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『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』ーー 最新アニメ映画の音楽、その傾向と問題点について

2016年09月27日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「君の名は。」製作委員会

 実写映画の批評には実写映画の批評の方法があり、アニメ映画の批評にはアニメ映画の批評の方法がある。別に、どっちもやるのがいけないなんてことはないけれど、実写映画の歴史やその批評体系を意識的にとらえてきた一人としては、アニメ映画の批評には迂闊に手を出そうとは思えない。そりゃあ、物語や状況論を論じることはできるけど、それは厳密に言えば映画の批評ではないので。しかし、「映画の音楽」に関してそれなりに一家言ある立場から、今年の夏以降に立て続けに公開された/されるいくつかの日本のアニメ映画の「音楽の使い方」について、いろいろと思うところがたまってきてしまった。というわけで、ここでは「アニメ映画の音楽」に焦点を絞って論考をすすめていきたい。


参考:『君の名は。』なぜ社会現象に? 映像プロデューサーが考察する、大ヒットした3つの理由


 まず、なにはともあれ『君の名は。』である。夏前に試写で観たタイミングですっかり心を奪われ、大ヒットになることも確信したが(もちろん、興収100億を超える国民的映画になるとまでは思わなかったけど)、そこで唯一、小骨が喉に刺さったような感覚が拭えなかったのがRADWIMPSの4つの主題歌の使い方だった。


 古今東西のあらゆる作品を確認してもらえばわかるが、映画の中での歌モノの使い方には大きく二つの原則がある。一つは、(特に主人公クラスの)登場人物が何かを喋っている時に歌モノの歌詞の部分は流さないということ。これはテレビドラマでも同じで、鈴木保奈美の「カンチ!」という叫びを合図に、「ラブ・ストーリーは突然に」の佐橋佳幸が爪弾くギターのイントロが鳴りだし、小田和正が歌い出すと織田裕二が無言で当惑する顔のアップを画面に映す。あれが、あらゆるドラマものの映像作品演出における不文律である(喩えが古い)。


 もう一つの原則は、それでもどうしても登場人物が喋っている時に歌モノを流したいならば(正直言って、そこまでその行為に執着する作り手の気持ちが理解できないが)、普通はミキシング卓の「セリフのツマミ」か「歌モノのツマミ」のどちらかを下げるものだ(それ以前に、原曲の編曲やミックス・バランスや構成にまで手をいれることも多々ある)。そうすれば、観客は「あぁ、ここではセリフに集中すればいいんだな」とか「あぁ、ここではセリフは聞き取れなくていいんだな」とかがわかるわけだ。


 『君の名は。』を観ていて気持ちが悪かったのは、まさにその「セリフに集中していいのか」「しなくていいのか」がわからないところだった。ただでさえRADWIMPSの曲は音楽全体における歌詞の比重が高く、また歌詞の言葉数自体も非常に多い。新海誠監督との綿密な打ち合わせによって制作されたという、それぞれの曲の歌詞にしっかり耳を傾けようとすると、作品のセリフや状況音が邪魔をし、ストーリーをしっかり追おうとすると、野田洋次郎の歌声が邪魔をする。それが、1時間47分の映画で4回繰り返される。


 もっとも、その圧倒的な興収や動員は、このような少数意見は情報処理能力が低い耳の持ち主による難癖であることを証明している。映画から生まれて、今では意味が一人歩きしているあの格言、「Don’t think, feel」(考えるな、感じろ)ってな具合で、多くの観客はあのセリフと歌モノが渾然一体となった作品からフィーリングそのものを感じ取っているのだろう。ちなみに、あの言葉は高校で哲学の先生をするくらいインテリだったブリース・リーのセリフだから言葉に重みがあったんだけどね。


 作品を観た後に新海監督のインタビューを見聞きすると、『君の名は。』において野田洋次郎の声は、登場人物の瀧、三葉と並ぶ3人目の主人公の声なのだという。さらには「ミュージカルくらいのつもりで作った」とまで語っているいる。なるほど、『君の名は。』は「映画=主、音楽=従」の関係にある普通の映画ではなく、映画と音楽に主従関係のない「ミュージカル」だったのだ。そうならそうと、最初から言ってくれればいいのに! そう考えると、本作が一昨年の『アナ雪』以来のメガヒットとなっていることにも合点がいく。日本人は根本的にミュージカルが大好きだ。ただし、ミュージカル映画の名門ディズニー『アナ雪』が当然のようにそうであったように、そして『君の名は。』がそうであったように、そこには映画の作り手と音楽の作り手の一心同体感が不可欠である。単純に人気があるからというだけで、そのバンドの歌モノを『君の名は。』みたいにガンガン本編中に使っていったら大事故になると、今から『君の名は。』フォロワー予備軍には釘を刺しておきたい。


