トップへ

サエキけんぞうの『君の名は。』評:アニメだから表現できた、人物と都市描写の“快感”

2016年09月11日 16:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「君の名は。」製作委員会

 『あまちゃん』以来、NHKの朝ドラを見る習慣がついてしまった。『ごちそうさん』『花子とアン』からは、明治~大正~昭和の舞台が多く、そこではセットと衣装、そして髪型の再現について眼が釘付けになることが多い。NHKだから時代考証のフィルターを経ていて、完璧に近いと思われるセットと衣装、小道具には感心させられるが、問題はヘアメイクだ。


参考:新海誠、『君の名は。』で新たなステージへ 過去作との共通点と相違点から読み解く


 現在放映中の『とと姉ちゃん』は昭和30年代という自分がギリギリ記憶を持っている時代にかかっているため、余計気になる。昭和期の登場人物の髪型については、ズバリ再現ができているとは言い難い。まず毛質が再現できない。昔の女性は今よりもずっと髪がゴワゴワしているので、毛質感の再現が不可能なのだ。次に昔の髪型は大半が、今見るとカッコ悪い。無理矢理再現をしても、多くの視聴者にとっては、とっつきにくくヤボったくなってしまう。そこで制作陣は工夫を凝らして、今見ても魅力的に見えるよう「妥協点」を探る。朝の連続ドラマは、ヘアメイクの落としどころを探るプロジェクトでもあるのではないだろうか。


 そこで『君の名は。』である。『君の名は。』はリアルと作画との距離間の落としどころが、ギリギリまで突き詰められている。アニメで人間の存在感を肉体感たっぷりに表現するということは、実写で時代の違う髪型を現在的な臨場感で新しく表現するということと、実はそんなに遠い作業ではない。


 冒頭の女子高生、主人公・宮水三葉の起床姿にまずノックアウトされた。心が入れ替わってしまう男子高校生、立花瀧の視点から見た“自分の胸”のシーンは、思いがけないエッチさに男子なら不意打ちをくらうだろう。特に乳頭などが出ているわけではない。女子にならなければ一生見ることのないアングルがポイントだ。コマ運びが上手いのか、自分が女子の身体になっているという臨場感が半端なくコソばゆい。


 現実を土台にしたアニメだからこそ作り出せる、人物描写の“体感”と“フェティシズム”。現実にはないけど、アニメ作品だからこそ体感できる快感。『君の名は。』は、そこが突き詰められているのだ。


 どちらも“フィクション表現”の勝負。朝ドラは、物語を印象深く伝えるため、ヘアメイク表現の妥協点を探る。アニメの場合は、自由に選べるアングルや皮膚の質感、表情のデフォルメ、もとより二次元であることの特徴を生かし、現実との間に“感じる”表現ポイントを決め、創作していく。


 ハリウッド映画では長年、映像ならではの描写のノウハウが蓄積され、その技術--ゴージャスな質感を持つ女性の肉感など--を堪能させられてきた。それは映画ならではの質感であり、普段の写真を見たりすると、やはり同じ人間だなあ、と思う。往年は日本映画との描写力の差に嘆息してきたものだ。例えば都会(NY)の表現で印象的だった『スパイダーマン2』(2002)のキルステン・ダンストには、映画ならではの陰影深い映像があり、ディープな都会女性ぶりを感じてシビレさせられた。しかし、近年の優れた女優は作品の中に没入するように変態を示すようで、プロモーションの写真では別の人物といっても良いカジュアルな印象なのでビックリしたもの。2000年代はCG的修正も発達していったので、俳優自身もアニメ化していってるのかもしれない。


 しかし、『君の名は。』では、そうした日本映画に抱いてきたコンプレックスを全く感じることがなかった。例えばおばあちゃん・宮水一葉と妹・四葉との朝食シーン。その臨場感は、なぜか実写では得られないカタルシスを感じさせられる。食卓の暖かさや部屋の居心地良さそうな感じ、光の加減などが人物を生き生きと描き出し、そのフェロモンだけで心地よくなるのだ。そういった快感は、映画においてはハリウッド映画の日常シーンや、テレビドラマの『奥様は魔女』のリビング風景などで感じさせられてきたのものではないか?


 祭りのシーンでは、自分の体験がフラッシュバックした。伊豆半島S市のお祭りに1980年頃に行った時のこと。そこには、生まれ育った千葉県で体験したことがなかった、ゆるやかな活気があり、濃密な人間関係を背景にした力強く優しいにぎわいがあった。成人していたので入ったヌード劇場も鮮烈な印象だった。ところが20年後に訪れたS市の祭りには、表面的な活気さはあったが、深いにぎわいが消えていた。建て替えられた街並にも平坦さがあったが、何と言っても60年代の映画に出てきそうな濃い男衆が圧倒的に減っていたことが影響していた。僕の中で「1980年のS市の風景」は、映像的記憶として脳にしまわれることになった。日本の風景はあまりにも変質していく。だからこそ、過去を映し出すことができる映像表現が非常に重要になってくる。この映画の行き交う村人や学校シーンの交流に漂う空気は、かつて我々が持っていた暖かさが漂っている。現在のネットやスマホが普及した地方の村や学校に行ってみると、その空気感は、この映画よりもっと寒くはないだろうか?


 この登校シーンや祭り場面には、現在似たような風景が目の前にあるようで、実は失われたかもしれない“日本の地方の近過去の風景”のようなものが描き出だされている。それが本作の強力な下味になっているのだ。


 一方で、対置される東京の風景にも注目だ。代々木、新宿、四谷などの、見たことある風景が、写真を起こしたようにリアルに迫ってくる。デフォルメされて、実際にはない壮大さを描いた飛騨の風景と違い、東京は可能な限り実際の構図の中で描かれようとしている。しかし、こちらも絵の中にいることが快感で、実際に東京を歩いているよりも心地よい。恐らく、この映像を見た外国人は、ますます東京に行ってみたいと思うようになるだろう。こちらもハリウッド映画で長年描かれてきた、ニューヨークやLAなどの都市描写の快感術が、日本ではアニメで可能になったと考えて良いのではないか?


 バーチャル・リアリティの手段としてのアニメ。精密なコンピュータ・グラフィクスで詐欺的に風景を改変させる今どきの実写映画も面白い。しかし、フィクションである映画は、そもそも自由に現実風景との距離を置いていいのだ。だから二次元アニメにしかできないことがあるのだ。


 接近した彗星が割れる様子や、神がいる丘に踏み込む実感などの漫画的表現にワープしたり、作品の中、場面場面で自由自在に現実との飛距離を変えていることが、アニメの機能を贅沢に使っていて素晴らしいのだ。ハリウッド3Dアニメなどベッタリと実写的な立体感を旨としたり、ひたすら精細なグラフィックスにより、壮大なシーンを再現しようとする映画群は、スタートから「どういう面白い抽象的表現を獲得するか?」というゴールについて、手段の用い方が単調である。手段に振り回されているともいえ、そもそもポイントがズレている?とさえ思わせされる。アニメだから自由自在に現実と距離を変え、今までにない感動を作り出せる。そんな可能性を感じさせる飛距離がここにはある。


(サエキけんぞう)