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サエキけんぞうの『ザ・ビートルズ』評:映画の主役は4人ではなく、全世界のファン

2016年09月19日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Apple Corps Limited (c)Bob Bonis Archive

 ビートルズは、デビューから1970年の解散、2016年の現在に至るまで未だに前人未踏の最前線を歩み続けている、そう感じさせる快作ドキュメンタリーがこの作品だ。


参考:サエキけんぞうの『君の名は。』評:アニメだから表現できた、人物と都市描写の“快感”


 ビートルズには、多重録音ポップスの開発、ループ・ロックの発明(ヒップホップの親)など、明らかに“発明”といえる案件が多い。解散後も、死んだメンバーとのセッション曲をチャート一位に放り込む(「フリー・アズ・ア・バード」(1995年)、クラブ系の最新技術だったマッシュアップでのアルバム制作「LOVE」(2006年、シルク・ドゥ・ソレイユサントラ)、そして昨年の『1』では、デジタル・リストアにより60年代映像を信じられないほど精細にする、など、今の今まで、技術面で前人未踏のトライを成功させ続けているのだ。


 もちろん、今の制作の担い手は、故ジョージ・マーティンの息子ジャイルズ・マーティンを筆頭とした、新しい世代に委ねられている。が、なお必ず“新しい地平”を作り出す気勢が満々なのだ。ビートルズの遺伝子は「何が何でもそれまでにない画期的な作品を創る、そうでなければビートルズではない!」という揺るがない矜持を持っているからなのだ。


 そうした視点で見ると、本作にも“ビートルズの革新性”が至るところで“発見され、織り込まれている”画期的な作品になっていることに驚嘆させられるだろう。


物語はデビュー前の1962年、リバプールのキャバーン・クラブから始まる。まず圧倒されるのは、ファンの想像を絶する熱狂だ。日本では、ビートルズの解散後は、ベイ・シティ・ローラーズやクイーン、そしてジャニーズ事務所所属グループなど、続々と凄まじい人気のグループが現れたために、そのおりおりの現役感にあてられ、ビートルズへの興奮は、過去の物と霞んでいった感があった。


 しかし、この映画で確認できるのはビートルズの起こした熱狂は記録を検証すればするほど凄まじいものだということ。それまでにもちろんないし、その後も超えるバンドはいない、文字通りの空前絶後の現象であったことが、数々の映像資料で味わえる。例えば、1964年6月のオーストラリアで、空港から街まで15キロの道には、何と約25万人の群衆がビートルズのために集まったという。その数はちょっと凄すぎないだろうか?
 
 ビートルズのファンの熱狂の映像といえば、今まで出演1作目の映画『ビートルズがやって来る/ヤア!ヤア!ヤア!』や、昨年の『1』などで断片的に知らされてきた。しかし本作では「ビートルズ現象とは何だったのか?」という視点から、徹底的にファン目線で狂躁の量と質が点検される。何と言っても興奮した少女達の表情がたまらない。「え? 女子って熱狂するとこんな顔するのか?」とうならせられる陶酔の表情が凄い。しかしその反対にボーっとして、一見よく想いが読み取れない女子、あるいは何故か冷静な女性もいる。今までのバンド映画はあくまでアーティストが主役だったが、ここでは“ファンが主役”なのである。ファンの様々な熱烈ぶりを観察しているだけでも面白い。


 こうした様子は、ファンもあまり知らなかったであろう人間によって証言される。例えばラリー・ケインというジャーナリスト。21歳でマイアミのラジオ局にいた時に、ビートルズにちょっと同行するつもりが64年、65年の全米ツアーに唯一同行することになった人物だ。彼の口から語られる4人は、米国の場でもいっそう気さくで、人なつこい。そんな飾りけのないメンバーが、巨大な大陸の熱狂と対峙する様子は、今まで知られてなかった鮮やかなレアさがある。


 さて、音楽技術の更新により、長らくポップスは進化しているものと考えられてきた。だからビートルズの作品までが時代遅れと考えれたこともあった。特に初期の作品はその対象だった。しかし、万能なはずのコンピュータ音楽やサンプリング音楽のマンネリ化により、どの時代のロックにもその時代の使命と成果があるという考えが徐々に浸透してきていることも、この映画の感慨を後押ししている。前期ビートルズのライブ演奏は、その後にブレイクするハードなロックに負けない輝きがあるのだ。


