トップへ

ストーカーが怪物として描かれない怖さーー『だれかの木琴』で常盤貴子が演じる狂気

2016年09月14日 11:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016『だれかの木琴』製作委員会

 「なにが起こったんだろう、あのひとに」。あまりに映画の核心を突く独白に思わず口元が緩みそうになるが、美容師の海斗(池松壮亮)にとって笑いごとではない。あくまでルーティンとして送った1通の営業メールをきっかけに、“感じのいいお客さん”だったはずの主婦・小夜子(常盤貴子)は何度も彼にメールを送信し、店に無言電話をかけ、ついにはアパートを探し当てて呼び鈴を押すまでに至る。世間の尺度からすればまぎれもないストーカー行為だが、彼女にその自覚はない。それこそがストーカーであるといってしまうと身も蓋もないが、事態はそう単純ではない。


参考:斎藤工と池松壮亮、ぶつかり合う“色気と技術”ーー『無伴奏』ラブシーンの凄みに迫る


 部下の人望も厚い仕事のできる夫・光太郎(勝村政信)は昇進も間違いなく、中学生の娘・かんな(木村美言)は母親の手から離れつつある。会社や学校といった外部を持たない彼女は、ふたりがいない留守のあいだを家族の住まう郊外の一軒家で過ごしている。料理上手で有能な主婦の彼女はこんな何不自由ない生活のなかで、徐々に自分でも説明のできない衝動に急きたてられて闇雲な行動を促される。


 彼の恋人・唯(佐津川愛美)がはやしたてるように、イケメン美容師に恋した主婦という図ならわかりやすいが、そこには恋愛感情はない。所有欲もない。つまりは対象につきまとう要因や動機を欠いており、ストーカーの行為だけがごろとそこにある。ストーカーが怪物として描かれない怖さは言いしれぬ不安を与える。つまりは誰しも起こりうる狂気の物語。


 幾度か繰り返されるセクシュアルな妄想のなかで彼女は男の掌の愛撫に身を委ねて恍惚とするが、そこには当の美容師だけでなく彼女の夫も登場する。倦怠期の夫婦の欲望の発露かとも思われるが、映画の冒頭に児戯めいた行為で示されるように夫婦の営みは途絶えていない。


 ではなぜ、と問うても映画は答えを出さない。行為の具体的な描写があるだけで、彼女自身にも何ひとつわからないのだ。わずかに彼女の内面を探る手がかりとして、空き家の心象風景が映しだされる。二階の窓が開いてレースのカーテンが揺れる向こうに、誰かの叩く調子の外れた木琴の音が聴こえてくる。


 そこへ彼女のモノローグ。自分の音楽、つまり自分らしい生きかたを探しているのにできずにいらだっている、と。「あそこにいるのはわたしだ。幼いときのわたしだ」。とすると、彼女は無意識のうちにずっと自覚していたのだ。家庭のなかでも夫に対して堅苦しい敬語で話す彼女の内に、長年抑圧があったのだろうか。美容師との出会いが彼女をストーカー行為にのめり込ませるようにみえたのはきっかけにすぎない。崩壊の予兆は完璧なセキュリティ・システムで護られた家の内部に存在していたのだ。


 と同時に狂気は外部からも侵食してくる。一家が引っ越してきたばかりの街は最近昼間から放火があいつぎ、消防車のサイレンがひっきりなしに聴こえてくる。兇悪な犯罪者がふつうの恰好で市民生活のごく隣にいる不穏な時代。セキュリティ・システムの警告音と上空を飛ぶヘリコプターの旋回音が増幅して巨大なノイズとなって、内と外から彼女の心を蝕んでゆく。


 タガの外れた彼女はますます奇矯な行動をとるが、曖昧な表情を浮かべて平気で嘘をつき、冷静に他人と接する顔は美しい。そこにはなんら感情を欠いているのに。落ちつきはらった彼女の態度にひるみ、激しく突っかかる美容師の恋人の顔が歪むほどに、ヒロインの顔はますます美しく輝く。


 家族の崩壊の予兆を察知して、10代ならではの潔癖さでもってひとり食い止めようとする娘と対峙して、彼女が「かんなさん」とさん付けで呼びかける場面は人と人の距離感が壊れてゆく表現として秀逸だ。家族はもともと個人の集まりという諦念。


 狂気と感情、狂気と理性で闘う女たちに対して、まるで観客に状況説明するかのような台詞をつぶやく男たちは愚かな存在として描かれる。夫は妻に対する不安からか行きずりの女と一夜の情事を楽しむ。こんなときでも下半身は別の生き物であるかのような男の傲岸さと情けなさを体現する勝村政信の演技が光る。


 一方、池松壮亮扮する美容師は夫や娘や彼の恋人とちがった態度でヒロインに接する。迷惑や恐怖の感情は希薄で、相手の一家に怒鳴り込んだ恋人の乱暴な態度と言葉を激しく叱りつけさえするのだ。むかしはナイフで暴れたらしい手をいまハサミに持ち替えた彼は、彼女の狂気にシンパシーを感じたのだろうか。そうではあるまい。彼は知ったのだ。彼女の内の孤独と渇きとを。放火魔のいる街の風景の真実を。いまある恋人も仕事も肉親も友も職場の仲間もいつか一瞬で消えてしまうかもしれないことを。彼はこの不安の世を、ただナイフを握りしめて孤独に耐えることでしかやりすごせない。


 プロローグ。ヒロインは無垢な子どものように眠り、目ざめる。それは彼女が映画ではじめてみせる表情だ。それはつかの間の安寧か。彼女は生まれ変わったのだろうか。井上陽水の主題歌が新たな不安をかきたてながら映画は終わる。


 常盤貴子は内面をまったく感じさせない難しい役柄をよく演じきった。文字どおりの幻のドラマ『悪魔のKISS』(93年)から23年、日常のなかでくすんだ主婦が生気を取り戻してゆくという演出意図を、彼女の美貌が裏切るようにみえるのはやや計算ちがいだったか。


 2016年は公開待機作も含め9本の映画に出演した池松壮亮。ハサミで髪の毛をカットする繊細な手つきをはじめ、いかにも美容師らしい佇まいがよい。ほとんど撮影所時代のスターなみの多忙のなかで、多彩な役柄を引き受けて果敢に演技の質を高めていることを称賛したい。


 東陽一監督は82歳にしてなお若々しく、緊張感の途切れない演出をみせる。とりわけ音響と音楽の使いかたに神経を払っている。すべての解釈を観る者に委ねる作劇は不親切ともいえるが、現代の映画へのみごとなアンチテーゼとなっている。一方で電車内のスマホの列でひとり位牌を撫でる女性、リビングでの無言の携帯メールでの会話といったオリジナルの要素は井上荒野の原作に拮抗する強度を持ち得ていないとみるが。それにしても女性の社会進出の躍進を背景に、『もう頬づえはつかない』(79年)、『四季・奈津子』(80年)、『マノン』(81年)、『ザ・レイプ』(82年)といった一連の作品で女性映画の可能性を拡げた監督がいままた女性を主人公にした映画を撮り、これだけ野心的な内容をキープしているのは驚異的である。(磯田勉)