンには、つい涙腺が緩んでしまいました。イーストウッド映画にはただの“背景”となっている人物がいなくて、それだけで感動させられてしまいます。


 イーストウッドが描く主人公は、自分の“正義”を掲げることで孤立しています。この“正義”は、先述したようにアメリカの理念であり、主人公はアメリカ人の理想像です。それが時代によって、『ダーティー・ハリー』『センチメンタル・アドベンチャー』『グラン・トリノ』『アメリカン・スナイパー』と変わってきました。扱うテーマやカラーはそれぞれですが、イーストウッドはその時代ごとに、主人公に“アメリカ”を託してきたんです。そして、彼らの孤独に寄り添うのは、いつだって同時代に生きている市井のアメリカ人でした。主人公と人々の関係性の描き方は、本当に素敵です。


 『ハドソン川の奇跡』は、そんなイーストウッドの作品群の中でも、いい意味でサラッとしているのが素晴らしいと思います。まるで書の達人が最後の“点”をさりげなく打つ感じというか。大仰なことはしていないんだけど、クリント・イーストウッドの映画作りの精神と、伝えるべき物語のテーマが合致した傑作といえるでしょう。(談:松江哲明)