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橘高文彦が語る、32年の音楽人生で得た知恵と覚悟「HR/HMを貫いてきたことに誇りを感じる」

2016年09月13日 19:01  リアルサウンド

リアルサウンド

橘高文彦

 現在、筋肉少女帯(以下、筋少)やX.Y.Z.→Aで活躍するギタリスト・橘高文彦が自身のデビュー30周年を記念して、彼がこれまでに在籍した4つのバンド(AROUGE、筋肉少女帯、Fumihiko Kitsutaka's Euphoria、X.Y.Z.→A)が2015年に単独ライブを実施。その模様がそれぞれライブBlu-rayとして今年7月13日に同時リリースされた。今回リアルサウンドではこのうち、橘高のソロプロジェクト・Fumihiko Kitsutaka's Euphoria(以下、Euphoria)のライブ作品『橘高文彦デビュー30周年記念LIVE“Fumihiko Kitsutaka's Euphoria』に焦点を当てたインタビューを企画。同ライブ作品は1994年に結成され、東名阪ツアーを行ったのちにアルバム1枚を発表しただけで活動停止となっていたEuphoriaの、実に21年ぶりとなるフルライブを思う存分堪能できる1枚となっており、インタビューではEuphoriaに対する思いから今後の活動、さらには30周年でキャリアを振り返るライブ4本を行うことになった経緯などがたっぷり語られている。


 また80年代から現代までをサバイブしてきた橘高ならではの逸話やバンドマンあるある、盟友hideとのエピソードのほか、彼自身の過去の挫折や人生観についても触れられており、単なる「音楽インタビュー」の枠を超えた、非常に読み応えのある内容と言える。特に今回は彼のファンのみならず、現在自分の生き方に悩んでいる人にも読んでほしい。きっと生きていく上でのさまざまなヒントが散りばめられているはずだから。(西廣智一)


・自分の中にいる“きったかちゃん”が物事を決めてる


──Euphoriaは1994年にツアーを行って以来、単独ライブを一度も行っていなかったんですよね。


橘高文彦(以下、橘高):そうなんです。ライブ中にも言いましたが、『Euphoria』というアルバムをリリースした後はちゃんとしたライブを1回もやっていなくて。1996年の俺の結婚式とか、もう7年前になっちゃうけど俺のデビュー25周年のときとかに、ちょっとだけ集まってやっていたんですけど、ちゃんとしたワンマンライブは21年ぶり。だからこれ、デビューライブなんですよ(笑)。


──なるほど、確かに21年越しのアルバムリリース記念ライブですね(笑)。


橘高:21年経ってから「デビューしました!」って。時空が歪みますよね(笑)。


──ちょっと話はさかのぼりますが、橘高さんはデビュー20周年のタイミングで「橘高文彦&フレンズ」名義でアルバム『NEVER ENDING STORY』(2005年)、25周年のときはベストアルバム『DREAM CASTLE ~BEST OF FUMIHIKO KITSUTAKA~』(2010年)をそれぞれリリースしています。で、30周年のタイミングでは橘高さんがこれまでに在籍したすべてのバンドでライブを行ったと。


橘高:そうです。25周年ライブのときにも、この4バンドが一堂に会したんですけど、そのときは俺が全バンドの橘高文彦になるというテーマがあったので、1バンド30分強の持ち時間に加え、俺の“お色直し”もあったからトータルで4時間ぐらいやっちゃって(笑)。しかもMCも長かったし、俺の泣きも10分ほどあったから、余計に長引いて(笑)。でも、そこから5年経った今回は4バンドが独立してワンマンライブをやるという。生きてると自分でも想像してなかったような事態がたくさん起こりますね。


──さすがに開催日の間隔を空けているとはいえ、自分がこれまで在籍した全バンドのワンマンライブをやるというのはかなり無茶なことだと思うんですよ。


橘高:俺ね、いつも物事を決めるときというのは、自分の中にいる「俺じゃない存在」が決めてるんです。俺はその存在を“きったかちゃん”と呼んでるんですけど、“きったかちゃん”が観たい、聴きたいというものをやる癖があって。つまりその“きったかちゃん”というのは、中2のときの俺なんですよね。子供のときに考えていた「ロックスターやギターヒーローになって、世界中を駆けめぐって」という無謀なことばかりを要求してくる、すごい厄介な存在なんですよ。


・彼を満足させないことには自分の人生を肯定できない


──なるほど。ちなみにリアル中2の頃の橘高さんはどういう子供でしたか?


