トップへ

「役者であることをエクスキューズにしちゃいけない」中村雅俊が振り返る、42年の音楽人生

2016年09月14日 14:01  リアルサウンド

リアルサウンド

中村雅俊(写真=竹内洋平)

 中村雅俊が、9月14日に53枚目のシングル『ならば風と行け』をリリースする。同作の表題曲は、『東建コーポレーション』イメージソングとしてCMでオンエア中の壮大なミディアムバラード。作詞を松井五郎氏、作曲を都志見隆氏が手がけた人生の応援歌だ。今回リアルサウンドでは、聞き手に音楽評論家の小野島大氏を迎え、本人にインタビューを行なった。42年の歌手人生を振り返ってもらいつつ、現在も毎年実施しているコンサートツアーや役者・歌手の両立論まで、話は尽きなかった。(編集部)


(関連:石橋凌のブレないメッセージ 彼が“プロテストなラブソング”を歌い続ける理由とは?


■「ツアーを42年間毎年続けられているのはひとつの自慢」


ーー前作「はじめての空」から、ちょうど1年ぶりの新曲ですね。


中村:そうですね。作家陣も前作と一緒なんですが(作詞:松井五郎、作曲:都志見隆)、けっこう仲良くさせてもらってるんです。そういう流れの中で、今回はどういうものをやるか。前作は軽やかなポップスの中にメッセージを盛り込もうという狙いだったんですけど、今回はしっとり落ち着いた感じで。松井さんも都志見さんも、あれはどう、これはどう、みたいにいろいろ提案してくれる人なんです。俺も自分から発信するというより、俺にこういう歌を歌わせたい、と言ってくれる方が嬉しかったんで。


ーー今回は中村さんから、楽曲の方向性や希望は出したんですか?

中村:今回はないですね。詞先だったんですけど、都志見さんが今までとはちょっと違う感じで作ってくれて。松井さんの詞の乗っかりも、メロディと合ってるなと思って。後半の方のメロディもインパクトもありますし、詞もうまい具合に乗ってると思います。


ーーここのところ都志見さんと組むことが多いですが、どんなところに魅力があるんでしょうか。


中村:なんでもできちゃう。フォークもロックも……あらゆるジャンルで作れる人。だから都志見さんの作品をみると、びっくりするぐらいバリエーションがあるんです。


ーーこれまで多くの作家と組まれてると思いますが、その中でも都志見さんは特別な存在であると。


中村:そうですね。今までいろんなアーティストの方が曲を書いてくれたんですけど、都志見さんはプライベートでも仲良くさせてもらってるんで、すごく親密なコミュニケーションができるんですね。他人行儀な仕事モードでやるのと違って、ビール飲んだりゴルフやったり、そういうプライベートの中でいろいろアイディアを出し合ったりしてる。


ーー都志見さんは中村さんの素顔というかプライベートな面をご存じだからこそ、出てくるものもある。


中村:そうですね。そういうのは多いと思いますよ。メロディ的にも。すごいいろんな引出しを持ってる方ですから。びっくりしますよね。


ーーその豊富な手腕を生かして、そのつど中村さんに対して新しい提案をしてくる。


中村:そうなんですよ。


ーー歌手としてこういうところにチャレンジしてみたら面白いよ、というような。それが中村さんにとっても、いい刺激になる。


中村:みたいな感じはありますね、ありがたいことに。自分はどういう曲を歌うのが合ってるのかなとか、中村らしさとか、自分の良さについても、客観的にわかっているようでわかってないところも多いんです。自分自身を知るという意味では、いい刺激になりますね。「こういうのはどうかなと思って作ってみたんで歌ってみてほしい」とか。そういうことも提案してくれる人ですね。


ーー今までの作品での、作家陣の顔ぶれ、本当に多彩で豪華ですね。大ベテランの大御所から、曽我部恵一のような人まで。


中村:そうですね。有名どころでは俺の大好きな(吉田)拓郎さんから始まって、小椋佳さんとか桑田(佳祐)君とか石井(竜也)君とかスターダストレビューとか、よく考えてみるとそうそうたる顔ぶれですよね。


ーーでも誰の曲を歌っても中村さんが歌うと中村さんの色に染まって、すぐにわかりますよね。


中村:そうですかね(笑)。ただ、中にはこんなこともあって。小田和正さんが作ってくれた曲(「小さな祈り」1998年)はね、小田さんが作ったんだな、とハッキリわかるような曲ですよ(笑)。小田さんから「曲作ったからちょっと事務所に来て」と言われて伺ったら、もう3時間缶詰ですよ、歌唱指導で(笑)。


