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『レッドタートル ある島の物語』は"人生そのもの”を提示する 天才アニメーション作家の成熟

2016年09月28日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c) Kazuko Wakayama

 「このスタッフがほしい。このスタッフがいれば、俺もやれるかな」長編アニメの製作を引退したはずの宮崎駿は、本作『レッドタートル ある島の物語』を観て、プロデューサーの鈴木敏夫に、そのようにつぶやいたという。


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 荒波にもまれ、ある浜辺に打ち上げられた、ひとりの男。彼は周囲を見回すため山に登ると、そこが小さな無人島であることを知る。『レッドタートル ある島の物語』は、そのように始まる。不幸中の幸いなのか、そこには、生き伸びるための最低限の自然が用意されていた。木の実を採ることができる木々、飲み水が得られる泉、魚を捕ることができる浅瀬、あらゆる建材になる竹の林、そして、蟹がたわむれる浜辺と広大な星空……。しかし、そこには人間がいない。彼は、人恋しさと自分の境遇に落胆し、誰もいない浜辺でひとり慟哭するのだった。


 都市生活には希薄な、生き物が命を奪い合い、いつでも死が隣り合わせにある自然。本作はそのような、きらめいても残酷にも見える世界が、ピンと研ぎ澄まされた美しさで描かれ、静かな緊張感に包まれている。その世界のなかを、ひとりの男が走り、泳ぎ、食べ、殺し、叫び、もがき、苦悩する。それは、すべての人間の生活、人間の存在を凝縮し抽象化した姿のように見える。


 マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。この、ちょっと舌を噛んでしまいそうな名前の人物が、これまで、きわめて質の高い短編のアート・アニメーションを製作してきた、オランダを代表するアニメーション作家だ。なかでも、2001年のアカデミー賞短編アニメーション部門賞をはじめ、世界で多くの賞を獲得した『岸辺のふたり』("Father and Daughter")は、人間の情熱や、父と娘の関係が雄大な時間の流れと繊細な描写によって紡がれていく、イジー・トルンカやユーリ・ノルシュテインら大巨匠の作品と比べても遜色のない、アニメーション史に輝く真の傑作と呼ぶに相応しい作品だった。たった8分という短さにもかかわらず、あまりに情感を揺さぶられるこの作品は、監督の過去の短編とともに日本で2004年に劇場公開されるという異例の事態まで引き起こした。


 スタジオジブリは今まで、自社で作品を制作しながら、同時に海外の優れたアニメーション作品を紹介し、国内の劇場で上映するような活動も行ってきた。そのおかげで我々日本の観客は、ミッシェル・オスロ監督の『キリクと魔女』や『アズールとアスマール』、シルヴァン・ショメ監督の『ベルヴィル・ランデブー』や『イリュージョニスト』、アレクサンドル・ペトロフ監督の『春のめざめ』、イグナシオ・フェレーラス監督の『しわ』、そして高畑勲監督や宮崎駿監督に決定的な影響を与えた、『雪の女王』と『王と鳥』という珠玉の名作をスクリーンで、またヴィデオによって観る機会を得ている。


 これらの作品に共通するのは、優れた世界観、社会観、人生観が備わっているという点であり、人間の本質を正面から写し取っているという点だ。これから20年後、100年後、そしてその先も、本当にアニメーション作品が後世まで残るとするならば、このような作品だろう。そのなかに、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』や、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』も名を連ねるはずである。このような真の傑作と呼べるような作品に必要なのは、作家としての成熟と信念に他ならない。


 そして、あまりに見事な『岸辺のふたり』を完成させたマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督もまた、そのような作家であることは間違いない。2006年に作られた『紅茶の香り』("The Aroma of Tea")は、(タイトルから想像すると、紅茶の香り成分の粒子なのか)何の説明もなくただのドット(点)が主人公となっており、それが抽象的な風景のなかを延々と動き回るというだけの作品だが、そこには、複雑なドラマが描かれた作品などよりも、はるかに情感を帯び、人生の真実までをも映し出されているように感じるのである。これは紛れもない天才の仕事だ。


 本作は、スタジオジブリがはじめて海外の監督を招聘し制作した長編作品だ。フランスの制作会社に協力を仰ぎ、海外スタッフによる作品づくりをするという画期的な企画なのである。その核となる脚本と画コンテは、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督が都内に移り住んで、高畑勲に助言を与えられながら作ったという。そして依頼から足掛け10年の月日が流れ、とうとう本作が完成した。これは企画から14年の歳月を要した超大作である、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』にも迫る。作家として充実期にある天才の10年は、あまりにも重い。このような作品を楽しめる機会は、我々観客にとっても何度もないはずである。


 無人島に流れ着いた男は、ある赤い亀と出会うことによって、人生を一変させることになる。この日本の民話などにも近い物語は、何かの教訓を観客に与えるようでいて、解釈の余地は果てしなくひらかれている。この内容の意味については、評論家などの考察は無用である。『紅茶の香り』がそうであったように、作品内の出来事を個々の観客が楽しみ、自分の人生観や体験と重ね合わせ、何年も時間をかけてゆっくりと考えていけばよい。そこには、もはや「傑作」とか「映画」の枠すら超え、人生そのものが提示されている。このような、人生といつも共にあるような作品と巡り合うことができるというのは、幸運なことではないだろうか。アニメーションを愛する者はもちろん、人生を生きているすべての観客に、本作を劇場で体験してほしい。(小野寺系)