橘高:実は俺、中学生の頃は不登校で引きこもりだったんです。大阪の進学校に通ってたんですけど、早熟だったもんだから、そこで社会というものが見えて閉塞しちゃってね。その当時、俺は医者になりたくて、このまま医学部を受験してインターンをやって……って考え出したら気持ちが閉じちゃって、学校に行けなくなっちゃったんです。ちょうどそのとき、ロックにどんどんのめり込んでいって、学校に行かないもんだからギターも1日12時間ぐらい弾いてたんですよ。でもだんだんと「これじゃアカン!」と思うようになって。子供でも大人でも、いま同じような経験をしている人に言いたいことなんだけど、環境を変えることってすごくいいことなんですよ。俺の場合は家族会議の結果、東京に出ることになったんです。たまたま兄貴が先に上京していたので、2人で東京暮らしを始めて。


──そうして18歳でAROUGEのギタリストとしてデビューできたわけですね。


橘高:そうなんです。“きったかちゃん”の話に戻りますが、ギターというものにのめり込んだ中2のときの“きったかちゃん”が、例えば今回の30周年のときも「25周年のときは3、40分じゃ物足りなかったな。全部のバンドのワンマンライブが観たかったな。だってEuphoria、デビューライブやってないじゃん」って言い出すんですよ(笑)。「観たい」って言うもんだから、彼を満足させたくてしばらく会ってないメンバーに久しぶりに電話することになって。そういうハードルの高いことばかり、いつも求めてくるんです。だって、彼は「よりすごいギタリストやロックスターでいてほしい」と言って、俺のことをリッチー・ブラックモアやジーン・シモンズ、ポール・スタンレーとか、それこそマイケル・シェンカーと同列で語るんですよ(笑)。


──それはなかなか大変ですね(笑)。


橘高:ただこれは俺の特殊な部分というか、不登校だった時代をなかったものにするんじゃなくて東京に出てきたときにすべてを受け入れていこうという決めたんで、彼を満足させないことには自分の人生を肯定できないというのがあって。きっと“きったかちゃん”というのは俺にとって、いつも俺を応援してくれてる人、そしてこれから出会う人も含めて俺を気に入ってくれる人の、ある意味ボスキャラ的な存在なんだろうな。だからあいつをノックアウトさせるにはどうすれば良いのかって、いつも悩んでるんですよ。上手くいったときって必ず、ファンからのお手紙やメールに「あんなことをするとは、想像以上でした」って書いてありますから、ひとつの指針になるんです。


──ある意味強敵だけど、そこに打ち勝つことが次につながると。その結果、こうやって21年ぶりのEuphoriaワンマンライブが実現したわけですもんね。


橘高:本当に彼のおかげですよ。俺、“永遠の24歳”と自称してますけど、かぞえで51歳ですから(笑)。周りのメンバーも同年代ぐらいだし、X.Y.Z.→Aなんて俺より5、6歳上ですからね。素晴らしいことにそんな大先輩も含めて、一緒にやってきたこの4バンドのメンバーがみんな健在で。それは筋少が再結成した大きな理由のひとつでもあったんだけど、やっぱりやれる機会があるんだったらやるべきだと思う。同じ理由でEuphoriaもやらない手はないなということなんです。


・いろんなムーブメントのたびに幸せな経験をさせてもらった


──Euphoria 関連では、2005年の「橘高文彦&フレンズ」のときにtezya(Vo / Euphoria)さんと一緒にレコーディングしてますよね。


橘高: 20周年のときの『NEVER ENDING STORY』というアルバムでは、4バンドのボーカリストたち(山田晃士、大槻ケンヂ、二井原実、tezya)と新曲を書いて。その頃はまだ筋少が凍結中で、今だからはっきり言えるけど、大槻と新曲を書くことで解凍に近づけばいいなと思ってた。で、tezyaもそうだし、みんなと久しぶりに会って曲を書いて、レコーディングをしてみたんだけど、そのときはみんなの様子を探ってたところもあったんだろうね(笑)。これが手応えのあるものになったら、準備さえ整えばいつだって先に進めることができるんじゃないかと。


──このBlu-rayを観た後、Euphoriaのアルバムを久しぶりに聴いてみたんですけど、今聴いても古さを感じさせないサウンドに改めてビックリしました。


橘高:当時から温もりのある音作りを意識してたんです。まだPro Toolsは出てきてなかったけど、すでにデジタルレコーディングは始まっていたし、特に1994年当時はいわゆるドンシャリの音が流行ってから、時代を感じさせない温もりのある音は目指してたかな。アナログとデジタルのいいところをそれぞれちゃんと取り入れつつ。特にEuphoriaは当時の海外アーティストから影響を受けつつ、日本の進化した録音技術というものをふんだんに使っていたから、豊かな音にできたのかもしれないね。しかも、でっかいスタジオを2ヶ月も押さえて録音して(笑)。あの時代、アルバム1枚作るのに何千万使ってたんだろうね? 本当、シャレにならないぐらいお金を使ってたよ。


──録音技術的に、1994年というのは転換期であったと。と同時に1994年って、海外だとカート・コバーン(NIRVANA)が亡くなりグランジブームが終焉を迎え、GREEN DAYをはじめとするパンクや、ヒップホップなどが台頭し、日本では小室哲哉さんプロデュース楽曲が大ヒットし始めたほか、ヴィジュアル系バンドが徐々にヒットチャートに入り始めたタイミングなんです。