ーーへえ。


中村:俺の声、小田さんと全然違うじゃない? だから2人でずっと、ここはこう、ここはあまり伸ばさないなんてずっとディレクションしてもらって。


ーーでも小田さんが作曲の依頼を受けられたということは、中村さんの歌にそれだけのポテンシャルを感じておられたということですよね。


中村:どうかなあ…途中でがっかりしてたんじゃないですか(笑)。もう20年近く前のことですが、すごくいい曲なんですよ。でも申し訳なかったのは、あまり売れなかった(笑)。こないだもウチのレコーディング・ディレクターと話してたんだけど、俺の曲って売れなかった中にも意外といい曲が多いよねって話で盛り上がりました。


ーー売れる売れないは必ずしも曲の善し悪しとは結び付かないですからね。でも専業のミュージシャンでもないのに、これだけ長いことコンスタントに曲を出し続けている人って珍しい気がします。


中村:そうですかねえ。レコードやCDを出し続けられていることもそうですが、コンサートツアーを42年間毎年続けられているのは自分にとってはひとつの自慢です。


ーーそれは今日ぜひお訊きしたかったことなんですが、デビューした1974年から毎年欠かさずコンサートツアーをやって、総本数は1400本以上を数える。ミュージシャン専業の方でも、それだけ長い間コンスタントにツアーやってる人って、滅多にいないと思うんですよ。


中村:うーん、そうですねえ。


ーーそれが中村さんの場合は俳優との兼業でやってらっしゃる。その多忙の中でツアーを続けていられる理由、やろうと思うモチベーションは?


中村:これは、モチベーションということも勿論ありますが、「やらさせてもらってる」という感覚が強いです。今年これからある20本のツアーは、自分にとって1476本目からのスタートになるんです。42年間で1500回って、1年にするとそれなりの本数をこなしてるんですけど、自分たちがいくらやりたいと思っても、各地のイベンターのみんなの協力と、何よりもお客さんが来てくれるっていう前提がないとコンサートは成立しませんから。


ーー求められるからこそ、できる。


中村:そうなんですよ。自分は元々役者なんで、役者なりに歌い手としてずっとパフォーマンスをやってきて、それを支えてくれた人たちが40年以上ずっといてくれたという事実ですよね。この歳になると、みなさん言うように、本当に「感謝」の気持ちが湧いてくる。役者をやっている時よりも、歌ってる時の方が「感謝」という気持ちはすごく強いですね。役者はやはり共同で作っている感があるので。視聴率が悪くても「ホン(脚本)が悪かったんだよ」とか(笑)。


ーー(笑)人のせいにできちゃう。


中村:まあ笑い話ですけどね。でもコンサートは「中村雅俊」の名前のもとでやってるんで。そういう意味では責任がありますよね。コンサートに来てくれるお客さんは、もともとは「味方」だと思うんですよ。中村雅俊が好きだとか関心がある人たちが来てくれる。それでもコンサートの内容が良くないと、次は来てくれませんから。そういう厳しい現実も知ってるんで、自分なりに全力で、中村雅俊らしくライブをやる、ということをずいぶん前から心がけてやってます。


ーー自分がこういうものを出したい、歌いたいというよりは、お客さんの期待に応えて楽しんでいただく、ということでしょうか。


中村:それも難しいところがあって、やっぱりニーズ通りばかりではつまらないんですよ。自分がやりたいものがあって、「どうだ!これいいだろう!」って気持ちでパフォーマンスすることも重要ですよね。


ーーバランスですね。


中村:ええ。コンサートって流れもあるし。いつも2時間半、20曲以上はやってるんですけど。


ーー長丁場ですね。


中村: 「MCは短くしてくれ」っていつもスタッフに言われるんですけど(笑)。元々ギターはちょこちょこやってたけど、ピアノ弾いたりサックス吹いたり、ハーモニカやったり、とできることは増えていきました。


■「『ふれあい』が売れた時は『役者が歌ってる』って感じだった」


ーーそれにしても40年以上も間、2時間半ものコンサートを年間20本30本とこなす。体力的にも大変でしょうし、精神的にも「今日はやりたくないなあ」とか、あるでしょう。


