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荻野洋一の『怒り』評:森山未來、綾野剛、松山ケンイチらの熱演が作品にもたらしたもの

2016年09月28日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016映画「怒り」製作委員会

 『悪人』(2010)の原作者・吉田修一、監督・李相日、撮影・笠松則通、プロデュース川村元気らが再び結集した新作『怒り』を見て、なにより惹きつけられたのが、演者陣の熱演のすごさなのだが、演技というものは「これでじゅうぶん」という限度がない。作品内容のポテンシャリティを、演者が完全に越えてしまっている。スクリーンを見る側は、遠慮することなく彼ら演者に連れ去られていくべきだ。


参考:妻夫木聡と綾野剛、『怒り』の関係性はなぜ愛おしい? “裏の感情”を忍ばせる芝居の深み


 とはいえ、この映画に疑念を感じなかったと言ったら嘘になる。演者の熱演ぶりと作品構造そのもののバランス感覚には、どうもブリー・ラーソンにアカデミー主演女優賞をもたらした『ルーム』と似かよった匂いがする。そこのところを、うまく言えるかは心許ないが、すこし考えてみたい。変な言い方だが、映画には「倫理」は厳然としてあるが、「道徳」はない、ということ。殺人犯に同情するのは不道徳なことだが、それは映画を見ているあいだは許されるのである。つまり「道徳」なんてものは現実社会にまかせておけばいい。むしろ『怒り』というフィクションを通じて考えたいのは、「倫理」の方なのだ。


 映画の最初で、殺人事件が起こる。そして(未見の読者のために詳述は控えるけれど)犯人が逃亡して1年が過ぎようとしている。3人の容疑者らしき男を、今をときめくスター俳優が演じ、私たち観客は3つのストーリーを並行的に見ていくことになる。松山ケンイチ、森山未來、綾野剛。この怪しげな3人のうち、真犯人は誰なのか? ——それを当てられる材料を、観客は終盤まで与えられない。雑誌「キネマ旬報」誌上で映画評論家の北川れい子氏は、真犯人のストーリー以外のあとの2つのストーリーのことを “引っかけ” と評している。これは言い得て妙ではないか。


  “引っかけ” とは受験用語であり、解答者に思い違いを引き起こす装置だ。この “引っかけ” に気付けるかどうかが、試験の合否を大きく左右するだろう。“引っかけ” 問題を映画の犯人捜しに採り入れるのはもっぱら探偵映画の役目で、大上段に構えて真面目なこの映画が、はたして探偵ごっこをしようとしているのかと問われれば、答えはもちろんノーである。


 この映画に瞠目させられてしまうのは、“引っかけ” の正解者にはなんの特典もない点で、むしろ積極的に演出側のミスリードに引きずられ、3つの愛と不安と疑惑のストーリーに揺られて船酔いを起こした観客に、報酬が待っている。後半では映画3本分の感動と慟哭が一挙に襲いかかってきて、精神的に不安定な観客の方はあらかじめ注意した方がいい。それくらいのハードパンチを映画から受けることになる。


 愛することとは、信じること。どこまで人は、愛する人を信じ切ることができるのか? ——『怒り』は、たがい連繋しないストーリーを、そんな紐帯で結びつけている。李相日は紐帯として、次シーンの音の先行や、逆に前シーンの音残しを多用している。3つのストーリーをスプリットさせている点について、川村プロデューサーは次のように述べている。「李監督と話した結果、クラブDJ的な考え方で作品本体を組み立てることになりました。クラブのDJって曲をなめらかに繋ぐため、次の曲を途中からかすかに流して馴染ませてミックスさせますけど、音響的にそれを応用した編集をやっています」。


 レコードからレコードへ。イントロからイントロへ。そして、物語から物語へ。そうたしかに、スイスの映画作家ジャン=リュック・ゴダールは、物語=歴史(フランス語のhistoire[イストワール]という単語は、物語[story]という意味と歴史[history]という意味の両方をそなえている)をモンタージュし、たがいに離れた物語=歴史を繋げてしまうことが映画だ、と述べ続けている。1. 真犯人の物語——2. 真犯人でない男の物語——3. 真犯人でないさらにもう一人の男の物語。これらを縫合する紐帯「——」を、人は映画と呼ぶことになるのだろうか?


 いや、どうもこの映画『怒り』は、ゴダール的モンタージュの曲解、もっときつい表現を使うなら歪曲によって成り立っている可能性がある。さらに言うなら、曲解や歪曲によってさえ、このような強度を生み出しうる映画というメディアのすごさ、そして李相日という監督の豪腕ぶりを、本作は逆証明しているかもしれない。


 観客をミスリードするモンタージュ。それは映画の序盤で、殺人事件を特集した報道スペシャルで流される犯人のモンタージュ写真がその代表例だろう。ご丁寧にも女装姿まで用意されたそのモンタージュ写真が、意図的に松山ケンイチにも森山未來にも綾野剛にも見えるように作られている。真犯人/えん罪の敷居はどこまでもあいまいで、そのあいまいさはあたかも、私たち人間が一歩まちがえれば、殺人犯にも被害者にも、さらには密告者にもなりうる、という不確実性を訴えかけるかのようである。仮に誰かが真犯人だったとしても、ではそれ以外の者が犯人になる(あるいは被害者になる、あるいは愛する人を容疑者として通報する)要素を持ち合わせていないとは、言い切れないのである。


 いかなるモンタージュ的紐帯で作り手が、関係のないもの同士を縫い合わせようと、鮮血で殴り書きされた「怒」の一文字が暴力原因として提示されていようと、はたまた、殺人とは関係のないあとの2つのストーリーにもたっぷりと感動装置がしかけられていようと、ミスリードによって観客を弄んでいる咎はまぬがれない。モンタージュによって観客を騙すという「ゲーム」を本作は巧みなさばきでしかけて観客を揺るがし、それでいて「ゲーム」の遊戯性が生み出さずにはいられない「不謹慎さ」というものを、豪華俳優陣の容赦のない熱演と、そして感動装置の発動によって意識的か無意識的かはともかく完璧に覆い隠してしまっている。殺人事件捜査をめぐる「ゲーム」の遊戯性と、骨太人間ドラマの感動装置が危うい共存を果たした映画としては、水上勉原作、内田吐夢監督の『飢餓海峡』(1965)、松本清張原作、野村芳太郎監督の『砂の器』(1974)などが挙げられる。はたして『怒り』はこの両作に並びうるや否や。


 古今東西の映画は歴史的に、不埒なほどに膨大な人数の殺人者を、魅惑的に描いてきた。映画というものは、殺人者の言い分にしばし聞く耳をもつ、さらには彼(彼女)の破滅に際して涙を流しさえする、という点では、「道徳」の側面に対してはおそろしく寛容な表現手段である——いや16~17世紀の殺人作曲家カルロ・ジェズアルドの書く宗教楽曲やマドリガーレが、この世のものとも思えぬ美しさを湛えていたように、芸術すべてが本来的に不道徳なものなのだろう——その一方で、モンタージュをめぐっては「倫理」の違反ないし不在に対してはつねに取り締まりが厳しい。『怒り』の遊戯性と感動の両立のしかたは、映画の倫理に従うならバツなのではないか。そして、この点で批判的な論議を開始することについて、この映画の作り手たちは、意外に歓迎するような気がしてならない。この映画を語るに際し、ゴダールだの内田吐夢だのを机上に乗せてくれるというなら、大いにやろうじゃないか。そう述べる彼らの声が聞こえてくるようだ。(荻野洋一)