橘高:ああ、なるほど。その前に俺たちはバンドブームの衰退というのを経験していて。特に俺は1984年デビューなので、いろんなムーブメント、いろんなブームを経験してるんですよ。80年代前半にはジャパニーズヘヴィメタルがもてはやされ、それがあったから俺もデビューできたわけで。それこそ1981年にLOUDNESSがデビューしたことで俺もデビューできたと、今でも感謝しているんです。で、その後が『イカ天』(1989年2月~1990年12月にTBSで放送された『三宅裕司のいかすバンド天国』)をはじめとするバンドブームがあって、筋少に入った頃はそのちょっと前のこと。バンドブームが来たときはブームの先頭に立っていて、『イカ天』のプロバンド人気投票で筋少が1位になることも多かったから、よくプロモーションでスタジオ出演したこともあった。で、その後にヴィジュアル系ブームがあったのかな。いろんな友達バンドが解散していく中、確かに1994年の筋少はヴィジュアル系雑誌の表紙も飾った。今その話を聞いて振り返ってみたら、いろんなムーブメントのたびにとっても幸せな経験をさせてもらってきたなと。でも俺、やってることは何ひとつ変わってないんだよね(笑)。


・酔いが覚めると『あのステージも嘘だったんじゃないか?』


──思えばヴィジュアル系ブームが勃発する前から、橘高さんは今のスタイルでしたものね。


橘高:そうなの。だって俺、当初は日本人として海外アーティストに対してコンプレックスを感じていて、欧米人みたいになりたいと思ったから、彫りが深い人に近づくためにメイクをしてみたり、ヒールの高いブーツを履いてみたり、髪の毛を逆立ててみたりして、外タレに近づくところからスタートしたわけだから。海外ではヘアメタルと呼ばれた時代の人間だったのに、気がついたら海外に逆輸入されて日本のアニメ文化と混ざって、ヴィジュアル系がアニメに出てくるキャラクターみたいになってた。だって俺らの世代、それこそX JAPANとかはその前の世代のグラムロックからの影響だからね。


──確かにX JAPANや90年代前半に誕生したヴィジュアル系バンドには、海外アーティストからの影響が色濃いアーティストが多かったです。


橘高:俺たちはハードロック畑の人間なんだけど、そこにグラムロックとかのヴィジュアルの部分を取り入れて合体させたいと思ってたのね。それが当時のオリジナリティだったんだよ。すると、今度は後輩達が音楽性じゃなくてヴィジュアル部分を継承して、それがヴィジュアル系と呼ばれるようになったと。ヴィジュアル系って音楽性を指すジャンル名ではなくて、見た目を指すムーブメントだからね。まぁバンドブームというのも一緒だけどさ。それを横で眺めつつ、時にはそこに混じりながら面白いなと思ってましたよ。で、Euphoriaというのはちょうど1994年、ヴィジュアル系というものがこれから出てくる前夜に誕生したと。そういう意味では先に出しておいてよかったなと。だってそれ以降だったら「ヴィジュアル系がやりたくて出した」みたいに思われちゃうから(笑)。


──Eupohoriaで表現されているサウンド、世界観って後のヴィジュアル系に通ずるものがありますものね。


橘高:ハードロックをベースにしたヴィジュアル系バンドからよく「Euphoriaが好きで聴いてました」って言われるんだよね。そういえばその頃って、hideちゃんがソロで『HIDE YOUR FACE』を出した時期でさ。hideちゃんのソロとEuphoriaは同じレーベルから同じ年に発売されて、レコーディング時期も重なっていたからスタジオでもよく一緒になったんだよ。よく一緒に酒飲んだなぁ。EuphoriaのライブにもhideとSUGIZO(LUNA SEA、X JAPAN)が観に来てくれて、朝まで飲んでたし。彼らと遊びまくった時期がヴィジュアル系の勃発タイミングと重なるのも、面白い話だよね。


──それは興味深い話ですね。ちなみにお酒の席では皆さん、どんな感じなんですか?


橘高:あの頃の酒の席は本当にひどかったよ。みんな負けず嫌いだから「先に帰る」の一言が言えなくて(笑)。先に帰ったりしたら、自分が帰った後に楽しいことがあったと聞くと負けた気になるから(笑)。で、ついに24時間営業の店を見つけてhideちゃんに教えたら、その後その店に行くとやたらとhideちゃんと会ってね。しかも会ったら会ったで先に帰れないもんだから意地になる(笑)。


──(笑)。


橘高:でも俺たち、偉かったよ? そのままツアーをやってたからね。いや、偉くはないか(笑)。で、ライブをやるとさ、最初のMCまでの1ブロック目で発汗してアルコールが抜けて、また飲めるのよ(笑)。二日酔いだから「もう今日は飲まない!」と心に誓ってから本番を迎えてるのに、2曲目を終えた後のMC中にテック(ギターテック)に「今日も行くか!」と言ってる。それがループしてるんだよね(笑)。まぁあの頃は突然いろんなムーブメントの渦中に落とされてストレスを感じてたから、夜は子供みたいになって発散してたんだと思うけど。でも最近の子たちはとってもクレバーで戦略家だし、無駄にアドレナリンを使ってない。なのに俺たちの頃はさ、ステージに上がったらアホみたいにアドレナリンを放出して、ライブが終わってもアドレナリンが出っぱなしだから寝られないのよ。ステージでずっとキャーキャー言われてたのに部屋に戻るとひとり静かだし、寂しかったんだろうね。で、スタッフと一緒に朝まで騒いでるとまだステージが続いているような気がしたし、実は酔いが覚めると「あのステージも嘘だったんじゃないか?」と思うこともあった。それが怖かったから、みんなずっと飲み続けてたのかもしれないね。