中村:いやいや、それはないんです。コンサートは楽しいですもん。俺はもともとから歌は好きで、大学時代は曲もいっぱい作ってたし。そんなにめちゃくちゃ巧いわけじゃないけど、歌とか音楽自体はやはりすごく好きだから。大学在学中から文学座という役者の劇団の研究生だったんですけど、デビューは本当にラッキーで、『われら青春!』ってドラマ(1974年。日本テレビ系列で放映された『青春とはなんだ』に始まる青春ドラマ・シリーズのひとつ。主役は高校の教師)に先生役として主役で抜擢されたんです。それで先生役の人は歌をうたうって決められてたんですね。俺は先生役として5代目だったんですけど、じゃあ中村も歌おうかってことになって、4月に始まったドラマで7月にレコード(デビュー曲「ふれあい」)を出したら、なんとオリコンで10週間連続で1位になったんですよね。


ーーそれもお訊きしたかったんですが、役者としての本格デビューとなった作品でいきなり主役に抜擢されヒット、出したデビュー曲も大ヒット。言ってみればほかの人が大きな目標とするようなことをデビュー時にあらかた達成しちゃったわけですよね。


中村:そうですよねえ。


ーーそのあとの目標やモチベーションをどう保ってたのか。


中村:いやあ、だから…まあ深刻には考えてなかったかもしれないけど、まあ自分は「一発屋」かなと当時は思ってました。主役で俳優デビューして、デビュー曲は100万枚以上売れて。これ以上のことなんてないですからね。そういう意味では、このまま右肩下がりでずっといくんだろうなって思ってましたね。


ーーそんなに冷静に考えてたんですか。


中村:よく取材で「将来はたぶん八百屋をやってると思います」って言ってたんですよ。八百屋の奥に「中村雅俊コーナー」があって、「ふれあい」が流れてる。お客さんが来ると「この歌知ってます? 実は私、昔は結構有名だったんですよ」みたいな(笑)。そういうことを取材で言ってたんですよ。それはきっとある意味逃げてたんですよね。でも『俺たちの旅』ってドラマ(1974年)をやってる時に、「俺はこの世界でやっていくんだ」って決心がついた。デビュー当時から学生気分でやってて、これはちゃんとやらなきゃいけないって心を入れ替えたのが『俺たちの旅』をやってる時でしたね。その時までは自分は一発屋かもしれないって思ってたから。


ーーなるほど。


中村:その後ドラマも主演をずっとやることになって、歌も最初に売れて勢いがついて、一発屋にならずコンスタントに出し続けることができた。幸運もあったと思いますけど。だから俺の2つの自慢は、コンサートの本数が1500回になるのと、連続ドラマの主演が34本あるということ。単発ドラマじゃなくてね。これはなかなかできないだろうと思いますね。それとコンサートを1500回を続けることができた喜びを、いつかしみじみ噛みしめたいなと思って。でもまだ途中なんだよね。


ーー途中ですよね。コンサートの魅力って何ですか。


中村:うーん……怖さ、楽しさ、いろんなファクターがいっぱい入ってるんですよ。あんなに楽しいものなのに、別の見方をするとあんなに怖いものもない。お客さんが離れてしまうかもしれないし、歳をとると声も出なくなる。でも中毒みたいに、歌うことは楽しい。でも一人だけで歌ってるんじゃなくて、自分が歌うことで聴く人を喜ばせなきゃいけない、という使命もあるし。そういう思いがごちゃまぜになるけれど、最終的にはコンサート終わったあとにお客さんが「良かったね」と感動して笑顔で帰っていく姿を見たい。それは…すごい大変なことなんですよ。だからこともなげにそれをやってのけるように見せる(音楽家の)皆さんは凄いなと思いますね。


ーーライブは反応がダイレクトですよね。


中村:ねえ、ほんとに! 俺はあまり舞台(演劇)のライブは本数としてはやったことがないけど、コンサートのライブ感に匹敵するものはないんじゃないかと思います。ステージから暗闇にいるお客さんに向かって歌う。そしてそこから歓声が返ってくるというあの感じはやはり独特です。


ーー一発勝負の緊張感もありますし。


中村:ええ。コンサートツアーだと20曲以上歌うんですけど、その作業って積み木みたいなものなんですね。俺の感情もそうだし、お客さんの気持ちっていう積み木をどんどん重ねていく。ちょっとしたことでその積み木を崩してしまう時もあるけど、積み上げていって、上まで行って達成したときの喜び、お客さんの感情のピークを一緒に作っていく流れがうまく行った時は、すごく嬉しいですね。


