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【大谷達也コラム第3回】“メルセデス”の社名の由来を知っていますか?

2016年09月21日 12:11  AUTOSPORT web

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2014年シーズン以降のF1グランプリでは向かうところ敵なしの強さを示しているメルセデス・ベンツだが、彼らのモータースポーツにおけるこれまでの歩みは平坦なものではなかった。

 みずから「自動車を発明した」と主張するメルセデスは、史上初の自動車レースとされる1894年のパリ-ルーアンにエンジン・サプライヤーとして参戦したほか、より本格的な自動車レースとして広く認知されている1895年のパリ-ボルドー-パリではトップ8がいずれもメルセデスとゆかりのある車両だった。

 もっとも、当時の車両をメルセデスというブランド名で括るのはいささか無理があるかもしれない。もとはといえば、1883年設立のベンツ社と1900年設立のダイムラーが1926年に合併し、ダイムラー・ベンツとしてスタートを切ったことが、現代のメルセデスにつながる自動車メーカーとしての始まりだった。

 この社名は1998年にクライスラーと提携してダイムラー・クライスラーとなったことで消滅。その後、2007年に同社との提携を解消したことでダイムラーと名乗ることとなる。そして我々にとって馴染みの深いメルセデス・ベンツは自動車メーカーであるダイムラーが手がける自動車ブランドのひとつ、というのが正しい理解なのだ。

 では、“メルセデス"という名はどこからやってきたのか?

 1897年に初めて当時のダイムラー車を購入した実業家兼オーストリア総領事のエミール・イェリネックは、やがてフランス・コートダジュールに暮らす富裕層にダイムラー車を転売するビジネスに着手。これが大成功を収めると、イェリネックはダイムラー車のプロモーションを兼ねて自動車レースに参戦するようになる。

 このとき、彼はレーシングカーに“ムッシュ・メルセデス(メルセデス氏)"との名前を付けたのだが、実はメルセデスはエミールの娘の名前、つまり女性名だったのである。

 イェリネックは1900年にダイムラーと販売契約を結び、自らが手がける商品をメルセデスと名付けた。この名が現代に至るまで用いられているわけだが、いずれにせよ、メルセデスの名が最初に用いられたのがレーシングカーだった事実は実に興味深い。

 彼らはその後も継続的にモータースポーツに参戦。1908年に開催された史上初のグランプリとされるフランスGPでメルセデスが優勝するなど数々の栄冠を勝ち取る。

 1914年から1918年にかけては第一次世界大戦の影響で一時的に休止したが、1921年には早くも活動を再開。1923年にあのフェルディナント・ポルシェが主任設計者に就任すると、新たなレーシングカーを開発し、1924年のタルガ・フローリオで優勝するなど国際的な活躍を見せる。

 1932年には世界恐慌の影響で一時的にモータースポーツ活動を休止したものの、1934年には現在のF1に通ずるグランプリレースに復帰。ナショナルカラーのシルバーに塗られたメルセデスのレーシングカーは、同じくシルバーにペイントされたアウトウニオンとともにアルファロメオなどのライバルたちを駆逐していった。

 もっとも、その背景にはドイツの国威発揚を目論むヒトラー政権の支援があったと見るのが一般的だ。しかし、それだけに資金は潤沢で、勤勉なドイツ人技術者たちが先進的なテクノロジーを生み出した恩恵もあり、グランプリレースや速度記録挑戦で“シルバーアロー"は無敵の存在となる。

 しかし、軍靴の響きが迫る1939年にはまたもや活動を休止。1945年に第二次世界大戦が終結してもドイツ国内に残る戦争の傷跡は深く、モータースポーツ活動の再開はままならなかった。

 一時は消えかけた“ろうそく"に小さな火が点ったのは1950年のこと。当初は量産車を用いたツーリングカーレースへの参戦だったが、1951年には早くもレーシングスポーツカーの300SLを開発すると発表。超軽量ボディに直6 3.0ℓエンジンを積んだこのマシンは1952年のミレミリアで2位に入ったのに続き、ルマン24時間では1-2フィニッシュを達成し、メルセデスの復活を高らかに宣言することになった。

 この勢いをかって1954年にはW196Rと呼ばれるレーシングカーでF1に挑戦し、デビュー戦のランスGPで1-2フィニッシュを達成。1955年にはこれをベースとするレーシングスポーツの300SLRを作り上げ、F1と並行してスポーツカーレースにも挑んだ。

 1955年シーズン、W196RはF1で活躍、300SLRもミレミリアで圧勝するなど大成功を収めるかに見えたが、ルマン24時間で300SLRの1台が周回遅れとストレート上で接触。宙を舞った300SLRは観客席に飛び込み、メルセデスのドライバー1人と84人の観客が命を落とす大惨事を招いた。

 この事故を受けてメルセデスはレースを棄権しただけでなく、1955年シーズンの終了を待ってレース活動そのものを休止してしまう。公式には、この判断はルマンでの事故以前に決まっていたとされるが、モータースポーツ史に残るこの大事故が彼らの決定に何らかの影響を与えていたとしても不思議ではないだろう。

 この悲劇の余韻は長く続き、メルセデスは1970年代後半までワークス活動を控えることになる。わずかに行われたのは、プロトタイプカーによる速度記録挑戦だけ。また、現在もメルセデスのモータースポーツ活動で重要な役割を担うAMGが誕生したのは、ちょうどこの時期にあたる1967年のことだった。

 ダイムラー・ベンツの従業員だったハンス-ヴェルナール・アウフレヒトが中心となって同社を設立したことは連載の第1回で触れたとおりで、もともとメルセデスとの資本関係がなかったAMGは2005年にはダイムラーの完全子会社となり、現在もメルセデス・ワークスチームとして様々なカテゴリーに挑戦している。

 ワークス活動を30年近くの長きにわたって中断してきたメルセデスが、いかにして復活を遂げたのか? その物語は次回で述べることにしよう。