・止まった時をもう一度進めて、熱量はこのまま1995年に向かう


──Euphoriaの話題に戻りますが、21年ぶりのライブ映像を観て改めて「1回こっきりじゃ勿体ないな」と思いました。


橘高:俺もそう思ったからステージで言っちゃったんだけど、実はこのときにキングレコードのNEXUSレーベル(以下NEXUS)のスタッフが来ていて(笑)。NEXUSとはPerpetual Dreamerのプロデュースで一緒に仕事させてもらってたし、当日はオープニングアクトとして出演してもらって、Blu-rayにも彼等の映像を入れたかったので、それもあってできれば今回のBlu-rayをNEXUSのほうでEuphoriaを出させていただけたらなっていう思いがあったんだけどね。でもさ、ああやって久しぶりに集まったら「ああ、いいバンドだな」って、リハーサルのときから思っちゃったのよ。「止まった時をもう一度進めて、熱量はこのまま1995年に向かう」感じを、俺自身も“きったかちゃん”も感じたから、NEXUSのスタッフに「2ndアルバム、どうでしょう?」って聞いてみたら、すごく好感触で(笑)。


──(笑)。


橘高:とはいえ、まだ曲も何も聴かせてないわけだけどね。でもこういうのっていつもそうなんだけど、俺は行動よりも先にまず言葉にして言っちゃうんだよ。しかも「このまま終わるのも寂しいから、もしうまくいって2ndアルバムとか出せたらいいね」っていう発言が記録として残ってるわけで。有言実行しなきゃいけないな(笑)。基本的に俺はとても怠け者なんだけど、同時にすごく負けず嫌いで勤勉なの。すごくワーカホリックで負けず嫌いなのに、根は夏休み欲しいと思ってる。だけど夏休みなんてこの10年ぐらいなかったし、筋少が再結成してからは複数のバンドをやって、しかも若いバンドのプロデュースもしてる。それにお客さんを裏切ることは“きったかちゃん”が許してくれないしね。


──では近い将来、1995年当時筋少が活動再開してなかったら出していたかもしれないEuphoriaの2ndアルバムが聴けるかもしれないと?


橘高:そうだね。NEXUSさんがいつまでに出せと言わないんであれば(笑)。かといって5年とかかけないで出るといいなとは思ってます。でも5年後だと35周年すら越してるし(笑)。筋少、X.Y.Z.→A、Euphoriaがパーマネントなバンドになって活動できれば、夏休みはいただかなくて結構なんで。


──バンド名もそのまま「Fumihiko Kitsutaka's Euphoria」のまま?


橘高:いや、以前から2ndアルバムではEuphoriaという名前の、ユニットからバンドにする構想があったんです。これはもう本当にバカバカしい様式美バカの話で(笑)、RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOWは2ndアルバムの『RISING』から、バンド名がシンプルにRAINBOWになったのがカッコいいなと思ったの。本当にそれだけの話(笑)。


──確かにRAINBOWも1stアルバムから2ndアルバムで、プロジェクトからバンドという形にシフトチェンジしましたものね。


橘高:そうそう。リッチー、ロニー(・ジェイムス・ディオ)、コージー(・パウエル)の三頭政治体制が出来上がってね。実際1stアルバムのEuphoriaというのは俺とtezyaと秦野(猛行 / Key)くんが軸だったのよ。そこからツアーで(満園)庄太郎(B)を見つけて、今回はさらに河塚篤史(Concerto Moon)をドラムに迎えた。でも、このライブがダメだったらそこの道は閉ざされたわけ。俺はいつもどこかで試してる部分があるというか、石橋を叩く癖があるんで、ライブが非常にうまくいってることを途中で実感したところでMCをしちゃったんだよね。しかもメンバーに確認してから言えばいいのにさ、後出しじゃんけんで(笑)。打ち上げで「2ndをいよいよ作りたいんだけど、どう?」って言ったら、みんな「イエーイ!」って盛り上がって乾杯ですよ。先日もこのBlu-rayが7月13日に無事発売されたので「ありがとう」メールを送ったんだけど、「次はスタジオで会いましょう」って添えたらみんなから「楽しみにしてます!」って返事が来て。tezyaに関しては「(tezyaのモノマネで)ガンガン攻めましょう!」って返事が届いたから……これ、文字だと俺のモノマネが伝わらないっていう(笑)。


──(笑)。でも現実味を帯びてきたわけですね?


橘高:はい。やっとRAINBOWでいうところの『RISING』を作るところまで来たなと。


・伏せてる目をちょっと上げるだけで見つかるその光


──さすがにAROUGEまでパーマネントに活動する、なんてことはないですよね?