ーーこれだけ長いことやっていると、お客さんの反応はステージに立っただけでわかるんじゃないですか。


中村:わかりますよ。あんな暗闇の中にみんな蠢いているのに、今すごくいい感じで聴いてくれてるな、とか。ちょっと(観客の)気持ちが離れてるな、とかね。すごいわかるんですよ。特に俺はロック調のコンサートではないから、常にお客さんを煽っているわけではないんで。静かな歌を歌ってることでより伝わってくるのかもしれませんね。


ーーお客さんとちょっと気持ちがズレてるな、と思った時はどうされるんですか。


中村:うーん、まずはMCをちょっと頑張って。こうやって(引き気味に)座ってるお客さんを、ちょっと前のめりにさせたいなと。歌(選曲、曲順など)はだいたい事前に決めているので、当日の空間の中で最大限の自分なりの表現を頑張る、という。


ーーお客さんの反応を見てその場で対応していく、という意味では、予め収録する映画やドラマとは違う。


中村:違いますね。アドリブみたいなところがありますよね。MCも台本は用意していないですし、そういうスリリングな感じがあるから、巧くいったときは嬉しいです。いろんなことを含めて、幸せだと思いますよ、こうやってコンサートをやらさせてもらってる自分が。


ーー42年前にプロとして歌い始めて、音楽に対する考え方とか、音楽する姿勢のようなものは変わってきましたか。


中村:それはねえ、まず最初だよね。「ふれあい」ってデビュー曲が売れた時は、「役者が歌ってる」って感じだった。それはそうだよね。ずっと歌い続けてる今の姿なんて想像もできなかった。


ーーそのころ役者で歌う代表格っていうと石原裕次郎さんとか小林旭さんとか。


中村:ええ。加山雄三さんとかね。ただ、当時の世の中は、役者が(余技で)歌をうたっているという言い方だし、そういう風にみなさんにも捉えられていた。でも考えてみると、そういうエクスキューズはしちゃいけないような気がして。ライブをやればやるほど。やっぱり(ライブに来てくれる)お客さんが中村雅俊に求めてるものは、ほかのアーティストと同じように、歌でちゃんとやって欲しいってことじゃないかって思ったんです。エクスキューズしながら歌っちゃいけない。歌詞間違えると冗談で「俺、役者なんで」みたいなことは言うけど(笑)、でも役者であることをエクスキューズにしちゃいけない。だから役者が歌ってるって意識は、けっこう早い時期になくしましたね。芝居では100%役者で、コンサートでは100%歌手でやる、という。そういう意識になりました。


ーー学生時代は吉田拓郎の大ファンで、ご自分でも歌って、曲もかなり書いてらっしゃった。そこでアーティストとしての自覚みたいなものも。


中村:あ、それはありましたよ。学生時代の夢は、自分の作った曲がレコードになるってことでしたからね。そういう意味では音楽に対する思いは強かった。でもそこで、アーティストになる、歌手になるっていうのは大変なことなんだと気づき始めた。そしてそれ以上に、役者になりたい、芝居をやりたいという気持ちが強くなってきたんだよね。


ーー歌うことよりも、芝居に関心が行くようになってきた。


中村:そうですね。最近は違うかもしれないけど、あの当時歌手になりたいとか言ったら、何とぼけたことを言ってるんだお前、って話なんですよね。現実味がない話だった。


■「意外とあんまり何も考えずやってきた」


ーーでも当時は若者音楽としてのフォークやニューミュージックがどんどん一般的になって、拓郎さんや井上陽水さんが出てきて。身近な目標にはなりませんでしたか。


中村:確かにそうだけど、そんなの……才能の違いとか、歴然とわかるでしょ(笑)。でも俺、(学校の)クラブやクラスでは人気者だったんですよ(笑)。歌を作るとクラブの連中、5、6人だけど、集めて聴かせると「いいじゃないすか~」とか拍手されてね。学生時代に自分で主催してコンサートを4回やりましたからね。結構お客さんも来て。


ーーそこで野心は持たなかったんですか。


中村:なかったね…いや、ないことはないか。そこは話すと長いんだけど、学生時代からいろいろ音楽でチャンスはあったんですよ。デモテープまで作ったけど、うまくいかなくて。そのうち芝居の方に関心が向いて、大学4年になって文学座を受けて、大学行かないでずっと芝居の稽古をやって。大学4年の4月に文学座に入って、1年後の4月にはもうドラマで主役デビューですよ。すごいラッキーだった。


ーーそれで出した曲がいきなりミリオンセラーになって。それ見たことか、と思いませんでしたか。あの時オーディションで落とした奴らめ、みたいな(笑)。


中村:そこまでのリベンジ感はなかったけどね(笑)。でもこんなに人生が速いスピードで変わるのか、って。ちょっとびっくりしましたね。


ーーオーディションでダメだと判断された中村さんの歌が、実は世間に求められているものだった。


中村:まあそれは世の中によくある話かもしれないですね(笑)。最近になってその時のデモテープが出てきて。


ーーそれは出すしかないですね!