 RADWIMPSに4つの主題歌と劇伴を一任した『君の名は。』の大胆さに比べると、『聲の形』の音楽の使い方はこれまでの定型に収まるものである。つまり、まるでテレビのアニメ作品のようにオープニングテーマと劇伴とエンディングテーマがそれぞれ完全に独立している。


 まず、映画の主題歌という位置付けにあるaikoの「恋をしたのは」。aiko自身が原作『聲の形』の大ファンで「映画のそばにずっといられる歌をうたいたい」(公式プレスより)と語っているこの曲だが、そこはJポップ界屈指の強固な作家性を持つシンガー・ソングライター。映画の余韻とともにエンドロールに流れる主題歌としての役割は十全に果たしつつも、aikoのディスコグラフィーにおいては「通常運転」と言うしかない普遍的なラブソングで、それはCDのセールスへの影響においても同様。そもそも、この時代においてaikoほど安定したシングルのセールスを記録し続けている女性シンガーはいないわけで、作品にとってもaikoにとっても多少プラスになっているのは間違いのないところだろうが、目に見えてわかりやすい化学反応を生みにくいのがaikoのaikoたる所以だ。


 劇伴を手がけているのは、電気グルーヴや石野卓球との継続的な仕事でも知られ、今や日本のエレクトロニック・ミュージックを代表するクリエイターの一人であるagraphこと牛尾憲輔。『聲の形』を観ていて最も感銘を受けたのは、実は牛尾の非常に繊細な音作りだった。ジャンキーXLやデヴィッド・ホルムズを筆頭に、今やハリウッドでもエレクトロニック・ミュージック界出身のクリエイターが劇伴の担い手として大いに活躍をしているが、そこで求められがちなのは観客のアドレナリンを刺激するビートのアタック感の強さや音圧。しかし、『聲の形』における牛尾の仕事は、エレクトロニック・ミュージックの作り手ならではのロジカルな音の配置や、選び抜かれた音色による緻密な音響設計が特徴的で、これまでのいわゆる「電子音楽家の手がけた劇伴」のイメージを大きく更新するものだ。


 『聲の形』の山田尚子監督はもともとagraphの熱心なリスナーで、今回の劇伴制作に関する牛尾憲輔のインタビューを読むと、新海誠監督とRADWIMPSとの「互いの作品への精神的なシンパシー」とはまた違った意味で、かなり技術的でディープな共同作業が行われたようだ。特に感心したのは、牛尾が『聲の形』のテーマである聴覚障害についてとことんリサーチして、補聴器のS/N比の問題から生じるノイズを、ピアノの打鍵ノイズ、離鍵ノイズ、椅子や共鳴板の軋む音などをコントロールすることで表現したということ。これはサンプリング・ミュージックの世界に親しんできた音楽家じゃないとなかなか突き詰められない領域で、監督の特定のミュージシャンへの思い入れと作品的必然性が見事に一致した成功例と言えるだろう。


 しかし、そんな監督の特定のミュージシャンへの思い入れが空回りしているとしか思えないのが、オープニングテーマとして流れるThe Who「My Generation」だ。ロックファンならば知らない人はいない、The Whoによる1964年のこの正真正銘のロック・クラシックが、作品の導入部を終えたあと、いきなりテレビのアニメ番組のような体裁のオープニングカットとともに流れ始めた時は、正直、面食らうしかなかった。聞くところによると山田監督はThe Whoの大ファンで、歌詞を拡大解釈すれば、まぁ、作品と近からず遠からず、でもやっぱり近からずといった内容なのだが、それ以前に、やはりここは作品全体の世界、特に牛尾と共に丁寧に構築した作品本編の音世界を、冒頭から台無しにしていたと言わざるをえない。