橘高:そうなったらすごいことになるけど、ドラム(青柳浩一郎)とベース(福田純)が今はもう引退してますんで、そこだけはありがたいなと(笑)。“きったかちゃん”もいくら中坊でも、その2人の仕事を辞めさせてまでやれとは言わないんで助かってます。ただ、“きったかちゃん”にちょっと言われてることがあって……「(山田)晃士くんと何かやれば?」って(笑)。


──ああ、そう来ましたか(笑)。


橘高:怖いよね(笑)。この4つの作品を同時進行で仕上げるのも大変だったのに。今回は1バンド3時間ぐらいの映像を4バンド分チェックするだけでも重労働で、途中で心が折れそうになるときもあった。でもそこを乗り越えると強くなれたという経験があるんだよね。俺、実はパニック障害というのに悩まされてた時期があって。こういうものは今も完治したとは思わないようにしてるんですけど……きっと同じようなことで悩んでる人もたくさんいると思うけど、さっきの不登校のときは環境を変えた。そしてパニック障害に対するのは……俺の場合は「これはダメかもわからない」というものに立ち向かっていくっていう方法だったのね。


──あえて困難に立ち向かっていくんですか?


橘高:そう。例えばすごい大作を作るとき、何度も挫折しそうになるんだけど、途中で強くなっている自分に気づいて、完成させたときには最初よりはるかに強くなっている。そうすると、次の作品を作ることに対する予期不安がなくなるのね。以前はその予期不安というものに人生悩まされてきたんだけど、予期不安を不安じゃなくてとってもワクワクする予期に変えていきたいなと思って。俺は20代中盤から病と闘ってきたけど、予期不安が来たときは自分のプレイに昇華すればいいと思ってた。だから俺のプレイって何か焦燥感があるように音を詰め込むと、ずっと息を止めてるもんだから「スーッ」と息を吸うところがあって。そこが俺の間(ま)だったりするんだけど、その後に「生」……生きてるってことを実感できたときの喜びがチョーキングやビブラートに表れてたりするんだと思う。そういうところに共感を得てくれてる方もいるのかなと。


──なるほど……。


橘高:俺のプレイってよく「ギターが泣いてる」って言われるんだけど、泣いてるというよりはもがいてるんだよね、きっと。生の喜びっていうのは死の不安がないと得られないもので、パニックというのは死を感じる病なのね。死んだ経験はないはずなのにそれにずいぶん困らされてきたぶん、生の喜びを人より知ることになった。俺、実はそれを表現するためにギターを弾いてるんじゃないかなと思うことすらあって。実は24歳のときに母親が亡くなって、そこに筋少での日々とか毎晩パーティで交感神経と副交感神経を悪くするような生活とかもろもろ重なって発症したんだと思う。“永遠の24歳”というのはギタリストとしての信念を強く持つために、その歳をずっと心に刻もうと思って命名したんだよ。このEuphoriaっていうアーティスト名を付けたのも、それが大きく影響してるし。


──そうだったんですね。


橘高:Euphoriaという言葉には「至福の瞬間」という意味があって、俺がこうなりたいっていう気持ちをEuphoriaって名前に込めている。「自分なんて」「私なんて」と言ってる中に差し込む光、伏せてる目をちょっと上げるだけで見つかるその光がEuphoriaなのね。俺はそれを見つけたおかげで、戦いながらも32年のキャリアを迎えることができた。正直、パニックのせいでこういうインタビューの場にも来ることができないこともあったけど、それを筋少のメンバーは「橘高は怠けてる。ダメな奴ですみません。『踊るダメ人間』とは橘高のことです」とジョークで片付けてくれた(笑)。メンバーはちょっと知ってたんだけどね。そのまっただ中、筋少が2年間の活動休止するさなかに作ったのがEuphoria。だからEuphoriaには「光を探すことを諦めない」っていう願いが込められてるの。ポジティブに聞こえるかもしれないけど、ネガティブな奴がこういうことを言ってるんだからね(笑)。俺みたいな奴にも見つけられるんだよ。不登校でネガティブな俺が言うポジティブだから、信じてもらえたら一緒に「魅惑の楽園」、つまり「DREAM CASTLE」に行けると。「DREAM CASTLE」は「俺なんて」「私なんて」って奴が笑顔で踊れる場所で、それがライブの場なんだと思う。きっとこれは不登校だった“きったかちゃん”に対する俺からのエールでもあるんだよね。いつもやらされる側だけど、「お前、大丈夫だぜ?」って不登校の俺を救うためにもEuphoriaという希望の光に向かって生きていくんだっていう宣言なんです。


・100メートル走だと思ったら42.195キロ走ってた


──Euphoria自体が、橘高さんの人生におけるテーマであるわけですね。


橘高:そう。俺、息子が3人いるんですけど、長男の名前が「ゆうほ(漢字表記は『遊歩』)」っていうんですよ。で、次男が「りあ(漢字表記は未公開のため割愛)」。2人合わせて「ゆうほりあ(Euphoria)」、キラキラネームなんですけどね(笑)。俺がこんなにネガティブな人間で人生いっつも悩んでばかりだから、人生を遊び歩くように朗らかに生きてほしいと思って長男に命名したのが始まりなんだけど、同時に、ステージを降りた家庭の中にも魅惑の楽園、「DREAM CASTLE」があればいいなと思って。あとこれは余談だけど、2005年に出した『NEVER ENDING STORY』というアルバムの1曲目が「EUPHORIA」ってタイトルなんです。当時「Euphoria Records」というレーベルも立ち上げて、Euphoriaという俺の信念の宣言でもあったんだけど、実は……「EUPHORIA」って曲の最初は心音から始まってるんだけど、実は次男の心音なの。


──え、そうだったんですね!


