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映画『怒り』は妻夫木聡らの実力をいかに引き出したか? 演出と編集の見事さを読む

2016年09月20日 15:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016映画「怒り」製作委員会

 素性の知れない人間が身近にいることに、人はどれだけ敏感だろうか。


参考: 『闇金ウシジマくん』山口雅俊監督 × 岩倉達哉Pが語る、シリーズ6年間の挑戦と進化


 存命していれば今年、生誕80年を迎える映画監督・若松孝二(2012年没)の映画製作プロダクションには若いスタッフがいつもたむろしていた。ある日、「伊藤はいるか?」とコワモテの男が訪ねてきた。借金の取り立て代行人だという。ところが、そんな名前の者は過去も今も在籍したことがない。「うちにはそんな人はいません」若いスタッフは平然と答えて追い返した。本当にいないのだから、怖がる必要もなかった。伊藤孝が若松孝二の本名だとスタッフ一同が知るのは、若松が海外の映画祭に赴くために旅券を取得した時だった。ある事件で拘置されたヤクザが過去を捨て心機一転、カタギの道を歩むにあたってつけた名前が若松孝二――これが当人の明かした過去と本名を名乗らなかった理由である。


 『怒り』には3人の得体の知れない男が登場する。新宿二丁目に現れた大西直人(綾野剛)、千葉の漁港で働く田代哲也(松山ケンイチ)、沖縄の無人島で寝起きするバックパッカーの田中信吾(森山未來)。彼らは1年前に起きた夫婦殺害事件で手配中の犯人の特徴に、どこかしら似ている。整形を繰り返して顔を変えたが、公開捜査によって各地で目撃情報が寄せられる。彼らは各地で上手く他人と交流して、それぞれの家に入り込んで信頼を得るが、関わる大人たちは心の片隅で逃亡犯なのかも知れないという疑心暗鬼に囚われるようになる。 


 本作が英会話学校講師を殺害後、整形を繰り返して2年あまり逃亡して逮捕された市橋達也の事件をベースに、世田谷一家殺害事件などが盛り込まれているのは明らかだが(手配写真もそっくりである)、映画は吉田修一の原作と同じく、この3人を並走して描く。原作を未読でもドラマツルギーからすれば、この3人のうちの誰かが真犯人で、後の2人は無関係に違いないと予想するだろう。本作は犯人探しや犯行理由はさして大きな問題ではない。ひとつの事件の起こす波紋こそが主軸となる。


 では、なぜ犯人の内面を描かないのか。原作がそうなっているから、というのは答えではない。原作が描いていない裏や視点を変えることが可能なのが脚色である。犯人は一軒家に侵入してその家の妻を殺した後も潜伏し、夫が帰って来ると殺害した。そのうえ被害者の血で“怒”という文字を室内のドアに指で書き殴っている。なぜこんな凶行におよんだのか。犯人を知る男から動機ではないかと考えられる証言が出て来る。だが、それは所詮、他人の想像でしかない。 


 本作の監督・李相日は日本映画学校(現日本映画大学)の出身だが、その創設者・今村昌平が監督した代表作『復讐するは我にあり』(79年)は、西口彰事件をもとにした実録犯罪映画である。5人を殺害して全国を逃亡し、最後は滞在先の旅館で10歳の娘(映画では売春婦に変更)が手配写真に似ていることに気づいて通報するのだが、今村は通報する側にはとんと関心を示さず、ひたすら犯罪者の内面と、ピカレスクロマンとしての逃亡劇を主軸に描いた。


 本作でも同様の作劇にすることは可能だろうか? ヒントになる先行作品がある。ディーン・フジオカが監督・主演を務めた『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』(13年)は、市橋の手記をもとにした逃亡劇だが、ひたすら沈鬱な表情で各地を彷徨う。沖縄の無人島の廃墟で過ごす時もひたすら苦悶の表情である。本当にそうだろうか? 逃亡中の彼は、生と自由に執着し、かつてない高揚感に満ちていたのではないか。しかし、映画の冒頭に「本作は、2007年に起きた『市川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件』被告の手記を脚色したものです。被害者とその残された家族に心から哀悼の意を表します」というエクスキューズを出さなければならないような時代では、『復讐するは我にあり』とタメを張る映画は作れない。その意味で『怒り』は、自分のことを誰も知らない地で開放されて生を謳歌する男たちの中に犯人を忍ばせることで、犯罪者の外面を見事に描いた作品と言えるだろう。


 今村昌平と同時代の映画監督・大島渚は、在日朝鮮人・犯罪・沖縄などをテーマにしてきた、まるで李相日の出自と『怒り』で描かれたものを先取りしたかのような存在だが、こう語ったことがある。


 「犯罪が起こるとね、警察はまず動機を知りたがるわけですよ。それからテレビを始めとするマスコミも同じ。動機を聞けば安心するんですよ。『ああそうか、こいつはこういう奴か。だからやったんだ』と。動機の分からない犯罪というのは非常に不気味なんですよ。僕に言わせれば犯罪者なんて動機が分からないからやるんであって、動機があったら犯罪なんてやりませんよ。(略)映画は動機が分からない存在としてある時に、世の中に一番強いんですよ。」(『キネマ旬報1993年10月下旬号』)


 本作の強固さの理由の一端は、そこにあるのかもしれない。真の理由が最後までわからないゆえに喉に引っかかる。ただし、それを不完全なものと思わせずに成立させるには、極めて高い演出技術と演技が必要である。