 また、さらに根本的なことを指摘すると、「そもそも映画のオープニングに歌モノの主題歌は必要か?」という問題に突き当たる。アニメ界にはアニメ界の流儀があって、多くのアニメ映画がオープニングテーマを当然のように入れるのは、テレビアニメのフォーマットに由来しているのはもちろん承知している。しかし、これだけ一般の観客層にアニメ映画が浸透するようになった今、そろそろ一般映画の流儀に寄り添ったほうがスマートなんじゃないかと思うし、それこそ日本のほとんどの実写映画よりもアニメ映画の方がポテンシャルを持つ、海外マーケットにおいてもより受け入れられやすくなると思うのだ。こういうことを言うと「海外にも『007』みたいな映画だってあるじゃないか」と反論されるかもしれないが、あれはシリーズの歴史と伝統を守ることが至上命令とされている本当に特殊なシリーズですからね。オープニングテーマではなく、オープニングで主題歌の歌モノが流れるというのが、映画にとってどれだけ異様なものであるかということに、もっと作り手は自覚的になった方がいい。


 とは言え、『この世界の片隅に』のオープニングで流れる、コトリンゴによるフォーク・クルセダーズのカバー「悲しくてやりきれない」の作品世界との見事なハマりっぷりを体験してしまうと、「あぁ、こういうのもやっぱりいいなぁ」と思ってしまうから勝手なものである。


 『この世界の片隅に』の主題歌と劇伴を手がけているのは、シンガー・ソングライターであり、現在はKIRINJIのメンバーでもあるコトリンゴ。つまり、『君の名は。』で主題歌と劇伴を丸ごと手がけたRADWIMPSと座組的には同じパターンだ。片渕須直監督作品では、前作『マイマイ新子と千年の魔法』でもコトリンゴが主題歌「こどものせかい」を担当していて、今回はその延長上で「劇伴も」ということになった。


 日本でも海外(バークリー音楽大学)でも専門的な音楽教育を受けているコトリンゴにとって、劇伴制作というのはそれほど難題ではなかったかもしれないが、映画の劇伴を手がけるのは本作が初めて(過去に新房昭之総監督のテレビアニメ『幸腹グラフィティ』を手がけた経験はある)。にもかかわらず、これからこの世界で超売れっ子になる予感しかしない、アコースティック・サウンド主体のとても流麗で温かい、それでいてバランス感覚に優れた(=自己主張の控えめな)素晴らしい劇伴をものにしてみせている。


 『この世界の片隅に』を観ていて何よりも感心したのは、作品全体の「音」そのものが周到にデザインされていることだ。ご存知の方も多いように、この作品で主人公の北條すずの声を担当しているのはのん(ジ・アクトレス・フォーマリー・ノウン・アズ・能年玲奈)だ。のんが歌っているところはドラマ『あまちゃん』でしか見たことがなく、そこでの歌声はあまり印象に残っていないのだが、少なくとも本作において、一世一代の名演技を聞かせてくれるのんの声と、コトリンゴの歌声が、実際に似ているとかそういう次元を超えて、スクリーンの中で見事に一体化していた。作品の導入部に続いて、オープニングテーマの『悲しくてやりきれない』の歌声が聞こえてきた瞬間にゾワッとしたのは、まさにそれが理由だった。このようなマジカルな化学反応がある作品もあるから、映画のオープニングにおける歌モノの存在を一概に「アニメ界だけの流儀」というだけでは否定できない。


 さて、『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』と、一般の観客層もターゲットにした今年のアニメ映画の音楽についてこうして論じてきて改めて思うのは、このジャンルにおける「映画と音楽」との関係が、多くの日本の実写映画と比べて、才能発掘においても、使い方においても、極めてチャレンジングであるということだ。そこではテレビアニメ業界と音楽業界の長年にわたるタイアップの試行錯誤における成果や反省も反映されているのだろうし、実写映画よりも監督の作家性が尊重されやすい環境であることも影響しているのだろう。ここまで細かい問題を指摘してきたが、ここで取り上げた3本の作品は、少なくとも本編の劇伴においては明らかに日本映画全体をリードするものだ。『君の名は。』のメガヒットによって、日本映画界におけるアニメ映画の重要性は今後も増していく違いないが、それはアニメ映画に限らず日本の「映画音楽」全体にとっても、大きな刺激となっていくだろう。(宇野維正)