橘高:まだ妻のお腹の中にいる次男の心音を録って、それにいろんなエフェクトをかけて。魂を込めるという意味で心音を入れたんだけどね。で、中盤にアコギで3拍子を刻むパートがあるんだけど、そこに入ってる子供の声は長男の声。こういうのって外タレが言うとカッコいいんだけど、日本人の俺が言うとただの親バカみたいになっちゃうから、今まで一度も言わなかったんです(笑)。


──それ、めちゃめちゃいい話じゃないですか!


橘高:ふふふ(笑)。たくさんの熱心なファンに恵まれ、プライベートでは三男も生まれてどんどん魅惑の楽園に近づいてる気がする。さらには、Perpetual DreamerやZig+Zag、Pan-d-raとギタリストとしてもたくさんの遺伝子を残せたし、今後もプロデュースは続けるつもりです。Euphoriaとは、ずっと続いていくということなんです。Euphoriaという信念のおかげで、この30周年で4バンドのワンマンライブをすべて行うことができたし、他のメンバーも健康でいられるのかもしれない、なんておこがましいことを思いました(笑)。


──(笑)。では今は、20代のときとはまた違った楽しみ方ができてるわけですよね。


橘高:そうだね、本当に俺は幸せ者です。俺は昔から、このハードロック/ヘヴィメタル(以下、HR/HM)の様式美ギタリストとして殉教者のような覚悟を持ってずっとやってきたのね。でもいわゆるCD、音楽を売るということにおいては、俺でもさすがに「なぜこんなマニアックな音楽の殉教者になっちゃったんだろう?」と思うわけ。「世の中のセンターにあるポップミュージックの殉教者的になっていたら、もっと数多くの人を救えたのかもしれない」と気持ちが揺らいだ時期もあったんだけど、その都度思ったのは「いや、違うよやっぱり」と。俺はこのHR/HMに救われた人間だから今ミュージシャンをやっているわけであって、そういう音楽をずっと貫いてこれたってことに誇りを感じるようになったのね。実はこういう音楽って短命だと思ってたの。風当たりが強い時代を何度も経験してるし、パンクが出てきたときにはダサいものの象徴になっていたし。そういう中でも俺はこの音楽の素晴らしさを伝えたかったし、ここで死んでいきたいという思いが強かった。アスリートに例えたら、長距離走をやろうと思ってなかったから、無理だと思ってたの。


──短距離走ぐらいの気持ちでいたと。


橘高:そう、100メートル走で最速タイムを出せたらいいなと。なのに気がついたら42.195キロ走ってるような状態に今はなっている。すごいことだよね。このインタビューは特にティーンの子に読んでもらえたら嬉しいなと思うんだけど、みんなはこれから先の人生なんてまだ見えてなくていろいろ悩んでるかもしれないし、やりがいなんて見つけられるはずないと思ってるのかもしれない。俺は幸い早くに見つけられて、18歳でデビューできた。でもそのおかげで、早くに失望も経験している。だってAROUGEはアルバム1枚で解散してるから、10代にして人生終わったと思ってたし(笑)。みんなも不安だろうけど、その不安は今、そして今後の糧になるから。それは至福感につながるための不安だから。不安があればあるほど至福を感じられる人間になれると信じてると楽しいよというのが、今の10代の子たちに言いたいことかな。でも今の時代は大人になっても悩んでる人は多いよね。今は終身雇用じゃなくなって、サラリーマンも俺たちみたいなミュージシャンと同じ時代になったのかもしれない。俺は同世代の人にアドバイスできるほどの人間ではないけど、俺みたいな奴でも長年やってこられたってことを励みにしてもらえたらいいんじゃないかな。


・夢に対する思いが強ければ強いほど、苦しいことが苦しくなくなる


──ちょっと話題は変わります。橘高さんは現在Euphoriaを含めると3つのバンドに在籍していることになりますが、昔のバンドマンは「固定のバンドはひとつだけ」みたいな固定観念が強かったですよね。


橘高:ありましたね。HR/HMの人間は特にそうでした。俺がどこかのバンドに呼ばれて、セッションしたりギターソロを弾いたりというのもあまりいいものではなかったし。そこに対して“きったかちゃん”は一番うるさかったから、俺はやらないように心がけていたんです。でも筋少が2年間活動休止をしましょうとミーティングで決まった1994年にEuphoriaができた。逆にそこでEuphoriaを作っておいてよかったなと。それがなかったら、その後も筋少1本になってただろうし、筋少を脱退してX.Y.Z.→Aを組んだ後も筋少を再結成するという話もできなかったと思うし。ただ、これが大槻の場合はバンドではなくて小説であったりエッセイであったりオカルトだったり超常現象であったり(笑)、いろんな手段でいろんな表現ができた。実は横で見ていて大変そうだと思いながらもすごいなと思っていて。だってスタジオにいても東スポから難しい本まで読んで、空き時間には映画を観に行って、その結果歌ってる時間が一番短かったんだから(笑)。