 実際、誰もが本作の俳優たちの演技がこぞって素晴らしいことに感嘆の声を漏らすだろう。しかもそれぞれの役は、彼らがこれまで演じてきた役のイメージの延長にすぎないのだ。いつも険しい顔をしている渡辺謙、いつまで経っても少女のイメージが抜けない宮崎あおい、おどおどした口ぶりの少女・広瀬すず、いつも最後に泣いてばかりの妻夫木聡、ボーッとしてる松山ケンイチ、己の道を突き進む意志が強そうな森山未來――硬軟自在なカメレオン型俳優の綾野剛を除けば、オファーする側が既存のイメージをなぞることにしか興味がないと思えるほどだ。


 ところが今回は、過剰にすぎることもある渡辺にしては抑制して演じ、今年31歳になる宮崎に少女的な存在であることの必然を持たせてノーメイクで挑ませ、広瀬には米兵からの暴行を受けての痛みと哀しみを演技に背負わせたことで女優としてのさらなる可能性を引き出した。そして妻夫木が髭と笑みの強調だけでゲイにしか見えないことに驚き、いつもの上を向いて鼻を押さえる『涙そうそう』タイプの泣きを禁じて長回しで撮ることで、新たな一面が出た感がある。脇役も、池脇千鶴は見事なほどオバサン感を漂わせ、カフェに座っているだけの1シーン出演の高畑充希など目の動きだけで忘れがたい演技を刻み込む。


 こうした芝居を引き出し、活かした李相日は、原作から枝葉のエピソードを削ぎ落とし、登場人物を整理した脚色も含め圧倒的である。ゲイや米軍基地反対デモ、米兵暴行といった問題意識を過剰化させがちなテーマを違和感なく劇中に配置して描いたバランス感覚といい、重量感のある演出はこれまでの作品と比較しても突出している。


 殊に原作で上下巻、3本の映画をまとめるかのような作業を行うにあたって、〈編集〉を脚本執筆時から意識していたのが成功の大きな要因だろう。特徴的なのがフラッシュフォワードと呼ばれる未来の瞬間を現在の時制にインサートする手法や、台詞のずり上げ、ずり下げである。冒頭の犯行現場を刑事たちが捜査するシーンで、同じ場所の過去、つまり犯行時の犯人の行動を同じタイムライン上に挿入して見せるあたりから、本作の編集技法が見えてくるはずだ。順を追って描いたり回想を入れると尺を食うので効率的に語るためにこうした手法が取り入れられている。それを編集段階ではなく、撮影前から意図したことで、本作の巧みな語り口が生まれている。渡辺謙が娘の宮崎あおいを探し出し、風俗店の店主から話を聴いている画と音を基調にしつつ、店の廊下を進んで娘と対面する画を入れることで、このシーンで描くべきことは埋まる。沖縄の無人島に広瀬すずが友人とボートで乗り付け、ひとりで島を歩き、廃屋を見つけるくだりも同様の手法で大幅な時間短縮が行われ、観客もそのテンポの良さに心地良くひたることができる。


 本作の編集が巧みなのはフラッシュフォワードだけではなく、意識的に記号や感情で繋げたことだろう。例えば犯行時に犯人が被っているキャップの次のカットは、繁華街で娘を探して歩くキャップを被った渡辺謙である。宮崎が聴いている音楽をイヤホンで渡辺に聴かせると音楽が大きく鳴り響き、新宿二丁目のゲイパーティへと移行する。コンビニ弁当を食べる松山ケンイチ→コンビニでおにぎりを手に取る綾野剛もそうだが、記号による接続で無関係なエピソードが観客にとっては繋がりを持ち始める。


 台詞も同様で、沖縄の少年が広瀬を映画に誘おうとして言い出せない次のカットで、渡辺が松山に「最近、愛子とちょくちょく出掛けているみたいだな」と言うように、別のシチュエーションで前のシーンで寸断された台詞の続きを聞かせることで、観客はシームレスに3つのエピソードを観ることができるようになる。愛子の「私わかるんだよ。泣いたって誰も助けてくれない」という自身の経験を語る言葉は、観客にとっては当然、広瀬が暴行を受けるシーンに繋がっていく。また、綾野にバックから挿入する妻夫木→米兵にバックで犯される広瀬、三角座りしている綾野に妻夫木が近づく出会いのシーン→沖縄の少年の部屋へ森山が入っていくシーンへと、状況は違えども同じポーズが反復されるところから、3つの物語がやがてどこへクローズアップされていくかを予感させる。


 こうした見事としか言いようがない工芸品のような作りで142分、一瞬たりとも退屈させない。だが、後半に行くにしたがって疑問がわいてくる。これが実は同時間軸と思わせているだけで、3人が同一人物を演じているのなら良いが、そうでないなら、手配写真に似ているのはいいとしても、特徴的な黒子の位置まで同じとは偶然すぎではないかと思えてくる。それまで人のよかった3人のうちの1人が、性格が急変したような行動を取るのも唐突すぎる。


 肝心の怒り――当事者に直接ぶつけられずに他者へ怒りの矛先が向かう理不尽さが、巧みな演出と演技と編集で誤魔化されてしまったような違和感が増してくる。本作のプロデューサー・川村元気は「物語の中心、核心部がドーナツの穴みたいになっていて、空洞であることにちゃんと意味がある。(略)映画にするならば、周りの生地を描写しながら、穴と生地との境目も見せなければならない」(『キネマ旬報 2016年9月下旬号』)と語るが、確かに意図通りの映画になっている。生地がみっちりと詰ったドーナツは食べごたえがある。ドーナツの穴を欠陥品と呼ぶ者はいない。だが、最初から穴であることが自明になりすぎてはいないだろうか。周辺の生地を噛むとまるで穴などなかったかのように生地が広がるところまではいかないところに物足りなさを感じてしまう。


(モルモット吉田)