 特に併映される米シェイ・スタジアムのライブは、リマスターされることにより、貴重な60年代前半のビートルズのライブ演奏の凄さが味わえる。客の熱狂が共にあることも重要だ。初期のライブを味わう障害になっていたのが「ビートルズは歓声がうるさすぎて演奏が聞こえなかった」「客は曲など聞こえなかった」、だからビートルズのライブは価値がなかった?という逸話だ。聞こえなかったことは間違いではない。だが認識を改めなければならないのは、ビートルズは、少なくともツアー終盤までは演奏に前向きだったことだ。特に観客の熱狂をポジティブに受けとめながらライブに向かっていたという事実が、現在のリスナーの認識に強く影響するはずだ。


 ジャイルズ・マーティンは「観客の熱狂で自分の演奏が聞こえないのにどうしてあんなに見事な演奏ができたのか? きっと筋肉が記憶していたんだろうね」と週刊朝日掲載のインタビューで述べている。気配と筋反射の記憶、それでバンド演奏ができるか?と驚かされるが、実際にそうだったようだ。


 監督ロン・ハワードは、同誌で「一気に最後まで見たくなる冒険物語にまとめたかった」といっている。風呂もなく、4人が同じ部屋で泊まり続けなければならないハンブルグの下積み時代から想像を超えた結束を持っていたビートルズ。そこから一気に成功の階段を駆け上っていく状況は、まさに冒険物語と感じるのにふさわしい。スターになることは、ストレスの生成など音楽にとってマイナスなイメージがある。しかし売れている熱狂も、音楽にとってマイナスだけではない、という前向きなエネルギー描写が、意義深く“冒険物語”というコンセプトを裏打ちする。本作の日本限定のポスターや報道に多用されている「4人が武道館のステージに上がる後姿」のモノクロ写真は、これからライブするという極度の緊張が4人の肩に現れていて、まさに決闘に立ち向かう騎士の双肩が写されたようだ。


 ところでビートルズは政治的なメッセージも放ったが、ジョン&ヨーコのその後の活躍により、それはもっぱらジョンの意向によってもたらされた?という認識がある。


 この映画ではそんな考えも改まる。ビートルズは米ツアーのフロリダで、飲食も同じ場所でできない凄まじい黒人差別の状況に対して4人でNOといったのだ。「人種隔離された観客の前では、演奏を要求されない。隔離するなら、行かない。人々のために演奏する」といいきった。4人の考えは強固だった、と述されている。主張が多岐になるサイケ時代の前のこと、歌の内容が恋物語中心だったときに、すでに最も激烈なビートルズの政治的な行動があった。


 後に歴史家となった黒人女性のキティ・オリバー博士は、母親に連れてってもらったこのライブの感動を語り「若い4人の世の中の見方に驚かされた。アメリカ人の多くを刺激すると承知で、この敏感な問題に立ち向かい、堂々と主張した。まさに“啓示”だった」という。またウーピー・ゴールドバーグは「ビートルズが米国黒人に与えた勇気は大きなものだった」と語る。


 このような社会のあり方に関わる案件の描写もあり、ビートルズをあまり知らない一般人にも勧められる歴史的ドキュメント性も持つ作品だ。もちろん、ビートルズの深いファンにも知らない話が満載である。


 そして何と言ってもビートルズ・サウンドになじみのない若い音楽ファンに、マージー・ビート時代のビートルズ・サウンドがどんなに輝きに満ちていたのかを知る、またとない機会になるだろう。


 併せて発売されるCD「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」と共に、リマスター、リミックスされたピカピカに息のあった4人のアンサンブルを劇場の大音響で聴くことは、60年代バンドの軽快でダイナミックな魅力に気づかされるからである。


 最後に「エイト・デイズ・ア・ウィーク」という曲は、もともと『ビートルズがやって来る/ヤア!ヤア!ヤア!』の続編として作られる予定だった2作目の映画 『Eight Arms To Hold you』の主題歌として作られたもの。リンゴ・スターが「週に8日も仕事だなんて……」と嘆いていたのがきっかけに作られた曲だが、それじゃあ「『ビートルズがやって来る/ヤア!ヤア!ヤア!』の主題歌「ア・ハード・デイズ・ナイト=ひどく働いて疲れた夜」と同じコンセプトではないか? 同じものは二度と作りたくない!というビートルズの意向があって、2作目は「Help!」になったんだろう。


 しかし51年後、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」は、同じコンセプトで見事に復活した。その代わり、主役は交代した。ビートルズ4人ではなく「週に8日も仕事」の日常の原因となった「全世界のファン達」だったのである!
(サエキけんぞう)