──大槻さんらしいですね(笑)。


橘高:でも俺には音楽だけだったから、音楽をいろんなバンドでやるなんていう選択肢は当時なかった。ところが今は、バンドを組む人間によってカラーが変わることが楽しいし、それこそがバンドのケミストリーだと思うし。音楽バカでもギターバカでもいろんな楽しみ方で、いろんなファンと会えることを知ったら、もうやめられないんだよね。だからEuphoriaもやりたいし、山田晃士とも一緒にやりたい(笑)。もういいですよ、4つやれたらやりたいですよ!(笑) あーあ、聞かれちゃった。“きったかちゃん”に「ついに言ったね」って言われそうですよ(笑)。


──(笑)。でも1999年にX.Y.Z.→Aが結成された翌年、それこそ二井原さんもLOUDNESSに復帰することになりましたし。


橘高:二井原さんはあのとき、それまでやっていたSLYが活動休止したんですよ。で、同じ時期に(ファンキー末吉と和佐田達彦が在籍する)爆風スランプも活動休止になり、俺も筋少の活動凍結宣言の後にいろいろあって脱退することになって、あの4人が集まった。X.Y.Z.→Aというバンド名は、「X.Y.Z.」でそれぞれアリーナまでやった連中のキャリアが閉塞したことを示し、「→A」には20世紀から21世紀を迎えるうえで新しいキャリアをもう一度始めるという意味が込められているんです。そうしたら新しいキャリアを始めたことによって、数年後には筋少も復活できたし、LOUDNESSのリユニオンにも貢献できた。結局俺、言ってることは何ひとつ変わらないんだよね。Euphoriaっていうのも「Z」から「A」に行くっていうのも、悲観的で人生を嘆いている奴がそこで終わらないようにするってこと。至福の楽園へ行こうよと思い続けていれば、夢は必ず叶うっていう。いや、必ず叶うとは言い切れないか。でも夢に限りなく近づくためには、夢を持っていなければいけない。これだけは言えるかな。で、その夢に対する思いが強ければ強いほど、苦しいことが苦しくなくなる。強い思いこそが予期不安を取り除く。そういうことを、俺はみんなに少しは見せてこれたんじゃないかと思ってます。


・ボーカリストは俺が一番憧れているポジションかもしれない


──橘高さんは4つのバンドで山田晃士さん、大槻ケンヂさん、二井原実さん、tezyaさんというそれぞれ個性の異なるボーカリストと活動してきました。橘高さんはギタリストにとってボーカリストという存在はどうあるべきと考えていますか?


橘高:これはギタリスト共通の考えだと思うけど、ギタリストにとってのボーカリストって自分自身の声なんだよね。なのでいつも曲を書くときというのは、例えばEuphoriaの曲だったら隣にtezyaがいると想像して、tezyaがパフォーマンスを始めるのを待つ。そして歌い始めたらそれをコピーする。それが俺にとっての曲を書くという行為。つまり俺の音楽を奏で始めるのは、そのときのボーカリストなの。


──それは面白い話ですね。


橘高:で、ボーカルがサビを歌い上げた後にギターソロへ突入するところで、俺はカタルシスを感じる。だから、歌い上げてくれないとギターソロの意味も感じないくらい。曲によってはCHEAP TRICKやグランジの曲みたいにギターソロがなくてもいいと思ってるけど、ボーカリストがグワーッと行った後にギタリストがギターソロを弾くのってたまらなく快感なんだよ。なので、俺にとってのボーカリストというのは音楽を奏で始めるきっかけの存在であり、そのきっかけの存在がいる限りは枯渇しない。逆に言えば、その俺を触発してくれる「隣に立つ人」を探し続けた日々なのよ。


──なるほど。


橘高:筋少に入った理由も、大槻が俺を煽るボーカリストだったから。山田晃士もそうで、俺は彼と16歳のときにスタジオで会ってるけど、歌った瞬間にイマジネーションがいっぱい湧き出てきたの。二井原さんなんか当然そうでしょ。俺がガキの頃から聴いてきた人だから、触発されないわけがない。で、tezyaはオーディションで選んだんだけど、実はそのとき候補が2人いて。1人はHR/HMをやってたボーカリストで、その人からは俺は新曲は聴こえてこなかった。なぜなら、俺は筋少をやってるしAROUGEをやってきたから。でもtezyaからはすごくグラマラスで退廃的なものが感じられて、イマジネーションを掻き立てられた。ちょうどEuphoriaでやりたかった世界観もグラマラスでデカダンスなものだったし、彼は俺と同じネガティブなタイプだったのもよかった(笑)。


──今まで会ったことのないタイプだったからこそ、余計にインスピレーションを得られたと。


橘高:そうだね。結局ボーカリストっていうのは、実は俺が一番憧れているポジションなのかもしれない。やっぱりボーカリストというのはいつでもバンドの代表だと思うし、そうじゃないバンドはダメだと思ってる。こうやって30周年を迎えることができたのは、いいボーカリストに恵まれてきたからというのが象徴的な事実だと思うよ。だって弱いボーカリストとはやりたくないし、だったら俺はひとりでやるなあ。実際そういうバンドもいるけどね、こと様式美の世界には(笑)。でも俺の場合はひとりでやるよりもボーカリストと戦い続けている関係が一番健全だと思うし、そういうライバルでありパートナーが欲しかった。これはずっと言いたかったことだけど、今まであまり言う機会がなかったことですね。