中村:いやいや(笑)。南らんぼうさんの曲を歌ってるんですけどね。聴いたけど、ちょっと照れ臭かった(笑)。


ーー人に歴史ありですね。ご自分のボーカル・スタイルの変化についてはどう捉えていますか。


中村:昔はもっと上の声も出て楽に歌ってたんだけど、今はちょっと絞り出す感じがあるよね。


ーー声の変化は少しあって、それに応じて歌い方も少し変えている感じは、この2枚ぐらいのシングルを聴いて思いました。


中村:そうだね。昔の歌なんかは「ふれあい」とか、拓郎さんに作ってもらった「いつか街で会ったなら」とか、小椋佳さんに作ってもらった「俺たちの旅」とか、楽にのびのび歌ってましたよね。


ーーどこかのインタビューで読みましたが、特別なボイス・トレーニングは受けていないんですよね。


中村:そうなんですよ。


ーー役者としての発声訓練と、歌手としてのボイス・トレーニングは違うものなんですか。


中村:一緒だと思いますよ。どこでどういう口の形をして、どこで響かせて、という基本は同じだと思うな。応用はできる。


ーーなるほど。そういう意味でも役者としての活動と歌手としての活動は両輪として成り立っている。


中村:そうですね。毎年ツアーをやっているということも含めて、ここずっとですね。若いころは、70年代からもう休みなしに役者やってましたけど、その合間を縫ってよくツアーをやってたなと思います。それが80年代ぐらいから、ドラマがワンクールの時代が来るんですよ。


ーーああ、3カ月で終わるようになりました。


中村:ええ。それからコンサート・ツアーは組みやすくなりましたね。


ーー70年代は長いドラマが多かったですね。


中村:1年やってるドラマとかざらだったんで。その合間にツアーをやってたんで、結構しんどかったですよ(笑)。ドラマの撮影やってる時に、ああ明日はコンサートだ、なんて。


ーーうまく気持ちは切り替えられるものなんですか。


中村:その場に行けばね。


ーーそこまでいくと、役者が本業なのか歌手が本業なのかわからなくなってきますね。


中村:いや、意識はやっぱり役者なんですけどね。でも40年以上CDを出して、コンサートも1500本に近づいてきて、そうなるともういっぱしの歌手だなと。


ーーいや、いっぱしどころか(笑)、こんなに長くコンスタントにやっている音楽家は、そうそういません。


中村:神様が決めたのかどうかわからないけど、有難いですよ。役者で人生を終わらせる可能性もあったわけだから。デビュー作で先生役の人が歌を出すって決まってなかったら? 「ふれあい」が売れてなかったら? もしかしたら学生時代に受けたオーディションに合格して歌手でデビューしていた可能性もあったかもしれない。そうしたら役者にはならなかったかもしれない。そう考えると人生って面白いですよね。「あの時もし……」みたいなね。


ーー中村さんといえば、デビュー当時の役柄の印象もあって、「気さくで気取らなくて率直で優しくて自然体のいい人」というようなイメージも世間一般にあるかと思います。


中村:うんうん。


ーーそれが邪魔だと思うことはありませんか。


中村:いや、それはないですね。俺、意外とあんまり何も考えずやってきたんですよ。人がどう見てるか、ってところで仕事はしてないんで。


ーー「理想の恋人」とか「理想の夫」とか「理想の父親」とか「理想の先生」とか、そういう「理想像」みたいなものばかり押しつけられるのは嫌だなあ、とか思いませんか。


中村:それはねえ、自業自得でね(笑)。自分のやってる仕事で結果としてそう思われるんで。それを狙ってやってたわけでもないけど、言ってみればすべて自分が蒔いた種なんでね。でもそんなの永久に言われるものでもないしね。


ーー確かにいつまでも「理想の恋人」ではいられないですよね。


中村:ずっと俺を見てきてくれた人は感じてくれているかもしれないけれど、俺は、本当に自然に、普通に生きてきたんですよ。


(小野島大)