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『とと姉ちゃん』商品試験の描き方はなぜ批判されたか 元編集者への取材記事から考える

2016年09月26日 10:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『とと姉ちゃん』公式サイト

 商品試験をめぐる顛末と、母との別れが描かれた『とと姉ちゃん』24~25週。


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 アカバネ電器の嫌がらせに端を発した「あなたの暮し」批判は、新聞記事にまで拡大し、常子(高畑充希)たちは商品試験に不正がないことを証明するために、公開試験をおこなうことになる。新聞記者の立ち会いのもと、アカバネ電器を筆頭とする電気メーカーの社員たちが自社の商品の優位性を説明する中、常子たちは次々と論破していき、自分たちの汚名を見事にはらす。


 まるで時代劇の御前試合のように描かれた公開試験だが、実際はどうだったのだろうか? 週刊朝日9月23日号に〈「暮しの手帖」元ベテラン編集長が激白」「とと姉ちゃん」に異議あり!!〉という記事が掲載された。記事の内容は、当初は“出版指導”としてドラマに関わっていた「暮しの手帖」の元ベテラン編集者・小榑雅章のインタビューを通した『とと姉ちゃん』の批判記事だ。


 記事によるとアカバネ電器は架空の存在で、試験をした企業との関係はもっとビジネスライクで文句など言わずに話し合いをしていたという。また、劇中では洗濯機の公開試験だったが、実際におこなわれたのは石油ストーブで、東京消防庁の指導(石油ストーブが倒れて火が出たら毛布をかける)に対する反論としておこなわれたものだという。他にも花森安治の描かれ方などが、あまりにも史実と違うため、8月15日からは「これはフィクションです」と入れてもらうようにお願いしたという。


 史実と較べてどうなのか? という議論は、朝ドラでも大河ドラマでも常に起こることだ。個人的には、フィクションにおける脚色は、多少は仕方ないと考えている。しかしその場合は、モデルとなった人物や団体(『とと姉ちゃん』の場合は花森安治と「暮しの手帖」の関係者)の体現していた思想や精神は受け継ぐことが大前提である。


 記事を読んでいて、小榑がもっとも憤っているのは、花森安治が抱えていた戦争に対する複雑な内面を単純化して「わかりやすいストーリー」に落としこもうとする作り手の姿勢のように感じた。これは筆者も同意する。


 前回も書いたが、誰の目にも悪役だとわかるアカバネ電器を登場させて、常子たちと対立させる商品試験のくだりはフィクションとはいえ、あまりに物事を単純化しているように感じた。中でも、古田新太が演じる赤羽根社長の見せ方はいかにも悪役という佇まいで、安直だ。過去の苦労を赤羽根社長に語らせることで、単純な悪役ではないと台詞では一応、匂わせてはいるのだが、物語内では尻切れトンボで終わっている。赤羽根社長のような存在を出すのであれば、もっと丁寧に過去を描くべきだと思った。


 これは西田征史の脚本の問題もあるが、どちらかというと演技指導の責任だ。赤羽社長の敵意をむき出しにした、いかにも悪役であるという芝居を見ていると、ここは演出の側がブレーキをかけて、もっと抑制された芝居をさせるべきだと思った。常子を糾弾する新聞記者にしても同様で、こういった安っぽい演技がドラマをダメにしていると思う瞬間が何度もあった。


 商品試験の騒動が一段落すると、美子と結婚する南大昭(上杉柊平)はキッチン森田屋を引き継ぎ、君子は病死する。一方、鞠子の娘のたまき(吉本実憂)が大人に成長して「あなたの暮し」の新入社員として入社してくる。


 女の一代記を描く朝ドラは物語の終盤になると、ヒロインが年をとるため肉親との別れと新しい世代の台頭が必ず描かれるのだが、こういった時間の流れを強く意識させるエピソードが続くと、いよいよ物語が終わりに近づいてきたなぁと実感する。


 商品試験に関しては残念な顛末だったが、常子の物語は丁寧に描き切ってほしい。(成馬零一)