──そこが橘高さんと世の様式美ギタリストとの大きな違いなんでしょうね。様式美ギタリストの中には自分のプレイを一番に聴かせたくて、そのプレイを映えさせるために隣にボーカリストを置くという人もいますし。


橘高:例えばマイケル・シェンカーは……って、同じレコード会社だからあんまり言わないほうがいいか(笑)。ボーカリストが何人もチェンジしたようなバンドの場合、個性が弱いボーカリストのほうがギターソロが良かったっていうケースも確かにあるからね。ゲイリー・バーデンとは言わないけど(笑)。


──(笑)。でもすごく納得できました。


橘高:でも本当にあるんだよ。ギタリストは同じなのに、ボーカルによってギターが違うように聴こえるというのは。あとボーカリストのキーや声域の違いでギターソロのレンジも変わる。俺の場合も、筋少もX.Y.Z.→AもEuphoriaも違うって言われるし。こういうジャンルをあまり聴いてない人には全部一緒に聴こえるかもしれないけど(笑)。


・ギターのフレーズは無限だし、それが様式美の楽しいところ


──日本のロックリスナーの中には、橘高さんの音楽で初めてHR/HMの世界に触れたという人も多いと思います。


橘高:そうかもしれないですね。例えば筋少としてテレビによく出たことで、俺がギターを弾く姿を観て初めてギブソン・フライングVを知った人もいれば、初めてマーシャルアンプを観た人もいる。そういう人たちを相手にしていると、たまに俺のフレーズに対して「またああいう曲か」という人もいる。だからこそこの30数年、俺は世界観は同じでも、全く同じフレーズにならないようにするのを生きがいに頑張ってるのね。1弦から3弦に行ったんだったら、今度は3弦から1弦に行く。数の組み合わせは本当に無限だし、それが様式美の楽しいところでもある。と同時にすごく閉鎖的な世界でもあるから、余計にボーカリストが大事になってくるのかもしれない。


──それが橘高さんのオリジナリティにつながったわけですね。そういう橘高さんに影響を受けたギタリストも多いのではないでしょうか。


橘高:そういうギタリストの中には、すでにプロの世界で活躍している人もいる。でも、なぜ彼らがプロになれたかというと、影響を受けつつも俺と同じことをしなかったから。俺がきっかけでギターを初めて、俺が昔出した『100%橘高文彦』っていうギター教則本を買ってくれたと言うバンドマンも多いし、フェスでも楽屋に挨拶に来てくれる人もいる。そういう人は「え、君が俺から?」っていう異ジャンルに多くて、逆に同ジャンルの人は俺に直接会ったときは言ってくれるのにインタビューではあまり言ってくれない(笑)。でも言ってくれないってことは、俺のことをライバルだと思ってくれてるんだなと解釈できて、それはそれで嬉しいんだけどね。


──それこそ、様式美の人たちならではの負けず嫌いというか。


橘高:かもね(笑)。でも、俺を超えるために俺と同じ方向じゃないところに独自性を見出してくれた異ジャンルの人たちに対しては、とっても嬉しいなと思ってる。俺はこれでひとつ極めるために、このジャンルをやってるのに、彼らは違う考え方、違う遺伝子を持って別の方向を極めようとしてる。POLYSICSのハヤシくんなんて、まさにそうだよね。もちろんバリバリの同系統で極める人もいて欲しいと思うし、そういう人たちもそろそろ「影響受けました!」とインタビューで言ってくれると嬉しいんだけどな(笑)。俺はLOUDNESSの高崎晃さんやBOW WOWの山本恭司さんからバリバリ影響受けてると言ってきたけどね。


──さて、ここまでたくさん貴重なお話を伺ってきましたが、今後も橘高さんは今のペースで筋少、X.Y.Z.→A、そしてEuphoria、もしかしたら山田晃士さんとも一緒に(笑)、このペースで活動を続けていくんでしょうか?


橘高:いやいや、このペースはなかなか大変なんですよ(笑)。ただ、もうひとりの自分がこのペースを望み続ける限りは、リクエストに応え続けられる限り……っていうかね、負けたくないだけなんだよね。これはギタリストによくあることなんだろうけど、弾けないフレーズを意地でも弾けるようにする人種だからさ(笑)。今はもう酒は止めたんですが、昔は朝まで酒飲んだりしたのもそうなんだけど、負けず嫌いでいる限りはこのペースで続けていきたいし、それで喜んでくれる人がいてくれるのなら嬉しい限りだなと思います。だって作品をリリースしたりライブをやったりしても、「別に誰も望んでないよ」って言われたら“永遠の24歳”とか言ってられないし。ただの変なオジさんになっちゃいますよ(笑)。そういう変なオジさんが変なままでいられて、それを待ってくれている人がいて、さらに次も望まれることがある限りは、ずっと変な人でい続けられるからね。それが一番幸せなこと、つまりEuphoriaな状態、至福の瞬間なんだと思います。(取材・文=西廣智一)