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スピルバーグ新作『BFG』が描く“映像と言葉”の狭間ーーソフィーの夢はなにを意味する?

2016年09月27日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.

 『E.T.』のスピルバーグとあのディズニーが贈る巨人と少女の物語。予告編を見ていてもそのくらいの情報しか伝わってこないのだが、この組み合わせを受けて、よしこの映画で“夢”を見に行こう、などと思ってもそれは無理な話だ。『BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』は夢を見る映画ではないから。この映画では、“夢”は見るものではなく聞くもの、その微かな囁きに耳を傾けるものだからだ。


参考:スピルバーグが『BFG』で甦らせたテーマとは? 「夢」を通じて描く、創作者へのエール


 「おれが言うつもりのことと、おれが言うことは、いつも違ってしまう」。やさしい巨人BFGはそんな内容の言葉を、たしか二度ほど口にする。より直訳風に訳すなら「おれが意味すること(what I mean)と、おれが言うこと(what I say)とは、ふたつの異なるものだ」、そう言っている。その言葉を発する直接のきっかけは、人間界から連れ去られてきた少女ソフィーが、なんだか彼の言葉遣いがおかしいと指摘するからである。人は「人豆=ヒューマン・ビーン」ではなくて「人間=ヒューマン・ビーイング」だ、とか、さまざまな動物や野菜の呼び名がおかしい、とか、彼女が指摘するのを受けて彼は上記のように返す。


 言うつもりのことと言うことが違う、つまり言葉の意味と言葉の響きが別のものになってしまうというBFGの嘆きは、文字で書かれたロアルド・ダールの原作においては特に疑いもなく了解することができる。例えば映画では省略された人喰い巨人のセリフには、「チリの人豆(チリ・ビーンズ)が喰いたい。チリの豆はエスキモーの次に冷たい(chilly)からだ」というようなものがあり、そうした意味と響きが横滑りして重なり合うような言葉遊びがふんだんに盛り込まれているからだ。


 それに対して、映画版における件の言葉がどこか引っかかりをもって聞こえてしまうのは、そういう言葉遊びが省略されている箇所が多いからというよりも、そもそも観客としての我々にはBFGが言うつもりでないことを言っているようにはまったく見えないからだ。


 物語の最後まで、BFGがソフィーに対して心にもないことを言ったり、誤った言葉遣いによって彼女を傷つけてしまうようなことは、一度たりともおこらない。もっと言えば、ソフィーがおかしいと指摘するものの呼び名でさえ、BFGが意図したものと彼が発した言葉との間で食い違いが生じているようには思えないのだ。たとえば「お化けキュウリ」なる野菜ならば、彼がまず奇怪な発音でその名を呼び、ついでグチュグチュネバネバした「お化けキュウリ」の映像がこれがそうなんですよと提示されるのを見ると、それが本来のキュウリ=キューカンバーとどこがどう違うかなどと考えるよりまず先に、ああこれがそうかとすんなり受け入れてしまう。言葉の響きとして聞こえたものの後に、指示された対象が映像として映し出されるとき、BFGが言うような両者の間の違いやズレをほとんど意識せずに見てしまえるのである。


 にも関わらず、原作通りに発せられるBFGの言葉は、彼が言葉というものをうまく扱えないことを示すというよりも、むしろ彼が言葉の響きに対して人間たちよりはるかに繊細な感覚を持ち合わせていることを示している。あの巨大な耳は伊達ではない。特に違和感なく合致しているように感じられる言葉の響きとそれが意味する映像との間にさえ、それでもなお決して埋め得ない溝が存在することを彼は聞きとるのである。


 BFG風に言うならば、「映像と言葉は、ふたつの異なるものだ」。もしこの映画の中で唯一、言葉とそれが指し示す映像が明らかにまったくかみ合っていないように感じる箇所があるとすれば、それはBFG本人とその呼び名に他ならない。「ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」、そう初めて彼が名乗るとき、ソフィーも観客たちも既に彼の体が他の巨人たちと比べて全然「ビッグ」じゃないこと、むしろかなり小さいことを知っている。しかし本人はそれをまったく気にする様子もなく、その名前をつけてくれたのが、ソフィーより前に巨人の国にいたひとりの少年なのだと告げる。BFGが救うことのできなかったその少年の存在が彼の心に暗い影を落とす業を背負わせていることは、物語が進むにつれて明らかになっていくが、BFGは少年のつけてくれた名前とともに「映像と言葉は、ふたつの異なるものだ」という業をも負って生きている。


 映像と言葉というふたつの異なるものの間で生きることの重大な意味は、BFGの仕事である夢の捕獲作業に関わっている。まず第一に、この映画において夢とは言葉なのだ。たとえ夢が放つネオンライトのような光で輪郭が映像としてかたちづくられることはあっても、影絵のようなものとして映像化されることがあっても、それらは副次的な要素に過ぎずすべてはBFGが夢を聞き取ることから始められなければならない(ソフィーとBFGが人間の子供に吹き込んだ夢を考えてみるといい。合衆国大統領が、その子供の「噂を聞いて」「相談するために」「電話」をかけてくる映像なんて、BFGの解説なしに影絵だけを見ていてもまったくなんのことだかわからない)。


 そして第二に、夢とは過去であり未来なのだ。ソフィーとBFGがふたりで捕まえたふたつの極端な夢が、その特性をわかりやすく示している。まずとびきり最高のすばらしいものとして捕獲される夢は、BFGの語るところによるとどうもソフィーの未来を物語っているらしく、そして非常に危険な悪夢として捕獲されるもうひとつの夢は、取り返しのつかない過去へのどうしようもない後悔(明らかにはされないものの、どうやらBFG自身のものに思える)をささやいているらしい。


 つまり夢とは、いいものであれ悪いものであれ、やがてやってくるはずかもしれないし、既に過ぎ去ってしまったものかもしれないが、いまここにある映像とはズレたなにかなのである。喩えるなら、夢をつかまえるときに、ソフィーが「肘のところに止まってる。そっちじゃなくて反対の肘!」と言葉で指示し、それに合わせてBFGが動いても、言葉と動きの間のズレは一向に縮まらず、全然夢をつかまえられないように。そうした言葉と映像の絶え間ない追いかけっこが続く限りにおいて、BFGが言葉と映像のズレを積極的に引き受ける限りにおいて、彼はソフィーと一緒にいられる。


 元来、音と映像の完全なる同期は大きな快楽である(この映画の中でさえ、「プップクプー」なる飲み物を飲むくだりの、映像と音の完全なる一致にある、あのディズニー的多幸感!)。だが『蒸気船ウィリー』以来音と映像の幸福なシンクロを追求してきたはずのディズニーという会社プレゼンツのこの作品で、最後にやってくる言葉と映像の同期の瞬間は、どこか悲しい。人間界に戻ってきたソフィーはある朝目覚めて、BFGと過ごした巨人の国の細部を言葉で描写し始める。


 彼女が物語ると同時に、カメラは寸分の遅れもなく彼女が描写した対象を映し出す。これまで映画が映し出してきた場所も、こんな風になっていたのかという細部も、言葉と映像が完全に足並みをそろえて見せていく。だがそうして隅から隅まで描き出したとしても、そこにもうBFGの姿はない。最後に大きく映し出される彼の笑顔さえ、もうここにはいないもののような、遺影のような感じに見える。


 なぜスピルバーグがBFGの過去に、食べられてしまった少年の存在という影を落とし、それによって言葉と映像のズレを生きるという重荷を背負わせたのはわからない。だがBFGの姿はどこか前作『ブリッジ・オブ・スパイ』の主人公ドノヴァンを思い出させもする。西と東、橋のこちら側と向こう側の圧倒的不均衡の間に立ち続ける男のことを。そうした意味で、BFGのあの慈愛に満ちた笑顔の瞳の奥に流れる哀しみや後悔は、どこかの国家元首に軍隊を派遣してもらうことがなんらかの問題の根本的解決につながるとはとても思えないこの現代にあって、ひとつの道徳的な態度を示しているように見えた。(結城秀勇)